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親鸞聖人から、あなたへのメッセージ [親鸞聖人]

親鸞聖人から、あなたへメッセージ

難思の弘誓は
難度の海を度する大船、
無碍の光明は
無明の闇を破する慧日なり

      (教行信証総序)

阿弥陀さまは苦しみ多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります。

今月も、親鸞聖人の主著『教行信証』の
冒頭のお言葉について学びましょう。


●「無碍の光明」とは

まず、「無碍の光明」について解説いたしましょう。
「光明」とは、「力」ということです。
一般にも、「親の七光り」「親の威光」
という言葉が使われます。
社長の息子が、実力もないのに難なく出世したり、
有名人の娘が、さほど魅力がなくても芸能界入りしたりすると、
「あれは親の七光りだ」とささやかれます。
もちろん、実際に親から虹のごとき七色の光がでるワケではなく、
親の「力」を「光」で表しているのです。
仏教では、「仏さまのお力」を「光明」といいます。
「無碍の光明」とは、すべての仏の本師本仏である
阿弥陀仏のお力のことです。

阿弥陀仏のお力は、何ものにも遮られない(碍とならない)
偉大な力ですから「無碍の光明」と言われ、

親鸞聖人は『正信偈』に阿弥陀仏のことを「無碍光如来」とも
仰っています。
この弥陀のお力を「他力」ともいいます。

●「他力」の本当の意味

「他力」と聞くと、どんなイメージがあるでしょうか。
「他人任せ」「他人依存」「自立心がない」
「自主性がない」など、
弱々しいものの代名詞になっており、
「他力本願ではダメだ」「他力本願を脱却しよう」
と使われたりもします。
それが高じてか、仏教を聞いている人までが
弱いイメージで見られがちです。
しかし、本当はどうなのでしょう?

強そうで弱いものは歯であり、
弱そうで強いものは舌だといわれます。
そういえば、バリバリ何でもかみ砕く歯は、
一見、強そうに見えますが案外もろく、折れたり、
虫歯でボロボロになったりします。
それに対して、弱そうに見えるコンニャクのような舌は、
生涯、抜けもせねば短くもならず、
「年取って、体のあちこち悪くなったが、
舌だけは元気」という人が多いようです。
同じように、人生にも、強そうで弱いものと、
弱そうで強いものとがあります。
お釈迦さまは、金や財産、名誉や権力を持っている人は、
一見、強そうに見えるが、本当は弱いものだ、
と仰っています。

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それに反して、弥陀に救われ、絶対の幸福に生かされている人は、
「他力の信心」などといわれますから、
他人に頼る弱い人間のように思われるかもしれませんが、
いざ鎌倉という時には、不思議な力を発揮しますので、
強い人間だと言われています。

事実、日本を一握りにし、難攻不落の大阪城を築き、
天下に号令した太閤秀吉も、
辞世の言葉は哀れなものでした。
「露とおち
露と消えにし 我が身かな
難波のことも 夢のまた夢」
と、寂しく息を引き取っています。
お釈迦さまの仰るとおり、
もはやそこには、天下人としての面影はありません。

遠くは欧州全土を征服したナポレオンや、
アレキサンダー、ジンギスカンも、
回天の大事業を成し遂げましたが、
人類に、一体、何を残したというのでしょうか。
大観すれば、ただひとときの夢の戯れにすぎません。

近くは、日本を不敗の神国と妄信し、
世界を相手に宣戦した立て役者、
東条英樹も、緒戦のカクカクたる戦果を上げていた時分は、
騎虎(きこ)の勢いでしたが、一敗地にまみれ、
A級戦犯の筆頭として、板敷きの上にワラ布団を置き、
五枚の毛布のほかは、
何も持ち込めない巣鴨の刑務所にぶち込まれ、
軍事法廷に立たされるや、
かつての、総理、陸相、参謀総長、内務、文部、
外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もなく、
孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿に、
人間本来の相(すがた)を見せつけられた思いを、
皆したはずです。

