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六道輪廻して苦しむ私たち [六道輪廻]

生死の苦海ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

まず、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」
と言われています。
これは私たちの生を海に例えたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」ということですから、
「私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている」
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
「四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く」
と言われています。
近代に日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

○なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出生について語った言葉)

○のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。
     (夏目漱石『吾輩は猫である』)

○人生のさびしさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。
      (倉田百三『出家とその弟子』)

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から逃れることはできないようです。
前漢の第七代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

「歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を如何せん」(秋風辞)
(歓び、楽しみの絶頂に、哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、やがて、老いさらばえて
人は死ぬ。この哀しくも儚い現実をどうすればいいのか)

チャーチルは、第2次世界対戦・戦勝時のイギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、娘にこう述懐しました。
「私はずいぶんたくさんのことをやってきたが、
結局何も達成できなかった」
90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという。

●現代も変わらぬ苦海

経済の発展も、苦しみを減じる処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません。

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心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で説明しています。
「経済など状況がどんなに変わっても、人間は、
その状況に慣れてしまい、願望を引き上げ、
もっともっととさらなる満足を求める」という説です。
永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。
それは、政治、経済、科学、医学、
あらゆるジャンルでも同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦海の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」と短い言葉で
ズバリ言われています。

続けてさらに久しく沈めるわれら」。
ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。
仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると六つあり、
これを六道とか、六界といわれます。

次の6つの世界です。

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①地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」。地獄を八つに分けられているのが、
「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、
と説かれている。
寿命は八万劫。
一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので「無間地獄」とも言われる。

②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、
炎となって食べられず飲まれもせず、
飢えと渇きで苦しむ世界。

③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界で、つねに不安におびえている。

④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。

私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきた
のであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

           (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、実に有り難いことなのです。

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このことを『正信偈』で
「源信広海一代経」(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず


人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、
飢えと渇きで苦しみ続ける餓鬼よりはましである。
思い通りいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えばとても有り難いことです。
人として生きて行く以上、この“人命を尊び、感謝する心”が、
政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底になければならないのではないでしょうか。
そのうえで、親鸞聖人は、人間に生まれた本当の喜びとは何なのか、
こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

             (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く(釈尊)
(生まれ難い人間に生まれてよかった!
聞き難い仏法が聞けてよかった!)

の聖語が、熱く胸に響くのです。
人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。
仏法は、聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを聞かせていただきましょう。


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