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生きる力が湧いてくる [苦しみの根源]

生きる力がわいてくる
   親鸞聖人の教えで
        人生が変わった

「もう生きていけない。サヨウナラ」
大人から子供まで、自殺が後を絶ちません。
人生の荒波に翻弄されていきるのは、みな同じ。
しかし、親鸞聖人の教えによって、
明るくたくましい人生に転じた人は幸せです。

どのような心で、悩み苦しんできたのか、
それが仏法によって、いかに大変貌を遂げたのでしょうか。
み教えに生かされた2人の読者に聞いてみましょう。

仕事を終え、伴侶を看取ったあとに
       心の飢え、満たす教えに遇えた
          中森 悦夫さん(鳥取県)

私、このまま終わっちゃうの?
       子育て後のむなしさが一転
          田中 加津子さん(神奈川県)

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仕事を終え、伴侶を看取ったあとに
       心の飢え、満たす教えに遇えた
          中森 悦夫さん(鳥取県)
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両親と妻の看護のため、
定年を待たず仕事を辞した鳥取県の中森悦夫さんは、
3人を看取った後、大きな心の飢えを感じていました。
仏法と出遇い、生きる希望に満ちている
中森さんの手記です。


私は昭和8年、広島県西条町(現・東広島市)の山手の
浄土真宗の家に生まれた。
寺の境内を遊び場とし、『正信偈』の勤行もしていた。
しかし、仏教はあくまで生活の一部であって、
教えを深く学んだことはなかった。

小学6年のある夏の朝のこと。
朝礼が終わり、担任の先生が教室に入ってこられた、
「キリツ、礼」と級長が声をかけた直後、
西の空に強烈な閃光が走って、
大きなきのこ雲がハッキリ見えた。
やがて激しい衝撃が校舎の窓を揺らす。
かつてない爆発だった。
“火薬工場の火災か”、先生たちは大慌てで
広島市内へ問い合わせるが、確かな情報が届かない。
その夕方から、広島に行って被爆した人たちが
馬車に乗せられ、運ばれてきた。
多くの人が亡くなった。
間もなく戦争は終わった。

     ■共産思想に傾倒

思春期になると、片っ端からいろんな本を読んだ。
戦後の貧しい時代。
腹はいつも減っていたが、
心がそれ以上に飢えていた。

「いかに自立して生きるか」がそのころの命題だった。
柳田国男や太宰治をはじめ、
島崎藤村の『破壊』や倉田百三の『出家とその弟子』
などを読みあさった。
高校生の時、共産思想を掲げる青年組織に
顔を出すようになった。
喫茶店でコーヒーの回数券を買い、
新聞記者の話を聞いたり、
講習を聞きに静岡の伊豆まで行ったりもした。
ところが次第に、「しっくり」こなくなる。
活動にも力が入らなくなった。
資本家と闘う階級闘争で、
世の中の問題が本当に解決するのか。
こんなことをしていても、幹部の連中が喜んでいるだけ。
ほかに道があるのでは、との思いが強くなったからだ。
共産思想から離れ、将来の進路に悩むようになった。
「これからは畜産が盛んになる。
大学で学んで、将来は北海道へでも行こう」
と思い立ち、獣医の資格を取ろうと、
獣医学科のある大学をいくつか受験し、
同じ中国地方の鳥取大学の門をくぐった。

    ■キリスト教にも満足できず

大学では、かつての「心の飢え」がまた芽を吹き返した。
しかし共産主義のように、
闘争だといって皆で騒いでいるだけではだめどと感じ、
今度は、友人に誘われるままキリスト教の話を聞いた。
ルターやカルヴィンの時代に始まったプロテスタントである。
「神は存在するのか」「宗教とは一体何か」
「お釈迦さまの仏教との違いは」など、
後から後から聞きたいことがわいてきた。
牧師の勧めで教会に泊まり込んで聞いた。
後に日本聖公会を率いる有名な牧師の話を聞いたこともある。
ところがまた、言葉では言い表せない、
「しっくり」こない思いが胸を占め始めた。
教会との縁は、就職後も続いたが、
次第に足が遠のいた。

大学卒業後は鳥取県の職員として、
畜産試験場で研究員を務めた。
乳牛の栄養学を専門としたが、
農家の経営分析でも知られるようになり、
鳥取県内を講師として、説いて回るようになった。
畜産農家の人たちの相談に乗り、技術指導も続けた。
昼夜を分かたぬ働きで、
多くの人たちから必要とされていた。

