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どんな人も絶対の幸福にする弥陀の強縁 [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


どんな人も

  絶対の幸福にする強縁

 

大阪府の会社社長・小川誠さん(仮名)は数年前に仏縁を結び、

会社と、大阪のシンボル・通天閣を望む高層マンションの

11階にある自宅で勉強会を開いています。

「社員も聞いていますよ。仕事仲間に、

ゼニじゃ買えん幸福があることを伝えたいんです」

と語るナニワの社長に、仏法とのどんな出遇いがあったのでしょう。

小川さんの手記を通して今月は、仏教の根幹・因果の道理

学びます。

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「仏法は

 めっちゃええ教え

    聞かな損や」

       大阪府 小川誠さん

 

●賭け事に振り回されて

 

18年前、結婚まで考えていた彼女が末期ガンで入院しました。

何とか治ってほしいと、両親の影響で幼い頃から信じていた、

ある新興宗教にすがったのです。

どんな病も治す神サマがおって、両親も熱心に信じとるから、

効く人には効くんやろうと、信じておったんです。

ところが願いもむなしく、彼女は27歳の若さで、

私の手を握ったまま亡くなったのです。

もう、宗教なんか二度と信じるか、と思いました。

 

無類の博打好き、ギャンブル依存症だった私は、

彼女の死後、寂しさからさらにのめり込みました。

一回の賭けに数百万円をつぎ込み、

大負けして多額の借金を作ったことも。

バカなもので、そうなるとますます大博打で勝とうとして

傷を広げるんです。

給料で返せないほど借金が膨れ上がり、

悩んだ挙げ句、会社を辞めて独立。

仕事は真面目だったので順調に借金も返済し、

貯金もできましたが、依然、博打打ちは治りません。

やがて、商売よりも博打につぎ込む額が桁違いになり、

貯金は再び借金に逆戻り。

そしてある時、ボロ負けして仕事の業者への支払いが

できなくなってしまいました。

その時、悪友の誘いに乗り、人の道まで踏み外してしまったのです。

後悔と懺悔の日々、周囲の厚意で立ち直り、

しばらくは真面目に働き、借金も返済、

再び貯金ができました。

ところが、数年後にはまたしても

博打を繰り返してしまっていたのです。

 

●仏法との出遇い

 

その頃、ふとしたことで知り合った人に誘われて

仏教講座に参加しました。

「宗教なんて・・・」と思っていましたが、

理路整然とした因果律の教えを聞き、

「さすがお釈迦さまや。これは他の宗教とはちゃう。

聞かな損や」

と続けて聞きたくなったのです。

しばらくして親鸞聖人の、

「さるべき強縁の催(もよお)せば、

如何なる振舞もすべし」   (歎異抄)

というお言葉を学びました。

親鸞さまでさえ、縁が来れば「どんな恐ろしいことでもする」と

仰っている。

よくないと知りつつ、賭博や借金を重ね、

悪に手を染めてきた己の過去を思い出し、

メモを取る手が止まり、あふれる涙を抑えられませんでした。

 

●「ホンマ、縁って大事やなぁ」

 

そして、ギャンブル依存症だった私が、

いつしか続けて聞法せずにいられなくなったのです。

一方で聞法のご縁がないと〝聞きたくない〟弱い心になる。

親鸞聖人の尊敬される中国の善導大師が

「白道(聞法心)四、五寸」と言われ、

仏法に向かう聞法心が細く、弱い善導だと仰っていることを

知りました。

善導大師のような偉い方でもそうなら、自分は、

なおさらよい環境を求めねばならぬと、

自宅と会社で勉強会を開くようになったのです。

常に法友に囲まれ、博打を打つ心も時間もなくなりました。

そして今度は、自分が身近な人と仏法を結ぶ縁になりたい、

今まで苦労かけた両親に仏法を伝えたいと思ったのです。

仏教講師から、〝言葉で話をするよりも言動を改め、

ひたすら感謝の言葉をかけ続けなさい〟と教わり、

優しく接したり、母の日にプレゼントしたところ、

「仏教を聞き始めて、百八十度変わった。

よかったね」

と両親から喜んでもらえました。

また仏法では、挨拶や返事、時間や約束、

整理整頓など、よい習慣を身につけることが

大切だと教えられます。

それがその人の徳となり、生きる力となるのです。

そこで会社で早速、整理整頓の大切さを伝え、

皆で掃除をしたところ、社員も感心して話に耳を

傾けるようになりました。

仏法はめっちゃええ教えやから、

多くの人に聞いてもらいたい。

ホンマ、縁って大事やなあ、と思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  仏教は「自業自得の教え」

