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はかない幸せを求めるより、なぜ未来永遠の幸福を求めないのか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
で始まる『正信偈』は、
親鸞聖人が750年ほど前に書かれたものです。
なんとしても、すべての人に知ってもらいたいことがある。
『正信偈』を書かれた聖人のお気持ちのすさまじさは、
「恩徳讃」に歌われています。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

身を粉にしても、伝えたい。
それは如来大悲の恩徳だ。
骨を砕いても、知らせたい。
それが師主知識の教えなのだ

命を捨てても、伝えたかったこと。
それが一字一涙の『正信偈』となったのです。

親鸞聖人を最も尊敬し、
聖人の教えを信奉する我々は、
朝晩、勤行(おつとめ)で『正信偈』を拝読します。
聖人が、身を粉にしても、
骨を砕いても伝えたかった教えを、
直々に聞かせていただくご縁ですから、
朝晩の勤行がいかに大切か、お分かりでしょう。
しかしせっかく拝読しても、
意味が分からなければ、私たちの大きな損失です。
本願名号正定業」
この一行で聖人は、どういうことを言われているのか、
お話しいたしましょう。

これは、
「本願の名号は、正定の業なり」
と読みます。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。
「業」とは、「働き」。
「正定」は「正定聚」のことです
から、
意味は一言で、こうなります。
本願によってつくられた『南無阿弥陀仏』の名号には、
私たちを正定聚の身にする働きがある

では「正定聚」とは、どんなことでしょうか。

●「正定聚」とは

仏教でさとりといいましても、
一つや二つではありません。
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の位があります。

これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど、相撲取りといっても、
下はふんどし担ぎから上は大関、横綱まで
いろいろあるようなものです。

中でも最高のさとり、
五十二段目の位を仏覚といい、
これ以上のさとりはありませんから、
無上覚ともいわれます。

この地球上で仏のさとりを開かれた方は、
約2600年前、インドに現れたお釈迦さま、
ただお一人。
だから三大聖人、二大聖人といっても
常に最初に挙げられ、
世界最高の偉人と仰がれています。

「正定聚」とは、仏覚の一段下、
五十一段の位をいわれるのです。

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(等覚=正定聚)

有名な達磨大師は、インドで生まれ、
仏教を伝えようと中国に渡り、
120歳まで生きたと言われます。
達磨には手足がありません。
壁に向かって9年間、座禅を組み、
手足が腐るほどに修行したからです。

その目は、ものすごい形相でにらみつけていますが、
恐ろしい感じがしないのは、
厳しい修行にあきらめようとする自分の心を、
にらみつけている目だからです。
その達磨でも、開いたさとりは
30段ほどであったといわれますから、
仏のさとりまでは遠く及びません。

また、中国で天台宗を開いた、
天台という人がいます。
親鸞聖人が
「天台ほど頭のいい者は聞いたことがない」
と言われるほどの人物ですが、
臨終に、弟子から「師匠は何段までさとられましたか」
と聞かれて、
「五品弟子位(九段目)までしかさとれなかった」
と告白しています。


ところが親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
本願の名号には、いつ一日、
仏道修行したこともない私たちを、
この世で五十一段高とびさせ、
正定聚の身にする働きがあるのだよ

と、朝晩『正信偈』に、
驚くべきことを言われているのです。

名号に救い摂られた
      聖人の叫び

その名号の働きによって救われた、
自身の喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の初めに、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
「無量寿如来に親鸞、帰命いたしました。
不可思議光に親鸞、南無いたしました」
と叫んでおられます。

「無量寿如来」「不可思議光」とは、
ともに本師本仏の阿弥陀如来のこと。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、意味はいずれも、
「救われた、助けられた」ということ。
「正定聚の身に救われた」ことです。
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ」
「阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と二度と繰り返されているのは、
何度でも叫びたい、命懸けても伝えずにおれない、
本当の幸福の厳存を、宣言しておられるのです。


●絶対に壊れない幸福

私たちが求めている幸福は、お金が欲しい、
いい人と結婚したい、立派な邸宅に住みたい、
といったことでしょう。
確かに一時満足できますが、
何かしらが忍び寄り、幸せは色あせ、
いつの間にか消えてしまいます。
また、ふとしたことで壊れてしまう
不安がつきまとっています。

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心底、私たちが求めているのは、
絶対崩れない幸福ではないでしょうか。
その絶対の幸福にしてみせる、
と誓われているのが、
「阿弥陀如来の本願」なのです。

「本願」とは、誓願であり、約束のこと。
阿弥陀仏は、無常の幸福しか知らず、
いつもガラスの不安におびえている私たちを、
絶対に壊れない幸福(正定聚)の身にしてみせる、
と誓われている。


だから、その誓いを果たすために作られた名号には、
すべての人を正定聚にする働きがあるのだ”

