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我々はみな極悪人である! [罪悪深重]



(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

極重悪人唯称仏(極重の悪人は、唯、仏を称すべし)
                    (正信偈)

「極重の悪人」とは、「極めて罪の重い悪人」
ということです。
これはどんな人のことか分からないと、
親鸞聖人がこの一行でおっしゃっていることは、
毛頭分かりません。

仏教を説かれたお釈迦さまは、
お亡くなりになる時に、
「仏教は法鏡なり」とおっしゃっています。

「法」とは「真実」「本当の」ということですから、
「法鏡」とは、「本当の私の姿を見せてくれる鏡」
ということです。
仏教を聞き初めのころは、
法鏡から遠いところにいて、
自己の真実の姿を教えられても、
「それは私のことではない。自分は違う」
と思っています。
そして、「あの人に比べれば、私はまだましなほうだ」
と平気でいます。

ところが、だんだんと仏教を聞いていきますと、
鏡に近づいていくように、
自分の本当の姿が
次第に明らかに知らされてきます。
鏡に近づくほど、しわやら、あざやら、
醜いものが見えてくるように、
仏教を聞けば聞くほど、
自分の醜い姿が知らされてきます。

鏡の前に座っても、目をつむっていたり、
そっぽを向いていては、
鏡を見ていることにはならないように、
何十年も仏教を聞いていても、
本当の自分の姿を知らなければ、
仏教を聞いたことにはなりません。

では、仏教の法鏡に私たちの姿は、
どのように映し出されているのでしょうか。

●問題は、「心」にある。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、
次のように説かれています。

心常念悪(しんじょうねんあく・心常に悪を念じ)
口常言悪(くじょうごんあく・口常に悪を言い)
身常行悪(しんじょうぎょうあく・身常に悪を行い)
曽無一善(ぞうむいちぜん・かつて一善も無し)

仏は私たちを心と口と身体の、
三つの行為から見ておられます。

中でも、
「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
と教えられるように、最も重く見られるのは
心の行為です。
口や身体を動かすのは心だからです。

・・・・・・・・・・・・・・・
二人の禅僧が諸国行脚中、
小川にさしかかった。
美しい娘が、連日の雨で川が増水し、
とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私が渡してあげよう」
僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は、
顔を赤らめ礼を言って立ち去った。
同伴の僧がそれを見て、
かりにも女を抱くとはけしからんとでも
思ったのか、無言の行に入ってしまった。
戒律のやかましい禅宗では、
女性に触れてはならないとされているからだろう。
日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、お前、まだあの女を抱いていたのか」
件(くだん)の僧はカラカラと笑った。
連れの僧は、いつまでも抱いていた
心の生臭さを突かれて、
返す言葉がなかったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・
問題は、その心にあるのです。
「よもすがら 仏の道を求むれば
わがこころにぞ たずね入りぬる」
親鸞聖人が高僧と仰ぐ、源信僧都の述懐です。
自己の真実とは、
「心の真実」が問われているのです。

その心は、欲や怒り、ねたみそねみが
とぐろを巻いて、
他人に言えない、恐ろしいことを
思ってはいないでしょうか。

●他人に言えないことを、思ってはいないか

一皮むけばウミ血が流れると分かっていても、
美しい女を見た時は、
邪淫の心が燃え上がっている、
と釈尊は説かれています。

あらゆる人は、つねに淫らなことばかり考え、
婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、
卑猥な行為を思いのままにしている。

我が妻を厭い憎んで、
他の女をひそかにうかがって
煩悶の絶えたことなく、
愛欲の波は高く寄せかけ、
寄せかけ、起つも座るも、安らかでない

仏典に説かれている刀葉林地獄(とうようりんじごく)
といわれるものは、
人間のこの愛欲の広海を描かれたものでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
この地獄へ堕ちた男がふと見ると、
天を摩(ま)すような大樹がある。
葉は刃のごとく鋭く、焔(ほのお)を吹いている。
樹上には好みの女が、満面の媚(こび)を浮かべて、
自分を招いているではないか。
罪人のかつての恋人である。
恋しさのあまり、居ても立ってもおれぬ男は、
前後を忘れて木に登っていく。
すると刀葉(とうよう)が降ってきて、
男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、
愛欲はいっそう激しさを増す。
ヤットの思いで近づいて、
さあ、満身の力で抱こうとすると、
忽然と女は消えうせて、今度は樹の下から声がする。
「あなたを慕ってここまで来たわ。
ねえ、早く来て抱いて」
とやさしく誘う。たかが一人の女のために、
火を吐く思いで登ってきた純情が、
いじらしく泣けてくるが、
愛恋(あいれん)の情ますます燃え盛り、
樹を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、
今度は逆に、上に向かって焔を吐き、
寸々分々に肉を徹し、骨を削る。
言語に絶する苦痛である。
ようやく地上に下りると、
だが、恋人の姿はそこにはない。
樹上からまたしても身悶えしながら彼を呼ぶ。
愛欲の広海は果てしなく、
限りなく登り下りを繰り返し、
苦しみ続ける地獄であると
説かれている。

