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あなたも親鸞聖人が好きになる! [親鸞聖人]

 底知れぬ魅力はどこから?
みんな親鸞聖人が好きになる

3年前の七百五十回忌を縁に、
親鸞聖人の、時代を超えた人気を
再認識された方も多いでしょう。

浄土真宗の人はもちろん、
著名人や作家、思想家など、
聖人を讃仰する声は世に満ちています。
例えば、
鎌倉(時代)というのは、
一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった
        (司馬遼太郎)
有名な歴史小説家が、日本を代表する
人物として聖人の名を挙げています。

また文豪・夏目漱石も、
親鸞上人に初めから非常な思想が有り、
非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、
あれ程の大改革(肉食妻帯)はできない
と驚きとともに称讃しています。

鋭い感性を持った作家や知識人が、
なぜこれほど聖人をたたえるのでしょう。

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●31歳の肉食妻帯(結婚)
  世の常識を破り、断行なされた御心は?

90年のご一生のエピソードの中から、
今回は特に有名な「肉食妻帯」について学びましょう。
「親鸞聖人が非常な強い根底のある思想をもたなければ、
あれ程の大改革はできない」
と夏目漱石がたたえた肉食妻帯とはどういうことなのでしょう。
僧侶には元来、「戒律」という決まり事があり、
「肉食妻帯の禁」はその代表的なものです。
肉食は「殺生(生き物を殺すこと)」であり、
妻帯は「女犯(にょぼん)」ですから、
いずれも修行(善行)を妨げる悪の行為として禁じられるのです。
その戒律を公然と破り、肉食妻帯されたことは、
仏教界では重大かつ衝撃的な事件でした。
どんな経緯があったのでしょうか。
聖人のアニメで見てみましょう。

なぜあえて茨の道を?

このように、当時、肉食妻帯の断行は
大変な茨の道でありました。
その険しい道を、なぜあえて、聖人は歩まれたのでしょう。
「つらい修行がイヤになったから?」
「自分に正直に生きていかれたのだろう」
皆さん、いろいろ思われましょうが、
そこには、仏法の教えに基づいた確固たる理由があったのです。
紹介したアニメのセリフに、その心が表明されています。

全ての人がありのままの姿で救われるのが、
真実の仏法(阿弥陀如来の本願)であることを
分かっていただくご縁になれば、
親鸞、厭いは致しません

よいか、玉日、僧侶も、在家の人も、
男も、女も、ありのままで、
等しく救いたもうのが阿弥陀如来の本願。
その真実の仏法を、
今こそ明らかにせねばならぬのだ

世間の評判や保身、自己の利益ではなく、
阿弥陀如来(弥陀)の本願をいかに多くの人に
明らかにするかだけを
問題にされていることが分かります。
肉食妻帯もそのためだ、と聖人は明言されているのです。
では、聖人が生涯これ一つ開顕なされた弥陀の本願とは、
どんなことなのでしょうか。

●すべての人を救う
  阿弥陀如来の本願

阿弥陀如来とは、お釈迦さまが私たちに
紹介してくだされた仏さまです。
仏教では、この大宇宙には、
地球のような世界がガンジス川の砂ほど無量にあり、
それぞれに仏がまします。
十方諸仏といい、地球上の釈迦もその一仏です。
これらの諸仏方が「われらの尊い先生、本師本仏だ」
と崇敬し、異口同音に褒めたたえるのが
阿弥陀仏という仏さまなのです。
その阿弥陀仏が、全ての人を無上の幸せに救ってみせると、
命懸けで誓われたお約束が「阿弥陀仏の本願」です。
この無上殊勝の本願を私たちに教えるために、
釈迦は仏教を説かれたのだと、
親鸞聖人は、

「如来、世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんがためなり」
           (正信偈)
釈迦如来がこの世に現れられた目的は、
ただ弥陀の本願一つを教えるためであった

と断言なされ、ご自身も、釈迦が唯説なさった
弥陀の本願を生涯、説き明かされたのです。
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弥陀の本願は「十方衆生(全ての人)」
を無上の幸せに必ず救う、という誓いです。
全ての人が対象ですから、
私もあなたも、この本願に無関係な人は
一人もないのです。

●どんな者を救う
    お約束か

では阿弥陀仏は、約束の相手である私たちを、
どのような者と見られているのでしょう。
これが分からねば、弥陀の本願と相応せず、
救われませんから、極めて重要です。
有名な『歎異抄』第1章には、

「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」
煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために
建てられたのが、阿弥陀仏の本願である