と言われているのが、
「本願の名号は正定の業なり」
というお言葉です。

正定聚のことを「正定聚不退転」ともいわれます。
「不退転」とは、壊れない、崩れないこと。
弥陀に救い摂られた満足は、
絶対不変ですから、「正定聚不退転」といわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」というのです。

その絶対の幸福に、南無阿弥陀仏の名号によって
救われたのだと、聖人は最初に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
ご自身のことを表明し、早く多くの人に、
こんな幸福のあることを伝えねばならぬ、
と筆を執られたのが『正信偈』百二十行なのです。

「南無阿弥陀仏」の名号を、
弥陀から賜るのは「一念」です。
親鸞聖人が「時剋の極促」
と言われるこの「一念」は、
アッという間もない、時間の際まりのこと。
これ以上短い時間はない、
という一念の早技で正定聚の身になれます。


蓮如上人はこれを有名な「聖人一流」の御文章に、
「一念発起・入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)」
平生の一念で南無阿弥陀仏を賜って、
正定聚になるのだ

と言われています。
しかも、寿命尽きれば直ちに浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開くことができる。
「南無阿弥陀仏」には、
そんな偉大なお力があるのです。

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●「われ一人、助けん」

こんな素晴らしい名号を作ることができるのは、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀仏だけです。

蓮如上人は、『御文章』にこう仰っています。

それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫んあり。
しかればここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して

大宇宙にまします仏さまは、皆お慈悲な方々ですから、
苦しみ悩んでいる私たちをご覧になられて、
何とか助けようとしてくだされた。
ところが、我々の罪があまりにも重く
助けることができなかった。

私たちは、諸仏に捨てられたのだと、蓮如上人は、
「諸仏の悲願に洩れて」
と言われています。
そこで、すべての仏に見放された罪深い私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏だけが、
「ならば私が助けよう」と立ち上がってくだされた
ことを、
「弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という
超世の大願を発して」
と言われているのです。

しかも阿弥陀仏は、本願の中に、こう誓われています。
「若不生者 不取正覚」
“もし生まれずば、正覚を取らじ”

「正覚」は仏のさとりのことで、
仏さまの命ですから、
「もし生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
というお言葉です。


例えて言うと、ある女性が、具合がおかしいので
医者に行くと、「間違いなくおめでたです。
ただ、大変な逆子。うちではどうにもなりませんので、
日本一の産婦人科医を紹介します」
大病院に行くと、「色々な子供を取り上げてきましたが、
こんな逆子は初めて。
アメリカに、世界一の医師がいます。
そこへ行くしかありません」
そう言われて、世界一の医者を求めて渡米した。
診察した医師は、やはり、
「今まで見たことない逆子ですね」と言う。
「でも大丈夫。私は一度も失敗したことはない。
必ず無事生まれさせてみせます」
それでも女性は心配そう。
その不安を晴らすために医師が、
奥さん、任せてください。
もし満足に生まれさせることができなければ、
私は医師の資格を捨てる。
医者の命を懸けて、必ず生まれさせてみせます」
と誓われたようなものです。

自覚していませんが、実は私たちは、
腹底に大変な逆子を抱えている。
その名前を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病
と『御文章』に何回も書かれています。

私たちが本当の幸福になれないのは、
この「無明業障の恐ろしき病」
にかかっているからなのです。

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なぜ有無同然なの?

お釈迦さまは「有無同然」と説かれました。
「有っても無くても、苦しんでいるのは同じ」
ということです。
幸福求めて生きているのに、
山積みの札束も、豪邸暮らしも、
理想の結婚も、心を満たしてはくれません。
無いよりは有ったほうがましだろうと
努力して手に入れても、
心の奥底から、それで本当に幸せか、と問われると、
まあこんなもんだよ、とやり過ごし、
ただ時が過ぎていく。

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見せかけの快楽に、だまし、だまされ、生きています。
合格、就職、出産、栄転、胴上げされて喜んだのも、
ああ、あれは夏の夜の花火・・・。
科学が進歩し、経済が繁栄し、医学の発展で長生きできれば、
幸福になれると思っているのも、幻想です。
あらゆる面で進歩したはずの今日も、
凄惨なニュースがあふれている。
心をなくした文明がどんなに発展しても、
有無同然の苦しみの現実は、変わりありません。

苦しみの元凶は、無明業障の恐ろしき病という
心の病だからです。
ところが、この病にかかっていながら、
そんな自覚は誰もありません。
よくよく仏法を聞かなければ、知らされない、
心の奥底の病なのです。

