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死んだら賀茂川の魚に食わせよとなぜいわれたのか [親鸞聖人]


親鸞聖人は常に「私が死んだら賀茂川へ捨てて、
魚に食べさせよ
」とおっしゃっていたということが、
「改邪鈔」という書物に書いてあります。

世間一般では盛大な葬式や法事や、
立派な墓を造ることに力を入れて、
死後の冥福を祈っているので、
この聖人のお言葉は何とも不可解なことと思います。
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●信心決定(しんじんけつじょう)に
       力を入れよ

この聖人のお言葉は種々に味わえますが、
まず第一は、肉体の葬式に力を入れずに早く魂の葬式、
すなわち信心決定に力を入れよ
、ということです。
親鸞聖人は信心決定した時をもって、
魂の臨終であり、葬式だと教えられたお方です。

覚如上人も、
「平生のとき、帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
とおっしゃっているように、
信心決定した人は、もう葬式は終わっているのです。
だから、セミの抜け殻のような肉体の葬式など、
もはや問題ではないのです。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を忘れてはなりませんぞ」
と最後まで真実を叫び続けていかれた聖人のお言葉なのです。
庄松同行の臨終に、
「おまえが死んだら、立派な墓を造ってやるから喜べよ」
と言った時、
庄松は、「そんな石の下におらんぞ」と叫んでいった心も同じです。
次に味わえる聖人の御心は、
生前、親鸞は多くの生命を奪い、その肉を食べてきた。
中でも魚を最も多く食べて生きてきた。
いかに生きるためとはいいながら、
まことに相済まんことであった。
せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べてもらおう

という深信因果の御心と拝します。

●同じ幸福に

また、
親鸞は幸福にも、仏凡一体、機法一体、
南無阿弥陀仏と一体にさせていただいた。
親鸞の肉体を一部刻みにしても南無阿弥陀仏の染まらぬところはない。
この親鸞の屍を食べることによって、
南無阿弥陀仏と縁を結び、次生に人間界に生まれて、
弥陀の本願を聞いて、
親鸞と同じく信心決定の大幸福を
頂いてくれる魚が一匹でもあってくれよ。
これが罪悪深重、いずれの行も及び難い親鸞の、
せめてもの最後の願いである

という御心もあったのではなかろうかと
拝察せずにおれません。

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