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しかも、その彼が、一度(ひとたび)、
仏縁に恵まれ大慈大悲の阿弥陀仏の本願にあうや、
死刑直前に、
「さらばなり 有為の奥山 今日こえて
弥陀のみもとで のびのびと寝ん」
「日も月も 蛍の光 さながらに
行く手に 弥陀の 光輝く」
と詠み遺しています。
人間のつけた、一切の虚飾を振るい落とされた、
そこにあるものは、か弱き葦(あし)のような、
罪悪にまみれた自己でしかありません。
悪夢から覚めた彼は、大罪を犯したが、
多生にも億劫にもあい難い、
弥陀の救いにあえたこと一つが有り難かったと、
絞首台に勇み足で立ったといわれています。

財産は、地変に遭えば潰れる。
建物は、災禍に遭えば灰になる。
名誉や地位の箔は、死の前には執着を増ばかり。
妻子は、輪廻の仲立ちにしかなりません。
全てが、一朝の夢にしかすぎないことが分かれば、
本願他力に生き抜かれた親鸞聖人のたくましさも、
蓮如上人の無碍の大活躍も理解されることと思います。

●極楽浄土まで届けてくださる阿弥陀仏のお力

このように、「他力」とは、
他人に依存することではありません。

他力の「他」とは、阿弥陀如来に限り、親鸞聖人は、

「他力」と言うは如来の本願力なり(教行信証)

とズバリ教えられています。
では、阿弥陀仏の本願力(他力)とは、
どのような力でしょうか?

それは、私たちを必ず南無阿弥陀仏の大船に乗せて
極楽浄土に届け、仏に生まれさせてくださるお力です。

ですから、阿弥陀さまに救われ、
南無阿弥陀仏の大船に乗った人には、
「極楽へ行けるだろうか」の不安は微塵もありません。
まだ救われていなければ、
「いつも親切しているし、
後ろ指さされるようなことはしていないから、
死んで悪いところにはいかないだろう。
でも、ひょっとしたら・・・」
「こんな嫌な心が出てくるようではナァ、
悪い世界に堕ちるのではなかろうか」
と、様々な疑いや不安が出てきて、
往生浄土(極楽に往く)の「碍り(さわり)」
(妨げ)となります。
この弥陀の本願に対する疑いの心を「無明の闇」といわれます。
往生浄土の「碍り」である無明の闇を照破する(無くす)
阿弥陀仏のお力を、「無碍の光明」と言われるのです。

阿弥陀仏の偉大なお力を、親鸞聖人は、ご和讃に、
「無明長夜の闇を破し
衆生の志願を満てたまう」
と教導されています。
阿弥陀仏は、昿劫といわれる遠い過去から今日まで、
私を迷わせ苦しませてきた苦悩の根元“無明長夜の闇”
をブチ破ってくださり、
「いつ死んでも極楽浄土に生まれさせる」願いを、
私たち(衆生)の身の上に満たしてくだされるのです。

こんな凄いお力の仏さまは阿弥陀仏だけです。
大宇宙に無量の仏さまがおられても、
無明の闇を晴らすことはできない。
お釈迦さまもできないことなのです。

●「無明の闇」を破る太陽

「慧日」とは、「智慧の太陽」のことで、
阿弥陀仏のお力を、無明の闇を破る太陽に例えられています。
「天に二日(にじつ)なし」ともいわれますように、
無明の闇を破る「太陽」もまた唯一なのだよと、
親鸞聖人は、弥陀の救いを称賛されているのです。
「必ず極楽浄土へ往ける」と、
未来明るい智者になるには、
智慧の太陽に照破されるまで、
仏法を聞かせていただくしかありません。

無碍の光明によって無明の闇が破られ、
いつ死んでも極楽往生間違いなしの身になった時、

人間に生まれてよかった!
苦しみも悲しみも、涙で過ごした日々も、
この幸せになるためだった。
この世の一切は、無上の法悦を得るために存在していたのだ

と生命の歓喜が沸き起こるのです。
この真実の幸せを獲るためにこそ、
私たちは生まれてきた。
そして今、生きているのです。

最後に今一度、『教行信証』冒頭のお言葉を拝読いたしましょう。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
            (教行信証総序)
“阿弥陀さまは 苦しい多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります”

八百年の時を超えて、親鸞聖人の力強いメッセージが
胸に迫るではありませんか。


 


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