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弥陀の救いは完全な平等 [親鸞聖人]

凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば、)

如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるが如し)

 

自由と平等。この2つは、古今の人類が希求してやまぬ究極の理想でしょう。

だが実際は、自由を追求すれば不平等になり、

平等を徹底すると不自由を強いられる。

小学校の駆けっこでは、「順位をつけない」ことで

「平等性」を保とうと試みられていますが、

自由な競争心を失わせ活力を奪うと懸念する声もあります。

また、私有財産を禁じ完全平等を目指すはずの共産主義国家で、

貧困にあえぐ民衆をはた目に、独裁統治者や一部の特権階級が富を独占し

豪奢に暮らす、いわば「超格差社会」が出現しやすい事実は、

いかに「平等」が実現困難か示しているといえるでしょう。

考えてみれば、生まれもっての能力や家柄、国籍、肌の色、

男女の違いや容姿のよしあし、学問や経験の浅深など、

あらゆることが十人十色、千差万別で、一人も同じ人はありません。

現在、地球上に70数億人の人がいるといわれますが、

それらの人はみな異なります。

いわゆる「差別」は、紛れもない現実です。

そんな中、すべての人が真の平等になれる、

驚くべき世界の厳存を喝破されている親鸞聖人のお言葉が、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

の二行なのです。意味は一言でこうです。

阿弥陀仏に救い摂られたならば、才能の有無、健常者・障害者、

人種や職業・貧富の違いなど関係なく、

万川の水が海に入って一味になるように、

すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ

聖人が、かかる不思議な「弥陀の救い」を明示されている目的、

その御心は、

「道俗時衆共同心」

と『正信偈』の最後に言われているとおり、

“すべての人よ、この親鸞と同じように、

「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」と叫ばずにおれない身になってくれよ”

これ以外には何もありませんでした。

だが、「すべての人を同じ幸せに生かし切る」弥陀の救いは、

あまりにも常識からかけ離れているために、

簡単に分かることではない。

そこで聖人は、後の世の私たちのために、

法友と大喧嘩されてまで「一味平等」の弥陀の救いを開示してくだされたのが、

今日「信心同異の諍論(じょうろん)」といわれている大論争です。

 

●信心同異の諍論

 

この争いの相手は、聖信房・聖観房・念仏房の3人。

みな法然上人の高弟です。

当時、法然上人は、「智恵第一の法然房」「勢至菩薩の化身」といわれ、

日本一の仏教の大学者でした。

有名な大原問答は、京都の大原で、

各宗派のトップの学者たちを相手にたったお一人で、

7000余巻の一切経を縦横無尽に引用して、

完膚なきまでに論破なされた大法論です。

また主著の『選択本願念仏集』は、

当時の仏教界に水爆級の衝撃を与えた事実によっても、

いかに法然上人が常人を超えた方であったか、知られるでしょう。

その法然上人には、380余人という多くのお弟子がありました。

聖信房・勢観房・念仏房の3人は、中でもトップクラスの俊秀であり、

親鸞聖人の先輩でもあったのです。

聖人34歳の御時。3人が、「信心」について話し合っているのを耳にされます。

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第2部で見てみましょう。


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念仏房「高弟2人が、何の話かな」

聖信房「今、お師匠さまの信心は凄い。

あんな信心にはとても我々はなれんと言っておったのだ」

念仏房「そりゃそうだ。智恵第一のお師匠さまと、同じ信心になれるものか」

勢観房「大原の法論でもそうだった。

    300余人の日本中の学者を向こうに回して、

    たったお一人で打ち破られたお方だからなあ」

念仏房「勢至菩薩の生まれ変わりと、みんなが言うのも当然だ」

聖信房「そんな方の信心と、同じになれないのが当たり前よ

 

ここで親鸞聖人が、摩擦を避けて“見て見ぬふり”をされたならば、

論争は起こらなかったでしょう。

後に先輩から疎まれ門内で孤立されることもなかったかもしれません。

だが“極悪の親鸞を、絶対の幸福に救ってくださった弥陀の厚恩には、

身を粉に骨砕きても報いずにはおれない”と、

燃える「恩徳讃」に生き抜かれる聖人には、

弥陀の本願の聞き誤りを、看過することはできなかったのです。


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親鸞聖人「少し、よろしいでしょうか」

念仏房「何だ、親鸞か」

親鸞聖人「今、お師匠さまの信心と、同じになれるはずがないと、

仰っておられたようですが」

聖信房「いかにも」

親鸞聖人「それは親鸞、納得できません」

念仏房「そなたはいつも先輩の言うことにケチをつける人だなあ。

善恵房殿の時もそうだった。そんなことでは、みんなから嫌われるだけだぞ」

親鸞聖人「先輩方には、申し訳ありませんが、親鸞の信心は、

お師匠さまの信心と、まったく同じでございます」

3人「なっ、何ーっ!」

念仏房「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。

聞き捨てならんぞ」

 

かくして、「信心が同じくなれるか、なれないか」で意見が対立した論争なので、

「信心同異の諍論」と伝えられています。

 

●師への深い尊敬

 

親鸞聖人が、法然上人をいかに尊敬されていたかは、

有名な『歎異抄』第二章の、

 

たとい法然上人にすかされまいらせて、

念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候

 

“たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄へ堕ちても、

親鸞なんの後悔もないのだ”

という宣言、また「救われたのは、まったく阿弥陀仏のお力によってであった」

と感泣されている聖人が、

 

昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき

本師源空いまさずは

このたびむなしくすぎなまし

 

“親鸞、法然上人に救われた”

とまで言われている「ご和讃」からも窺えます。

聖人にとって法然上人は、まさに“いのち”であったのです。

その聖人が、

親鸞の信心は、法然上人の信心とまったく変わるところはありません。

同じです

と、何の躊躇もなく確言されていることには、

聖信房・勢観房・念仏房ならずとも、だれもが驚くのではないでしょうか。

「お前、何様のつもりだ。自惚れるな」

「法然上人をどんな方だと心得る。弟子としてあるまじきことだ」

と、激しく非難した3人の気持ちも分からないでもありません。

この3人も、ただの人ではなかった。

法然上人から親しく教えを受け、

皆さんに伝えることを使命としていた仏教の専門家であり、

法然門下380余名の中でも高弟と目され、

お師匠さまへの尊敬の深さは一方ならぬものでした。

だからこそ、親鸞聖人の、

「私の信心は、法然上人と同じです」の発言にいきり立ち、

「同じになれるはずがない。撤回せよ」と迫ったのです。

法然上人を尊敬していない3人なら、こんな反応はありえないでしょう。

また学問や理屈で分かることなら、

優秀な人たちが間違えるはずもありません。

 

●法然上人のご裁断

 

どれだけ論じても埒が明かないと見て3人は、法然上人をお呼びし、

ご裁断を仰ぐことになりました。

その時の“判決文”ともいえる上人のお言葉が残っています。

 

信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、

すなわち智慧格別なるが故に信また格別なり。

他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、

源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず。

ただ一つなり。

我が賢くて信ずるにあらず。

信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、

よくよく心得らるべき事なり 

                 (御伝鈔) 

 

これも分かりやすく描かれた、アニメで見てみましょう。


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法然上人「そなたたちは、私の信心と、異なると言ったのだな」

3人 「そのとおりでございます」

法然上人「皆、よく聞きなさい。信心が異なるというのは、

自力の信心であるからだ

3人 「えーっ!」

法然上人「自力の信心は、智恵や学問や才能で作り上げたもの。

その智恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、

自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ

勢観房「異なるのは、自力の信心か・・・」

法然上人

他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、

誰が受け取っても皆、同じ信心になるのである

聖信房「他力の信心は同じになる・・・」

法然上人「それ故に、阿弥陀如来から賜った私の信心も、

親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。

まったく同じになるのだよ

念仏房「それでは、親鸞の言うことが正しかったのか・・・」

法然上人「いいですか。この法然と異なる信心の者は、

私の往く極楽浄土へは往けませんよ。

心しておきなさい

3人 「はあっ」

念仏房「おのれ、親鸞。

よくもお師匠さまの前で恥を・・・」

 

こうして、彼ら高弟の誤りを正された親鸞聖人は、

いよいよ孤立していかれました。

今日「信心同異の諍論」と伝えられているこの論争は、

『歎異抄』後序にも記されています。

 

●一味平等の救いを鮮明に

 

これは決して、「愚かな人たちが、うっかり誤った」

という程度のものではないのです。

何億兆年と迷い続けてきた我々一人一人の魂にかかわる、

根深い重大な問題を孕んでいることを忘れてはなりません。

では、聖信房・勢観房・念仏房の3人が、

「法然上人の信心と同じになれなくて当然」

と間違った原因はどこにあるのか。

「信心」といえば、「智恵や学問、才能、経験」で作り上げたものしか

知らなかったところにあります。

これらは一人一人異なるものであり、

法然上人は卓越しておられたから、

「信心も異なって当然」と結論したのです。


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昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、

同宿して争っていました。

「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」

と、高山の男は言う。

「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。

この目でいつも見ていることだ」

と、一歩も引かないのは大島の男。そこへ宿屋の主人がやって来て、

「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。

太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」

と笑ったといいます。

同じ時計の音でも、金回りのいい人には、

「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」

と聞こえるそうですが、借金に追われている者には、

「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」

と時計までもが催促するといいます。

一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、

各人各別の智恵や才能、経験で固めた「自力の信心」は、

異なるのが特徴です。

それに対して「他力の信心」は、智恵や才能、

学問や経験、善人悪人などとは関係なく、

阿弥陀仏から賜る信心だから、誰が受け取ってもまったく同じになるのです。

TV局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小・新・旧、異なっても、

放送内容が変わるはずがない、のに例えられるでしょう。

あるいは、同じ日本銀行発行の一万円札ならば、

金襴・革・布、どんな素材の財布に入っていても、

同じく一万円の値があるようなもの、

と言えば分かりやすいでしょうか。

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慈悲平等の阿弥陀仏から賜った信心に、

相違があろうはずがない。法然の信心も親鸞の信心も、

ともに他力の信心、まったく違いはない。同じである

誤りやすいところを法然上人は懇ろに糾され、

この一味平等の絶対の救いを親鸞聖人は『正信偈』に、

「凡聖逆謗斉廻入

如衆水入海一味」

と鮮明にされて“片時も急いで弥陀の救いにあってくれよ”

と念じておられるのです。

 

 

 

 


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