 

小川さんが感動した仏教とはどんな教えなのでしょうか。

仏教とは、2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまの

教えです。

仏法ともいい、三世十方を貫く道理が説かれています。

三世十方を貫くとは、いつでも(三世)どこでも(十方)

変わらないこと。

どの国に行っても、たとえ宇宙に飛び出しても

間違いのない真理で、それは仏教の根幹である

因果の道理であります。

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因果の道理とは一口で言えば、人間の運命は全て「自業自得

であると説く教えです。

これはよく耳にする言葉でしょう。

「彼があんな目に遭ったのは、ふだんの行いが悪いせい。

自業自得だ」

などと言います。

悪い事例にばかり使われますが、

本来は善いのも悪いのも、人間の全ての運命は

「自業自得」にほかなりません。

因果の道理は、私たちが最も知りたい運命の原因と

結果の関係を教えられているのです。

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ここで因とは行為のこと。

果は運命(仏教では本来、使わない言葉ですが)。

私の禍・福(幸・不幸)は全て、

私の行為が生み出したもので、万が一にも例外はない、

と教えられています。

行為(業)と聞けば、一般には身(からだ)の行いと思いますが、

仏教では心と口と身の3とおりあると教えます。

この身口意で造る行為(三業)が、目に見えない力(業力、業因)

となって、私たちの阿頼耶識という永遠の生命に

蓄えられるのです。

阿頼耶とは、インドの言葉で「蔵」の意。

阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。

過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命であり、

その実体は「暴流のごとし」と説かれています。

暴流とは滝のこと。

滝は遠くからは一枚の白布を垂らしたように見えますが、

実際は無数の水滴が激しく変化しながら流れています。

阿頼耶識は、私たちの毎日の身口意の行為(業力)を

全ておさめ、蓄え、絶えず変化しながら、

過去から現在、そして未来へと続いていくのです。

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●現在におさまる「三世」とは?

 

自分に現れる結果の一切は、私の過去の行為が生み出したもの。

未来、私が受ける運命の原因は、現在、

私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

 

汝ら、過去の因を知らんと欲すれば

現在の果を見よ。

未来の果を知らんと欲すれば

現在の因を見よ

                 (因果経)

と説かれています。

〝過去の種まき(行為)を知りたければ、

現在の結果を見なさい。

未来の運命が知りたければ、

現在の種まきを見なさい。

分かりますよ〟

これは、現在を見れば過去も未来も、皆分かる。

現在は過去と未来を包含しているのだよ、との教導です。

ここで言われる「過去」とは、吐いた息であり、

昨日であり、去年であり、

もっと広げれば生まれる前の過去世のこと。

「現在」とは、今の一息であり、今日であり、

今年であり、今生の現在世です。

「未来」とは吸う息であり、明日であり、来年であり、

もっと開けば死後、未来世のことです。

過去と未来は現在の一息におさまり、

広げれば過去世、現在世、未来世の三世となります。

因果の道理は今生だけでなく、

三世を貫く「三世因果の理法」なのです。

三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと思う人がありますが、

仏教では、一人一人に、人間として生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死後の未来世と、

三世の実在が厳然と教えられています。

このように、過去の種まきによって現在の運命が決まり、

現在の種まきによって未来の運命が作られる、

とお釈迦さまは教えられているのです。

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この因果の道理を知った小川さんは、

未来を変えたいと、両親への優しい心遣いや会社の掃除など、

自身の言動を大きく変えていきました。

お釈迦さまの教導は皆、善の勧めですから、

その実践は全て幸せの種まきとなります。

 