     ■両親と妻が相次いで

昭和が平成に変わるころ、
両親の衰弱が目に見えて著しくなった。
道で転倒したり、踏み台から落ちたりして、
たびたび骨折し、入退院を繰り返した。
長男であったため鳥取県倉吉の自宅から
広島県東広島市の実家まで、
ほぼ毎週赴いて看病した。
およそ200キロ。
車で片道3時間以上かかった。
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永年、やりがいをもって勤めた仕事も、
両親の看護のため、定年前に辞めた。
母が亡くなると、次は父が動けなくなった。
さらにつらい事態に襲われた。
平成12年、妻・千恵子が末期ガンに倒れたのだ。
心構えもないところに、
降ってわいたように訪れた、妻の最期。
「そばに付き添い、かゆいところにでも
手が届くようにしてやりたい」
永年連れ添い、仕事に熱中する自分を支えてくれた妻に、
何とか恩返ししたい。その一心で無理を重ねた。
父が入院する倉吉駅前の病院と、
妻のいる自宅近くの病院に毎日通って、
洗濯物をまとめたり、種々の世話をする。
夜は妻のベッドの下で寝る。
“看護は、地獄だ”と思った。
3ヶ月が過ぎたころ、体に変調を来す。
不整脈と診断され、入院を余儀なくされた。
結局、知らされたのは、何もしてやれない、
どうにもならない現実と無力な自分だった。
悲しむ間もなく、父も翌年他界。
8年にわたる看護生活が終わりを告げた。
「ああ、一人、残されてしまった。
これから、どうしたらいいんかいな」
という思いしかしなかった。
家族を失い、体調の都合で仕事にも戻れず、
何をしていいか分からない。
空虚な心がどうにもならなかった。
とりあえず人生終わるまでは、なるべく元気に、
子供や兄弟に迷惑をかけないようにと、
健康を考えて栄養士の指導を受けられる
料理教室に通うことにした。

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あるいは碁会所(ごかいしょ)で盤をにらみ、
近所の集まりに顔を出す。
これといった変化のないまま日々が過ぎていった。

      ■アニメとの出会い

そんな昨年の一月。
地元紙の『日本海新聞』を開き、
お悔やみ欄を確認していた。
仕事で多く縁のあった方が亡くなっていないか。
欠礼しては申し訳ないと日課にしていたのだ。
その時、同じページの案内広告が目に飛び込んできた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』上映会”。
懐かしい聖人のお名前に、
子供のころ寺で勤行した記憶がよみがえる。
上映会の日、『世界の光・親鸞聖人』を初めて見た。
驚きと衝撃の連続だった。
自分を深く深く見つめられる聖人のお姿、
身命を懸けた求道と、渾身の力を込めての布教の激しさに、
心が震えた。
心の中に地割れが生じた。
暗い闇をのぞいているような、
今まで気づいていなかった内面の新たな世界が
広がっていくような気がした。
同時に、『正信偈』はお経ではなく
親鸞聖人の書かれた文章であること、
阿弥陀仏とお釈迦さまは違う仏であることなど、
今まで何も知らなかったことが分かった。
浄土真宗の家に生まれた者として
許されないことではないのかと自分を責めた。

「如来世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
          (親鸞聖人)
「釈迦如来が、この世に生まれ出られ、
仏教を説かれた目的はただ一つ。
大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏の本願を説くためであったのだ」

     ■弥陀の呼び声を

すべての人の生きる目的を明らかに教えられたお言葉に、
月一回通っていた料理教室もやめ、
家事の時間も極力省いて、購読していた月刊誌三冊も
『とどろき』ひとつに絞った。
それまで毎年3回は、救急車で運び込まれていた不整脈の症状も、
昨年の4月以降はすっかりなくなってしまった。
体調がよくなり、かつては控えていた運転も解禁し、
今は米子や鳥取市へ、自ら聞法に出かけている。

10月の鳥取でのアニメ上映会で、うれしいことがあった。
講師が、
「今後、この会場で親鸞聖人の
アニメシリーズを続けて上映します」
と案内されると、自然と拍手がわき起こった。
同じように上映会でご縁を結ばせてもらった身として、
新しい法友の現れたことも喜ばずにおれなかった。

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今は何よりも、阿弥陀仏のじかの呼び声を
聞かせていただきたい。

体は枯れていくばかりだが、心はどんどん元気になって、
力がわいてくる。大きな幸せを感じている。

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「私、このまま
   終わっちゃうの?」
   子育て後のむなしさが一転
      田中 加津子さん(神奈川県)
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専業主婦として、永年、家族を支えてきた
田中加津子さん(仮名)は、
子供が2人とも大学生になって手を離れた時、
言いようのないむなしさを感じたといいます。
どのような心境だったのでしょうか。

その日、長男が都内の私立大学に現役大学に
現役合格した。
高2から予備校に通わせ、科目を絞って
勉強させたかいがあった。
上の娘はもともと地道に頑張る子で、
短大の家政科が志望だったから、
それほど根を詰めて受験勉強をしたということはなかったが、
弟は違う。
受験で将来が決まるという強迫観念から、
自然と口うるさくなった。
息子も、そんな親の危機感を察知してか、
予備校に通いたいと自ら志望してきた。
経済的な負担はあったが、子の将来には代えられない。
夫の了解を得て、少し早い受験戦争は始まった。

