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極楽に往生するか、地獄へ堕つるか、あなたはどちらを選びますか!? [後生の一大事]

今日から始める「終活」のススメ

「終活」
近頃、新聞や雑誌でしばしば見かける言葉です。
(平成23年のとどろきを載せています)
学生が行う「就活(就職活動)」のことではありません。
「終わりの活動」の略で、
昨年の流行語大賞候補にも選ばれました。

やがて訪れる人生の終末に向け、
元気なうちから葬儀や墓、遺言について考え始める。
そういう活動をする人が今、増えているようです。
“終活”において本当に大切なこととは何か。
仏さまの教えから学びましょう。

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●自分らしい最期を、
   自分で決めたい

昨年のヒット商品「エンディング(終末)ノート」は、
テレビ番組で紹介されて話題となりました。
(平成23年のとどろきから載せています)
大手文具メーカーが発売するや、
年間目標の5万冊がわずか一月ほどで売れてしまったといいます。
書式の決まっている遺言書とは違い、
エンディングノートには、
「人生の終末をこう迎えたい」という理想や要望を
自由に書き残せるようになっています。
葬式や墓の形式、延命治療の希望、相続についてや、
知人の連絡先といった自分しか分からない情報も
細かく書き留めておけます。
日記感覚で書ける手軽さから、
若い世代にも支持されているようです。

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エンディングノートを書く動機はいろいろあるでしょう。
あるテレビ番組で、
「2人の子供に迷惑をかけたくないので」
と語る60代の主婦が紹介されていました。
夫が他界した際、
「夫が喜ぶ葬式とは?
他人とは違う、夫らしい形で見送りたい」
と孤軍奮闘。
その経験から、家族が苦労しないよう、
早いうちに“自分らしい最期”を決めておこうと
思ったそうです。
かつて、葬儀は地域単位で取り組むものでした。
その土地の慣習になたって執り行われ、
近所の住民が総出で手伝ったものです。
しかし隣近所とのつきあいが希薄になった今日、
葬式は“限られた人たちのもの”となってきました。
長引く不況の影響もあって、
何事もお金をかけず効率的に済ます一方で、
先の主婦のように、多くの人が葬式や墓に、
「その人らしさ」を求めるようになったのです。
身内や親友だけで行う「家族葬」や、
火葬のみで済ます「直葬」、
墓地に埋葬せず山や海に遺灰をまく「自然葬」といった
新たな弔いの形が定着し、
型にはまらない理想の墓石を生前から準備する人が
増えてきたのもこのためでしょう。

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また、『朝日新聞』が昨年行った世論調査では、
3人に1人が自分の葬式を「しなくてもよい」と答え、
「墓は要らない」と考えている人も2割近くあったといいます。
価値観が多様化する現代は、
「自分の最期は自分で決める時代」
になってきたのかもしれません。

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●死を見つめることが、
  なぜ前向きなの?

こんな風潮に、
「死ぬ準備なんて、エンギでもないわ・・・」。
そう思う人も少なくないでしょうが、
ある専門家は、
「終活は、自分の人生を振り返り、
前向きに生きていくための準備」
と語っています。
「えっ、死を考えることがなぜ前向きなの?」
と驚く人があるかもしれません。
言うまでもなく、死は、私たちの百パーセント訪れる未来。
一日生きれば、一日死に近づく。
今こうしている間にも、確実に墓場へ向かって
行進しているのが事実です。

昨今の、先の見えない世相もあり、
将来にさまざまな不安が見え隠れします。
“心安く老後を送りたいけれど、
国の年金も何だか当てにできないから、
経済的な備えが必要だ。
体が動かなくなったら、介護をどうしよう。
家族にはできるだけ負担をかけたくないし・・・。”
真面目によりよく生きたいと思うほど、
心配事が山積していることに気づくはず。
そんな不安を未来に抱えたままでは、
今を思い切り生きられないのではないでしょうか。
備えあれば憂いなし。
元気なうちからそれら心配のタネを一つ一つ解決していくことで、
“もしもの時”にも慌てずに済みます。

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こうして、やがて必ず行き着く「死」へ目を向ける人が
増えてきたことは、大変、意義深いことだといえるでしょう。
しかしそのような終活も、
最も大事なことが抜けていたならば、
すべて水泡に帰してしまいかねません。
最も大切なことに取り組む、
それこそ本当の“終活”であることを
教えられているのが、仏教なのです。

人生という電車を降りたら・・・

多くの人が終活で重視しているのは、
葬式・墓・遺言など、いずれも「死に方」について。

では仏教で大事といわれる“終活”は、
どんなものなのでしょう。仏教は、
「死んだら、どこへ行くのか」
という「行く先」を問題にしているのです。

ちょっと想像してみてください。

あなたは今、電車に乗っています。
車内は混み合い、空席はありません。
しばらくして、そばに座っていた人が降りる準備を始めました。
辺りをキョロキョロ見回しながら、
「苦労に苦労を重ねて手に入れたこの席を、
誰に譲ろうか・・・?」