とあります。
阿弥陀仏の本願は、欲、怒り、ネタミ、
ソネミの煩悩が激しく燃えている極重の悪人が相手である、
と仰せです。
全ての人間を、煩悩の塊であり、罪悪を造り通しの者であると
見抜かれているのです。

●聖人20年間の
    煩悩との格闘

このような弥陀の本願を知られなかった聖人は、
9歳で仏門に入ってより20年、
煩悩と格闘なさっていました。
4歳で父上、8歳で母上と悲しい別れをなされ、
「次に死ぬのは自分だ。死ねばどうなる?」
と100パーセントの未来、後生(来世)不安な心を解決したいと
願われてのことです。
それには仏道に励むしかないと、
厳しい修行に身を投じられました。
日々、懸命に身を修め、勉学に励み、やがて並ぶ者なき優秀さで
「叡山の麒麟児」とまでうたわれていました。
ところが、誰よりも厳しく自己を律して
思い知らされたのは己の醜い内面でした。
そのきっかけが、玉日姫との出会いだったのです。

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仏の化身か魔性の女か、あまりの美しさに虜になった聖人は、
寝ては夢、起きては現(うつつ)と姫の幻想に苦悶します。
思いを「仏道一つ」と振り払っても、
「親鸞さま、親鸞さま」
と鈴を振るような声が耳について離れない。
身は叡山にあって善を修め、
口に尊い経文を唱えつつ、心は女性を抱き締めている。
「ああ・・・この心・・・」
封じ込めようとするほど、
マグマの如く噴き上がる煩悩は果てしがない。
煩悶する聖人の苦しみは、いかばかりであったでしょう。

●問題は「心」

こんな話があります。
二人の禅僧が諸国行脚中、小川にさしかかった。
美しい娘が、連日の雨で川が増水し、
とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私が渡してあげよう」
僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は、顔を赤らめ礼を言って立ち去った。
同伴の僧がそれを見て、かりにも女を抱くとはけしからんとでも
思ったのか、無言の行に入ってしまった。
戒律のやかましい禅宗では、
女性に触れてはならないとされているからだろう。
日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、お前、まだあの女を抱いていたのか」
件(くだん)の僧はカラカラと笑った。
連れの僧は、いつまでも抱いていた心の生臭さを突かれて、
返す言葉がなかったという。

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問題は、その心にあるのです。
心こそ、もっとも最大視されねばならないはずなのに、
人間の社会では、どんな悪い考えを抱いていても、
それだけで法律に抵触(ていしょく)するわけではありません。
私たちがふだん、善悪の基準としている法律や道徳は、
恐喝や詐欺など口の行為にも時には触れますが、
主に問題になるのは身の行為です。
そんな善悪に慣れていると、
聖人の苦しみは理解しがたいものでしょう。
法を犯すわけでも、道徳に背くわけでもないのに、
心で思うだけで何か悪いのかと思うのも、無理からぬことです。

●心の動き
  すべて知っておるぞ

しかし、仏さまは「見聞知」のお方。
「そなたのやっていることを見ておるぞ、
口で言っていることを聞いておるぞ、
心で思っていることを知っておるぞ」
と、私たちの身口意の全てをごらんになっている。

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だから仏教では、私たちの行いを
身、口、心の三方面から教えます。
「身口意の三業」といい、特に重視するのが
「意業(心の行い)」です。
心で思わぬことを言ったり、やったりはしない。
私たちのどんな言動も心の命令によるのですから、
司令塔である心を、仏教は最も重視するのです。
例えれば口や身は火の粉、
心が火の元です。
火元へ放水せねば鎮火できぬように、
心の悪を取り締まらぬ限り、
身や口の悪は止まないのです。
親鸞聖人もそう熟知され、何とか心を正そうと懸命に努力されましたが、
山中で悪いことを「見ざる」「言わざる」「聞かざる」はできても、
「思わざる」だけはどうしてもできなかった。
どうにもならぬ心の悪に絶望し、
ついに修行を断念、泣く泣く比叡山を下りられました。
やがて聖人は、法然上人との邂逅(かいこう)を果たし、
間もなく阿弥陀如来(弥陀)の本願によって救い摂られたのです。
29歳の御時でした。