●すべては因縁あってのこと

 

もう一つ、小川さんが痛感したのが

「縁の大事さ」だといいます。

 

縁とは原因が結果となるのを助けるものをいいます。

一切法(万物)は因縁生なり

全ては、因と縁が結合して生じたもの

と、お釈迦さまは仰せです。

例えば米という結果の原因はモミダネ。

このモミダネがなければ、絶対に芽が出ません。

しかし、モミダネだけでも米はできない。

土や水、空気、陽気や農家の方の手間隙(てまひま)が

あってようやく実りを手にできる。

これらを縁というのです。

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種々の運命が私たちの上に現れるのは、

三世を流れる阿頼耶識(永遠の生命)に

蓄積された業因が縁と和合してのことです。

今秋、世界を沸かせたラクビーワールドカップでの

日本代表の躍進は、エディー・ジョーンズ監督の

厳しい指導によるところが大きいといわれます。

(2015年のとどろきです)

この場合、監督の指導という縁によって、

世界一過酷といわれる練習を重ね、

その努力(因)がワールドカップ3勝という

空前の結果となったのです。

同じチームでも、指導者や環境などによって結果は

大変わりしますから、縁の重要性が知らされます。

 

「善知識・同行に親近せよ」

 

仏法を求める時には、善知識(先生)・同行(友達)という

縁が大切です。

小川さんは、そのありがたさをこう述懐しています。

「朝夕の勤行(おつとめ)が大事だと教えてもらった時、

仕事のつきあいで夜中まで飲んだりする自分には

難しいなと思いました。

ところが初めに誘ってくれた法友が毎朝、

私の会社に来て、一緒に勤行してくれたのです。

おかげで毎日勤行ができたんです。

とてもありがたかった」

自己の弱い心と向き合えば、

法友や環境に親近する大切さも知らされ、

一歩一歩光に向かっていくのです。

 

この「善知識・同行に親近せよ」の教導がいかに大事か。

悪師に翻弄されながら、お釈迦さまと出会って

生まれ変わった仏弟子から学びましょう。

 