     ■息子が合格した夜に

あれから2年。
長いようで短かったが、その夜はなかなか寝付けなかった。
子供の受験さえ終われば、一段落して楽になれるはずだったのに、
子育てももう終わりかと思うと、
心なしか寂しい。
何より、これで母親としての役割が奪われるように感じたのだ。

実際はしかし、息子はこれからも息子だし、
娘だって卒業を控えている。
ホッとするのは早い。
子供達にはまだ、就職や結婚、
出産などが待っているはずなのに。
心のすき間には言いようのないむなしさが、
パックリ口を開いている。
次の朝も、そのむなしさは消えなかった。
昨晩よりむしろ、膨らんでいるように思えた。
この心の空洞の出どころを少しずつ探ってみようと思った。

      ■空っぽな心

20代半ばで結婚し、翌年には長女が生まれた。
続けて長男が誕生。
2人の子育てに追われて、生活は慌ただしくなった。
女が母親になる。
言葉で表す以上に、酷な現実が待っていた。
名前で呼んでくれていた夫は、
いつしか自分を「母さん」と呼ぶようになった。
一抹の寂しさを感じ、時折夫に向かって自嘲ぎみに、
「私、あなたの母親じゃないわ」と言ったりもした。
だが彼は、フフン、と鼻で笑うだけ。
悔しい思いが胸いっぱいに広がって、一日、
家事も手につかずに過ごした日もあった。
それでも、そんな思いを乗り切ってこられたのは、
この子たちは私が立派に育て上げてみせるという
母親としての意地だった。
やがて、家にはほとんどいないけれど、
比較的豊かな生活を約束してくれる夫の分まで、
子育てにどっぷりつかり始めた。
都心へ二時間以内のベッドタウンに居を構えてから、
子育ては一層、腰が据わった。
長女の着る服は皆、手作り。
おやつも自然な素材にこだわり、完璧を目指した。
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息子はさらに、友達づきあいにも気を配った。
幸い、心配していたいじめや不登校、
引きこもりなども経験せずに済んだが、
子供の日常に想定できる、あらゆる場面を考えて、
細心に育児にかかわったと自負している。
そして、息子の合格。
振り返れば、自分は恵まれすぎるほどに恵まれている。
不足を鳴らすのはおかしい。
だのに何だろう。
今となっては、もうすっかり色あせた日常に、
戸惑うしかないような心境だった。
まだ40半ば、でもこの先、
何事も衰えるばかりの人生の道程が
ありありと見えてしまっていることに気がついた。
それは眼前に道が続いているかのようにハッキリしていた。
まだ華やかさを残す娘や息子がたどるであろう道は、
そのまま自分の喜びには違いない。
しかし自分のとってみれば、それは確実な衰えへの道なのだ。
しかもその先に見えているのは、「死」だった。
死を迎える時を想像してみて、
背筋が寒くなるのを感じた。
私、このまま終わっちゃうの?
子育てだけが、私の人生の、最も大事なイベントだったの?

自分が家族を支えているように思っていたが、
実は、家族に依存していただけだったのではないか。
急速に心は冷え、言いようのない荒涼感が胸を覆う。
何のための人生なのか、分からなくなってしまったのだ。
悩みは、簡単には解決できなかった。

     ■趣味とは違う何かを

むなしい心をなくすために、趣味に時間を使うことにした。
幸い、もともといろいろなことに関心を示すたちだったこともあり、
何をするかには困らない。
手芸や英会話、テニス、楽器といくつかを掛け持ちして、
毎日を忙しくすることにした。
どれを取ってみても、そこそこは楽しいし、
新たな友達もできて新鮮ではある。
ところが数ヶ月もすれば、きっと自分にはこの道は合わないのだ、
どうせ極められるはずもないと思えてきてしまうのだ。
どれも中途半端。
われながら飽きっぽいものだと、苦笑するしかない。
しかも相変わらず心の空虚は埋まらない。
こんな日々が、死ぬまで続くのかと思うと、
漠然とした不安に、押しつぶされそうな気がした。

それからしばらくして、友人を通じて『とどろき』と出遇い、
仏法を学んでいる。
親鸞聖人の教えによって、人生の不安が根底から解消できることを知った。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船、
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」
          (親鸞聖人)
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」

仏教を聞いてから、幼いころ、
強く「死」の問題を意識していたことに気づき、
自分の抱えていた不安は、死に起因していたことが分かった。
確実な未来がハッキリしない心。
後生暗い心、無明の闇が不安の正体だったのだ。

そして、弥陀の誓願、本師本仏の阿弥陀仏のお力によって、
その暗い心がぶち破られ、本願の船に乗せられれば、
いつ死が来ても崩れない絶対の幸福になれると聞いた時、
これが人生の目的なのだと感じた。

    ★       ★
「理解するのには、時間がかかりましたが、
私の求めているものはこれだ、と分かった時、
本当に親鸞聖人の教えに出遇えてよかった、
と思いました。
私のように感じている女性は多いのではないでしょうか。
縁のある人に、この『とどろき』を紹介したいですね」
田中さんはこう言い、光に向かって生き生きと毎日を過ごしています。


 


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