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苦しみの根源は煩悩ではなく、無明の闇! [親鸞聖人]

 


無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり
      (浄土和讃)

親鸞聖人のご恩に報いるには、
喜んでいただけることをしなければ
なりません。
それには聖人が生涯、教えられたみ教えを知り、
信従するのが一番です。
仏教は苦しみの原因を無明と断定しています。
無明とは明かりのない心、臨終に真っ暗になる心です。

還来生死輪転家
決以疑情為所止
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
苦しみが際限もなくやってくるのは、
疑情(無明)が原因、と断定されています。

●煩悩と闘われた聖人

ところが、私たちはそう思えません。
お金や物質に恵まれれば、
政治や経済がよくなれば、
幸福になれると信じています。

さらに苦悩の根源を追求してゆくと、
煩悩につき当たります。
煩悩が苦悩の原因のように説かれるお経もあり、
体験上も、もっと欲が淡泊であればとか、
短気だから苦しむんだと思われます。
欲や怒りや愚痴の心を煩悩と名付けられたのは、
まことにその通りです。
仏教を大別すると、聖道仏教と浄土仏教の二つになります。
聖道仏教では、煩悩を苦しみの根源のように教え、
親鸞聖人は9歳から比叡山天台宗で、
『法華経』に説かれている難行苦行をなさいました。

煩悩が苦しみの原因のように教える方便の仏教と、
20年間取り組まれたのです。

聖人が如実に煩悩と闘われたお言葉は、
定水を凝らすと雖も識浪(しきろう)頻(しきり)に
動き、心月を観ずと雖も妄雲(もううん)猶覆う

でした。
方便を仮、真実を真ともいい、
仏教には真仮が説かれています。

真仮が分からずして助かる道理がありません。

煩悩によって日夜苦しんでいる私たちが、
苦悩の根源を煩悩と間違えるのはいたし方ありませんが、
いつまでも方便に留まって真実を見失ってはなりません。
(真は真実の教えで、仮は方便の教え、
つまり、真実の教えである“弥陀の救い”に値わせるために方便の教えを説いた。)

善悪と信疑

無明の闇を体験的に知るのは並大抵ではありませんが、
無明を解決しなければ、
生死輪転の家に還来し続けるのです。

煩悩をみつめてゆく中に、
無明が苦悩の根源と知らされてきます。
無明と煩悩を混同している人ばかりです。
煩悩と無明の区別がつかなくては、
親鸞聖人の本当のみ教えは分かりません。

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煩悩は善悪相対であり、
無明は信疑廃立、全然違います。

仏教では煩悩具足、煩悩成就の凡夫と教えられるように、
煩悩は死ぬまで無くなりません。

無明はきれいになくなるときがあります。
無明が分かるのは臨終ですが、
肉体の臨終に分かっても手遅れ、
心の臨終にたたない限り、解決できません。

後生暗い人(死後がハッキリしていない人)を愚者と
仏教では言います。

蓮如上人は『御文章』に、
八万の法蔵を知るというとも、
後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、
後世を知るを智者とす

と仰います。

後生明るい人は、どんな人であっても智者、
後生暗い人は、学者であっても愚者です。

人生の智者か愚者かは、
無明が晴れたか否かで分かれます。

無明の闇は学問では分かりませんが、
真面目に己れの死を見つめてゆくと知らされてきます。

親鸞聖人29歳の御時、
「信受本願 前念命終」
と仰っているのは、心の臨終です。

闇を破する弥陀の本願

無明を破るのが光明。
光明は仏教では智慧といい、
後生暗い心を解決できる仏は、
阿弥陀仏しかなく
釈尊(釈迦)は阿弥陀仏を
智慧光仏と名づけておられるのです。

「凡夫にそんなハッキリできるものか」
という人は、
阿弥陀仏が無明を破ることができるかと
疑っているのと同じです。
我が身の無明さえも知らず、
破っていただいた体験がないのは当然。
無明が破れなければ、
阿弥陀仏は智慧光仏ではなくなり、
釈尊も親鸞聖人もウソつきになります。
親鸞聖人は、阿弥陀仏によって無明を破っていただかれ、
「釈尊が智慧光仏と名づけられたのは、
まことだったなあ」
と感動的に仰っているところです。
一切諸仏も三乗衆もほめたたえられます。
一切とは十方微塵世界。
大宇宙には数え切れない仏がましまし、
三世諸仏、一切諸仏といいます。
三乗衆とは、声門・縁覚・菩薩のこと、
私たちとはケタ違いに勝れた人たちが
異口同音にほめたたえられます。
それは三世諸仏も三乗衆も破れなかった無明を
阿弥陀仏が破られるからです。

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●真の報恩

親鸞聖人の生涯は、阿弥陀仏一仏に向かってゆくと、
必ず無明が破られるときがある、
そこまで聞き求めなさい、のご教示です。

私たちが無明の晴れるまで求め抜いたとき、
親鸞聖人は一番お喜びになられるのです。

 


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