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・・・・・・・・・・・・・・・・

別れては恋しく、会えば敵同士となって
傷つけ合う。
満たされなければ渇き、
満たせば二倍の度を増して渇く。
愛欲の実態を表して余すところがありません。
「理性」と聞けば、近代哲学の父・デカルトが
思い浮かびますが、
彼もお手伝いの女性に子供を産ませ、
未婚の母にしています。

泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのが、
私たちの実相ではないでしょうか。

金が欲しい、物が欲しい、誉められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に私たちは、

どれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

あいつがいなければ、こいつがいなければ、
あの人が失敗したら、この人が死ねばと、

どれだけ人を、
心で蹴落とし殺しているでしょうか。

親であれ兄弟であれ、
子供であれ恩人であれ、

自分の欲のためには、
どんなことでも考えます。

遺産相続で、兄弟や親戚どうし、
骨肉相はむ争いは、
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが怒りの心。

あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられたと、
愼恚(しんい)の炎が燃え上がる。

交際していた女性の上司が
女性を中傷したことに腹を立て、
胸や腹を包丁で刺殺。
さらに、不倫が発覚して離婚を迫る
妻の首をネクタイで絞め殺し、
遺体を切断、山林に捨てた事件も、
怒りの心のなせる業(わざ)でしょう。


とても欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、ねたみ、そねみ、
うらみの心がわき上がってきます。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心が出てきます。

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毒舌家A・ビアスは、
幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感
と『悪魔の辞典』に書いています。
にわか雨にあって、
困っているのを見て喜んでいる。
犬にほえられ、うろたえている人を笑っている。
着飾った女性が車の泥はねで、
泣き出しそうなのを楽しんでいる。
火事場に向かう途中で、
鎮火したと聞くとガッカリする。
「旅先の火事は、大きいほどおもしろい」
不謹慎であってはならないと思う下から、
対岸の火事を楽しんでも、
悲しむ心が起きてはこない。

大きな事件や残虐性が強いほど、
視聴率は上がり週刊誌が売れるのは、
何を物語っているのでしょうか。

出世した、結婚した、新築など、
他人の幸せはみんなしゃくのタネ。
失敗した、離婚した、災難など、
他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。

思っていることは洗いざらい、
さらけ出したらどうでしょう。
悪魔と叫んで、みんな逃げ出すに違いありません。

●永遠に助かる縁なき者

善導大師といわれる偉い方でさえ、

一日のうちに八億四千の憶いあり。
念々になすところ、これみな三塗(さんず)の業なり

と言われています。「三塗の業」とは「悪」のことです。
このように、悪に染まった心の奴隷である口も身体も、
常に悪ばかり言ったりやったりするのは当然です。
だから一つの善もないのです。

これが、すべての人の本当の姿なのです。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「極重の悪人」
と言われているのは、
この法鏡に映し出された姿を
告白された言葉です。

『歎異抄』には、

いずれの行も及び難き身なれば、
地獄は一定すみかぞかし

とおっしゃっています。
「行」とは「善」のことで、
頭についた火をもみ消すように
善をしようと努めたが、一つの善もできない、
地獄より行き場のない親鸞であった、
と悲痛な告白をなされています。


「極重の悪人」とは、この「永遠に助かる縁なき者」
と、ハッキリ知らされた自己をいわれたものです。
このように弥陀の光明に照らし出された聖人が、
「こんな極重の悪人は、そのまま救いたもうた念仏を、
称えずにはおれないのだ

とおっしゃっているのが、
「極重の悪人は、唯、仏を称すべし」
のお言葉です。ですから、
「唯、仏を称すべし」
と言われているのは、
「ただ、念仏を称えなさい」
と言われている「唯」ではないことを、
よく知っていただきたいと思います。

念仏称えれば、極楽に往生できるのですか?


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