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蓮如上人にまた叱られる [蓮如上人]

(平成10年のとどろきより載せています)

本年(H10)は蓮如上人の500回忌とあって
大変な蓮如上人ブームである。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、説かないのか」
とお叱りを受けることになるだろう。

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                                (蓮如上人)

●後生の一大事を心にかけて   
       死んだらどうなるか?

とにかくすさまじいばかりの蓮如上人ブームである。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載中である。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説『此岸の花』の連載を終了し、
単行本として出版されている。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語がほとんど出てこない。

残念なことである。
蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教えが凝縮された『御文章』(御文)で確認してみよう。

蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで、五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

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五帖目二通
「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・・」
三通
「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通
「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、
必ず救いまします・・・」
七通
「・・・後生助けたまえ、と思う心一にて・・・」
八通
「・・・後生助けたまえ、と申す意なるべし・・・」
九通
「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通
「・・・後生を助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通
「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、
と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通
「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通
「・・・一心に後生を御助け候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通
「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、
一念にふかくたのみ・・・」
十九通
「・・・その他には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通
「・・・弥陀如来をひしとたのみ、
後生助けたまえ、と申さん女人をば、
必ず御助けあるべし・・・」

このように「後生」「後生の一大事」と
五帖目だけでもこれほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは病気や経済苦ではない。
後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えは全く理解できない。

●誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。

大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放していないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。
死後、未来世の実在を信じられない知識人がよく陥る誤りである。

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同様な考えのもとに
「釈尊は死後を説かれなかった」などと主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で三世の実在をご教示なされている。
一例を挙げよう。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」 
              (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。

もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも死んだ方がよほどよいことになる。
「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはこびると安易に自殺をする者が多くなってゆく。
後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、
それは今の一大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」
「女は男である」と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事

では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。

釈尊は一つの有名な譬で教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、
登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、
と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤さかまく深海、
しかも波間から三匹の毒龍が大きな口を開けて
旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。
ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。

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この旅人こそ万人の姿だと釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回っている。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。

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人間死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。

まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えたれたのは暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。

欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

●悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
例えば「殺生罪」。

仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。

殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、
消費者である我々が、業者に殺して肉を分けてくれと
頼んでいるのである。

自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと
同様の極悪人が我々の実態だ。

そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。

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後生の一大事は足下に迫っている。

今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。

しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。
ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかりを求めていると
釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

●後生の一大事の解決を
     一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定(けつじょう)すべし」
と教えられたのだ。

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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事とか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て、
確々(しかじか)とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というは是れなり」
       (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」
法然上人や親鸞聖人は
比叡山で徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。

そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと勧めてゆかれたのだ。

蓮如上人もただひたすら後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。
それを知らねば、蓮如上人ブームも空しいことになってしまう。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
        (御文章二帖目二通)

大意「信心獲得しなければ極楽には生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」
後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

●「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、大苦悩の地獄へ堕ちねばならない一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

ところが、「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。
一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心の異安心」と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
善知識方の信心とは違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。

●信心の有無で決する
    地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、十劫の昔に、
すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成なされた。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。これ大なる過りなり」
           (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂われをよく知らずば、
極楽には往生すべからざるなり」
           (御文章二帖目十一通)
「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、
六字名号を完成なされて仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われていることになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。
この世に現在生きている人の中に、
助かっている人と、いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」
          (御文章五帖目十一通)
「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
ご法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、
死ねば地獄行きの人と、二通りあるのだと仰有ったのだ。
仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、雑多な新興宗教の信者も含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。

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●聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀如来の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第1部)
に描かれているので、見ていただきたい。

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また蓮如上人は、
「毎月両度(二回)の寄合(法話)の由来は、
何の為というに、更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
           (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」

           (御文章四帖目十五通)
と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

           (御文章二帖目二通)
と厳しい。
先ほどの薬の譬喩にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば病気は治らない。

●往き易くして人無し
      矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。
「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候。
          (御一代記聞書)
御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心獲得しているのは、
一人かな、二人かな・・・」
と仰有ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句を継げなかったのである。
信心獲得していなければ、後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、『大無量寿経』に、
「易住而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、往きやすいけれども、
往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。
弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。
これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし』と言えるは、
この経文の意なり」と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰有った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

●「世間のヒマを欠きて聞け」
    聞き歩かなくてよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」
と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法いは明日ということはあるまじき」
          (御一代記聞書)

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「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰有っているのだ。

「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。
徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでもなければ、家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、蓮如上人は、示しておられるのだ。
「今日仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、
私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞けるあいだに聞きぬかねばならぬのだ。

●仏法に独断は禁物
     阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。

他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているかを
知らねばならないのと同様である。
太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎くんの苦労は水の泡となってしまったのである。
そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは、言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、
行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

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結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、
もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。
相手の願いをよく聞き、熟知することは、
人間相手でさえ、重要なのである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、独断は禁物。
阿弥陀仏の願いをよくよく聞かせていただかねばならないのである。

●火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
       (浄土和讃)
と仰有った。

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火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ、
との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、
雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、
と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えてられている。
①骨折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

●一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり」
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年たってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求めきれる道ではない。
今はこれまで」と、永遠のおいとまを願いでた。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがにつらい。
明詮は泣きながら寺を出た。
ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「このやわらかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、
断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めてゆけば、
必ず魂の解決ができるに違いない。」

奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。
何事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、
完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。
「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、真剣に求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が開かれると知らねばならない。

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