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やがて降りていかねばならないのに、
いつまでも自分の席に執着している人を、
どう思いますか?
まして降りた後もなお、“あの席は・・・”
とこだわる人はありません。

駅に着いたら問題になるのは、
“これからどこへ向かうのか?”
という「行く先」一つでしょう。

ここで座席とは、生前、身の回りに集めた金や財産、
地位、名誉などです。
人生という“電車”を降りる時、
遺族が“座席”を奪い合うことのないように
配慮することは大切です。
しかし、降りたらどこへ行くのか、
己の「行く先」こそ、
最も問題にしなければならないのではないでしょうか。

富山県の内野清美さんは、
死に直面した友人に接して知らされたことを、
こう語っています。
ハツコさん(仮名)とは、一昨年の春に知り合って以来、
よく一緒に聞法していました。
永年、世話をしていたご両親を見送り、
独りになった心の穴を埋めたくて、
仏法を聞き始めたそうです。
ところがちょうど一年前、ハツコさんはわき見運転の車に
はねられてしまいました。
一晩中、生死の境をさまよい、
医師も家族も諦めていたほどでした。
私は事故のことを、翌日知りました。
見舞いに行かねばと思った矢先、
ハツコさんの娘さんから電話がかかってきたのです。
「先ほど意識の戻った母が、
開口一番、『内野さんに連絡して!』と言うので・・・」
吹雪の中、すぐに病院に向かうと、
集中治療室(ICU)で全身、機械につながれたハツコさんが。
特別に許可をもらい、私がICUへ入るや、
ハツコさんはこう言いました。
「内野さーん、今日、仏法聞きに行けなかった・・・。
『後生の一大事、まだ解決してないのに、死なれん!』
と思ったら、目が覚めたんよ」

事故の前は、
“話は分かるけれども、なかなか納得できなくて・・・”
と言っていたハツコさんの心が、
大きく変わったことを感じました。
死に直面すると、「死んだらどうなるか」だけが
大問題になるんですね。

夏の終わり頃に退院したハツコさんは、
つらいリハビリに耐えながら、
また聞法へ足を運ぶようになりました。

行く先は
   2つある

「死んだらどうなるのか?」
この重大な問題を詳しく教えられた方が、
仏教を説かれたお釈迦さまです。

その「行く先」に2つあると説かれています。
一つは、「無量光明土」といわれ、
とても明るい弥陀の極楽浄土です。

蓮如上人は『御文章』にこう書かれています。

「信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
諸共に今度の一大事の往生を、
よくよく遂ぐべきものなり」

平生に阿弥陀仏の救いに値って、
皆にもその不可思議の救いの素晴らしさを伝えて、
ともに無量光明土(弥陀の極楽浄土)へ往き、
仏に生まれる一大事を遂げねばならない

いつ一日として修行したこともない私たち。
日々考えているのは、
“どうすれば自分の欲を満たせるか”。
おいしい食事や儲け話、
耳や目や舌を楽しませることばかりでしょう。

たまに、どこかで困っている人の話に心を痛めてみますが、
ほとんどの時間は自分の欲求を最優先して、
ノンキに生きています。
有名な『歎異抄』には、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」
とあるように、朝から晩まで欲・怒り・妬みそねみの
煩悩に振り回され、罪悪ばかりを重ねているのが
私たち(衆生)だといわれています。
そんな実態の私が、死ねば弥陀の浄土に往って、
仏に生まれる(往生)というのですから、
まさに「一大事」でしょう。

次に、もう一つの「一大事」を、
『御文章』にこう教えられています。
「後生という事は、ながき世まで地獄に堕つることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」

後生の一大事とは、未来永く地獄へ堕ちて苦しむことだから、
急いでこの一大事の解決を心にかけて、
阿弥陀仏の救いを求めねばならない

さて、「自分はどちらに行きたいか?」を考えてみましょう。
“死んだら極楽、死んだら仏”と、
死ねば誰でも極楽往生できるように教える人が多く、
安易にそう思っている人もあるようですが、
それは大きな間違いです。

蓮如上人は先のお言葉で、
“死後、明るい世界に往けるのは、
今生で「信心決定した(弥陀に救われた)」人だけだぞ”
とクギを刺しておられます。

現在ただ今、阿弥陀仏の救いに値った人だけが、
死後に光明無量の浄土へ往くことができるのです。

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では、どうすれば弥陀の救いに値えるのか。
「仏法は聴聞に極まる」
とそれを教えられています。
「聴聞」とは、聴もきく、聞もきく、ということ。
“弥陀の救いに値うには、この聴聞の一本道を進みなさい”
と、親鸞聖人は真剣な聞法を勧めておられるのです。