釈尊(お釈迦さま)が生存中、コーサラ国の、

ある外道の弟子に、才知、弁舌、体力ともに優れた

オークツマラという美青年がいた。

彼の師の妻は、その魅力に引かれ、

あろうことか夫の不在を計って密通を迫った。

物堅い彼は、断固その誘惑を拒み、

彼女の不倫をいさめる。

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女の身の恥ずかしさ口惜しさに打ちしおれ、

すごすごと彼女はその場を立ち去ったが、

やがて狂わんばかりの愛恋は激しい憎悪となって、

恐ろしい復讐を企んだ。

たまたま夫の帰宅を見計らい、自らの着衣を引き裂き、

下半身あらわな姿で床の上に打ち倒れたまま、

不在中のオークツマラに不倫の恋を強いられ、

こんな辱めを受けたと涙ながらに訴えたのである。

愕然とした夫は、激しい嫉妬に燃え、

平凡な一時的な復讐よりも自滅に仕向け、

永遠の辛酸(しんさん)をなめさせてやろうと考えた。

そこでさりげなく彼を呼んで、こう命じる。

「おまえはもう、ワシの全ての教えを修得した。

後はただ一つ、この剣で街の辻に立って100人を殺し、

一人一人より一本の指を切り取って、

首飾りとするがよい。

さすれば、おまえのさとりの道は成就するであろう」

と一口の剣を渡した。

意外な残忍な行為を命じられ、彼は一時躊躇したが、

師命に逆らうことはできなかった。

憤然と意を決して街頭に立ち、

阿修羅のごとく道行く老少男女を問わず殺害し、

それらの指を切ってつなぎ、

見る見るうちに紅に染まった鬘(かずら・首や身体の飾り)を

作り上げ、ついに99人までになる。

この噂はたちまち四方に伝わり、

誰言うとなく彼をオークツマラ(指鬘・しまん)と呼んだ。

狂気のごとくあと一人を狙っていた時、

100人目に現れたのがなんと〝生みの母〟と

〝お釈迦さま〟であった。

誰からともなくわが子の恐ろしいふるまいを聞いた母が、

驚いてやってきたのだ。

彼はもはや、誰彼の見境もなかったが、

釈尊目掛けて猛然と襲いかかった。

ところがどうしたことか、一歩も前進できない。

彼は焦って鋭く叫ぶ。

「沙門(しゃもん)よ、止まれ!」

お釈迦さまは、静かに応じられる。

「我は止まれり。止まらざるは汝なり」

不可解な答えに、彼は驚いてワケを尋ねる。

そなたは邪教にだまされて、

みだりに人命を奪おうと焦っている。

だから少しも身も心も安らかになれぬのだ。

私を見よ。生死を超えて何ら煩うところがない。

惑(まど)える者よ。早く悪夢より覚めて無上道に入れ

お釈迦さまの尊容と無上の威徳に接して、

さしもの悪魔外道も慟哭し、たちまち敬虔な仏弟子となっている。

「わが弟子の中、法を聞いて早くさとること、
(さとるとは、阿弥陀仏に救われたということです)

指鬘(しまん)のように勝れた者はなし」

とお釈迦さまは言われたという。

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●弥陀の救いと因果の道理

 

ではお釈迦さまが宇宙の真理である因果の道理を説かれ、

廃悪修善(悪い行いをやめて善を修めよ)の教えを

勧められた真の目的は何でしょう。

親鸞聖人は『正信偈』にズバリ、

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

釈迦が仏教を説かれたのは、

「阿弥陀仏の本願」唯一つを説くためであった

 

と明らかにされています。

阿弥陀仏の本願とは、大宇宙にまします仏方の

本師本仏(先生)である阿弥陀仏が、

「どんな人も

必ず絶対の幸福に救う」

と命懸けで誓われたお約束です。

親鸞聖人は、釈迦一代の教えは、

この弥陀の本願を明らかにするためだったと断言され、

その教えに従ってご自身も、

弥陀の本願一つを生涯、明らかにされたのです。

 

因果の道理を信じ、真剣に修善に向かうと、

知らされるのは、まことの善のできない自己の姿。

こんな者は弥陀の本願によらねば毛頭救われないことが

知らされてきます。

そして弥陀の本願に明らかに救い摂られた時、

本当の自分とはどんな者であったのか、

ハッキリ知らされます。

 

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし

縁さえあれば、どんなことでもやる親鸞である

 

これは阿弥陀仏の光明によって照らし抜かれた自身の姿を、

親鸞聖人が告白なされたお言葉です。

「縁さえ来れば、どんなことでもする」

とは、「どんな業因(ごういん)でも持っている」ということ。

遠い過去世から生死を繰り返しながら、

私たちはいかなる行いをもし、

あらゆる業因を造ってきた。

だから縁次第ではいかなることもしでかし、

どんな結果も受けるだろう、と親鸞聖人は仰るのです。

これは聖人だけのことではありません。

阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)を

「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊の人間)」とか

「一生造悪(死ぬまで悪しか造れぬ)の者」と

見て取られ、そんな極悪の者を、

「一念に絶対の幸福(往生一定)に救う」と誓われています。

弥陀の本願は何と値(あ)い難く、

強い縁(強縁)であったのか、どれだけの生死を経ても

毛頭あえぬ救いにあえた、と親鸞聖人は

 

「噫(ああ)、弘誓(ぐぜい)の強縁は

多生にも値(もうあ)い難く、

真実の浄信は億劫にも獲がたし」

(ああ・・・不思議なるかなや、親鸞は今、

多生億劫の永い間、求め続けてきた

歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない)

 

と高らかに宣言なさっています。

このご本願を聞き求める以上の尊い仏縁はなく、

この強縁にあわずして、誰一人、真の幸福にはなれません。

弥陀の本願に救われるには「聴聞に極まる」。

仏法は聞く一つですから、

〝こんな私が本当に助かるのだろうか〟

と疑い計らってモタモタせずに、

真剣に弥陀の本願を聞きなさいと勧められています。

尊き仏縁を求めて、真剣に弥陀の本願を

聞いていただきたいと思います。

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