無明の闇・・・死後に暗い心

無明業障の「無明」とは、明かりがない、暗い心。
この心が問題なのです。

私たちは必ず死んでいかねばなりません。
嫌だ嫌だと言いながら、
死は何人(なにびと)も避けられません。
死ねばどうなるのか。
「何もなくなるよ」と言う人がいますが、
自分の子供や親が死んでも、そう思えるでしょうか。
冥福を祈る。
冥福とは、「冥土の幸福」ということで、、
冥土とは死んだ後の世界です。
死後があると思うから、
その幸福を祈るのでしょう。
しかも、幸福になっているのなら、
冥福を祈る必要もない。
どうも苦しんでいるのでは、と感ずるからこそ、
冥福を祈らずにおれないのです。
各地で慰霊をする。
慰めるべき霊がなければ、
慰霊の意味がないのですから、
死後も続く何かがあり、しかも慰めなければならない
状態だと思えばこその儀式です。
冥福を祈るのも、慰霊するのも、
死んだ人が私たちより苦しんでいるという
心情からではないでしょうか。

みな老後を心配して、年金問題に大騒ぎ。
しかし、老後で人生終わりじゃない。
一休が「世の中の、娘が嫁と花咲いて、
嬶としぼんで婆と散りゆく」
と言うように、おばあちゃん、では終わらない。
「散りゆく」先の死んだ後はどうなっているのか。
分からないではありませんか。
だから、心は真っ暗がり。
この後生暗い心を、仏教では「無明」とか、
「無明の闇」といわれているのです。

人は皆、この心をごまかしながら生きています。
それはちょうど、目をつぶったまま走っているようなもの。
目隠しして突っ走っている、といってもいいでしょう。

やがて、壁にドーンとぶつかります。
確実な未来がハッキリしない人生に、
本当の安らぎも喜びもありませんから、
これを「無明業障の恐ろしき病」にかかっている、
といわれているのです。

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●弥陀の崇高な願い

「南無阿弥陀仏」の名号には、
この無明業障の病を治す働きがあります。

いわば、難病を完治する薬が、
六字の名号といえましょう。
親鸞聖人は、それを次のように教えられています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたもう

「無碍光如来の名号」とは、
「阿弥陀如来のつくられた、南無阿弥陀仏の名号」
のことです。
「かの光明智相」とは、
「名号を、私たちに受け取らせようとする弥陀のお力」
をいいます。
「南無阿弥陀仏」の名号を命がけで完成された阿弥陀仏は、
それを私たちに与えようと、
命を懸けられておられるのです。

ところが私たちは、無明業障の病にかかっている
自覚すらありませんから、
薬を飲もうともしません。
名号を受け取る気がない、ということは、
仏法を聞く気がないということです。

仏法を聞いている人は、
なんとか名号を与えたいという阿弥陀仏のご念力によって、
引っ張り出されたのです。

言われてみればそうかなあと感じる人もあるでしょう。
その弥陀のお力を「かの光明智相」と言われているのです。

次に「無明」とは、無明業障のこと。
これは蓮如上人が「無始よりこのかた」の病と
言われているように、始まりのない始まり、
人間に生まれる前からの病ですから、
「長夜の闇」と言われています。
その「無明長夜の闇を破し」
とは、無明業障の恐ろしき病を治す、
ということです。
「南無阿弥陀仏」の妙薬で、この心の病気が全快した時、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
の生命の大歓喜がおきる。
無始より続く迷いの根元が断ち切られ、
この身になるための人生だったと、
大安心の明るい心になるのです。

「衆生の志願をみてたまう」
「衆生」とは、私たちのこと。
「志願」とは、望み、願い、希望のことです。
“ならば「衆生の志願」とは、「私たちの願い」のことで、
それを満たしてくださるのか”
と思われるかもしれませんが、違います。


私たちの願いは、食いたい、楽がしたい、眠りたい。
これ以外にありません。
弥陀は、そんな程度の願いを満たす、
と誓われているのではないのです。
果てしない過去からの「無明業障の恐ろしき病」
を一念で完治させ、未来永遠の幸福にしてみせる。
その弥陀の崇高な願いを、
私たちの衆生の上に、満たしてくだされるのだ、
と親鸞聖人はおっしゃっているのです。

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●親鸞聖人の
    「報恩講」とは

「報恩講」とは、11月28日の聖人のご命日を縁に、
「親鸞聖人のご恩に報いる集まり」
聖人に喜んでいただいてこそ、
まことの報恩です。
では私たちがどうすることが、
最も喜ばれるこのなのでしょうか。

それは、聖人が身を粉に骨を砕いても、
伝えずにおれなかったことを正しく知り、
そのとおりの身になる以外ありません。

一日も早く、「南無阿弥陀仏」の大功徳を獲得し、
いつ命尽きても
弥陀の浄土間違いなしの大満足の人生を、
心行くまで味わってください。

(平成19年10月号のとどろきから載せています。)


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