「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり」
      (親鸞聖人)

たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法を聞き抜く人は、
必ず不滅の幸せに輝くのだ

無常は待ったなし。
臨終ジタバタしても手遅れです。

生きている今、極楽浄土間違いない身にならせていただけるよう、
弥陀の救いを聞き求めることが、
人間の本当の“終活”といえましょう。

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体験手記
   【茨城県】佐藤 幸一さん(仮名・23)

お父さん、ありがとう
  必ず本当の幸せになるからね

「4年前、48歳で亡くなった父の日記は、衝撃でした」
真面目で仕事熱心な父の背中を見て育った佐藤幸一さん。
病に倒れても、明るくふるまい仕事を続けた父親の日記から、
仏法の真実を知らされたと言います。

23年前、茨城県古河市に生を受けました。
幼いころから人前で話すのが苦手で、
近所の人に挨拶もできませんでした。
不器用で運動も不得意。
友達と同じようにできず、いつも泣いていました。
それでも頑張れたのは父の姿に励まされたからです。
父は、高校卒業後30年近く、パン工場の機械修理をしていました。
家族のために、ひたむきに働く父の姿は、
私に努力の大切さを教えてくれました。
何とか自分を変えたいと、
中学でバスケットボールを始めました。
3年間厳しい練習に打つ込むうち、
運動能力は向上し、友達とも打ち解けて、
コンプレックスはなくなっていきました。
高校も、練習の厳しさで有名な学校に進み、
さらに熱中。
年末大晦日までバスケットボールでした。
しかし望んだ結果は出せず、満たされない思いが残りました。
「頑張る=よいこと」と信じてきたけど、
同じような後悔を繰り返し、一生が終わってしまうのではないか。
頑張って生きて、この先、何があるのだろう。
漠然と不安を抱え大学に入った頃、
親鸞聖人のみ教えに出遇いました。
「これ一つ達成すれば、いつ死んでも悔いなしと言えるもの、
それが親鸞聖人の教えられた人生の目的。
正しい目的に向かっての努力は100パーセント報われる」
と聞き、
「こんな教えが仏教だったのか。
頑張ることの意味が分かった!」
と心に光がさしました。
私の大学生活は、希望とともにスタートしたのです。
ところが、入学して一ヶ月もたたないある日、
父が脳出血で倒れたとの知らせが入りました。
急遽、帰省すると、病院のベッドには変わり果てた父の姿が。
一命を取りとめたものの、半身不随、あまりの変貌に、
かける言葉が見つかりません。
「一寸先は闇」とはこのことか。
仏教の真実、諸行無常を目の当たりにしたのです。
しかし父は、その後リハビリに専念し、
夏には職場に復帰しました。
とはいってもしびれは残り、
起床後2時間は半身が思うように動かず、
今までのように、重い荷物を持って工場を
駆け回ることはできなくなりました。
どんなに、もどかしかったでしょう。
けれども父は、つらいそぶりを出さず、
明るくふるまっていたのです。
一生懸命頑張るその姿に、家族は安堵しました。
少々身体が不自由でも、命さえあってくれたら・・・。

残された父の日記

ところが、無情にもその年末、
父は再び倒れ、帰らぬ人となったのです。
物言わぬ父に、会社の先輩が、
「佐藤おまえ、頑張ったよな・・・」
と呼びかけ、号泣する姿に、
私も涙を抑えられなくなりました。
悲しむ間もなく通夜・葬儀が執り行われ、
一つまみの骨となって父は家に戻りました。
家族の目に触れるリビングの食卓には、
父の日記が置かれていました。
「こんな所に置いて・・・。
私たちに見て欲しかったのかもしれないね。
これ、私はとても読めないから、あなた持ってて」
と母は、日記を私に差し出しました。
恐る恐る表紙を開いて、一枚、また一枚とめくると
「本当の幸せ、誰か教えてくれないか」
「仕事人間は、もうやめた!」
「このつらさと不安。
仏さまだけでも分かってもらえればいいかな」
闘病8ヶ月間の心の叫びがつづられていたのです。
一生懸命仕事をして認められても、死を目前にした時、
心底喜べるだろうか。
正しい方角に向かっての努力でなければ、
後悔に終わってしまうのではないか。
悲しいけれど父は、身をもって教えてくれました。
父の無常を縁として、私は親鸞聖人のみ教えに導かれ、
命懸けて悔いなき目的のあることを知らされました。
「お父さん、本当にありがとう!
真の孝行ができるよう、仏法を求め抜くからね」


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