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●肉食妻帯は
   すべての人の姿

形の上で肉食をせず、妻を娶らず(めとらず)とも、
心はどうか。
親鸞聖人が20年の修行を捨てて山を下りられたのは、
口や身は「麒麟児(きりんじ)」でも、
常に心で女を抱き続けている自己に驚かれたからです。
その聖人が弥陀の救いにあわれて知らされたのは、
そういうどうにもならなぬ親鸞を、
阿弥陀仏一仏が遠い過去からお見抜きで、
“その煩悩具足のおまえをそのまま救ってやろう”
とお立ちづめであった、ということでした。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」  
           (歎異抄)
五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねて
建ててくだされた弥陀の本願は、
こんな煩悩の塊の親鸞一人のためでありました

と絶叫されています。
弥陀の光明に照らし抜かれた一念に、
煩悩100パーセントの真実の自己が疑いなく知らされ、
同時に、今死んでも浄土往生間違いなし、
と本願に疑い晴れたのです。
そして、知らされた罪悪深重の自己の姿は、
全ての人間の姿なのだと、聖人は喝破されています。
口や身で殺さなくても、心で思えば殺生であり、
たとえ結婚していなくても、心で犯せば女犯(にょぼん)です。
心を見れば、全ての人間が肉食妻帯の悪人であり、
そんな者をそのままで、極楽一定の身に必ず救う
と、阿弥陀仏は誓われているのです。
地獄一定の親鸞を、よくぞ救いたもうた。
この弥陀のご本願、いかにしたら一刻も早く、
一人でも多く伝えられようか。
聖人は全生命を懸けずにいられなかった。
破天荒な肉食妻帯も、弥陀の本願の布教以外には
ありませんでした。
そのために受ける非難攻撃など物の数ではない。

「唯仏恩の深きことを念じて、
人倫の嘲り(あざけり)を恥じず」
        (教行信証)
弥陀の本願を知らぬ人たちから疑謗破滅を受けるほど、
ますます弥陀の救いを伝えなくては、と親鸞、
ファイトが湧いてくる

と立ち向かわれたのです。

●ご活躍の源泉は?

このように、親鸞聖人のご生涯には、
我々の想像を超えたご活躍が随所に見られます。
それは、聖人が特別優れていられたからできたことなのか。
もちろん、ズバ抜けた学識と教化力、
人徳を持つお方でありましたが、
ご自身は意外な告白をなさっています。

「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ」
(少しぐらいは他人を哀れみ、悲しみ、
助ける心があるように思っていたが、
とんでもない錯覚だった。
親鸞には、慈悲のかけらもなかったのだ)

救われても煩悩具足は変わらない。
人を助けたい心などさらさらない親鸞なのだ、と仰せです。
「エッ、それなら私と一緒。
でも、あれほどのご布教はどうして?」
と尋ねる私たちに聖人は、
「それは私の力ではない。
南無阿弥陀仏のお働きによるのだよ」
と教えられています。
聖人が29歳の御時、阿弥陀如来の本願に救い摂られた、
とは、阿弥陀仏が苦悩に沈む全ての人間を救うために、
大変なご苦労の末に成就なされた「南無阿弥陀仏」
の六字の御名号を頂いたということです。

「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲ることなり」
           (蓮如上人・御一代記聞書)
(弥陀に救われたとは、煩悩具足の私が
南無阿弥陀仏の六字の名号と一体になったことをいう。
それを信心獲得ともいうのだよ)

と言われています。
この南無阿弥陀仏には、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、
極まりなし」
          (御文章)
といわれるように、大宇宙の宝が全て封じ込められていますから、
「功徳の大宝海」とか「至徳」といわれます。
弥陀に救われたならば、煩悩具足のままで
南無阿弥陀仏と一体になり、至徳具足となるのです。

●南無阿弥陀仏の
   躍動に身をまかせ

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の「智慧(厳しさ)」と「慈悲(優しさ)」
の結晶です。
阿弥陀仏は「光寿無量の仏」といわれます。
「光明(智慧)」と「寿命(慈悲)」に限りがないということで、
阿弥陀仏がどんな煩悩具足の極悪人をも救ってくださるのは、
救うお力が無限であるからです。
この弥陀から賜った智慧の働きが、
聖人の厳しさとなって現れれば、
いかなる迫害にもひるまぬ肉食妻帯の断行となり、
弥陀の慈悲の現れが、底無しの慈愛に満ちた聖人の優しさです。
聖人90年のご活躍の源泉は、
29歳、弥陀の救いにあわれ、
名号六字と一体となったことであり、
その後の大活躍は、全て南無阿弥陀仏の偉大な躍動なのです。
多くの人を引きつける聖人の底知れぬ魅力は、
この南無阿弥陀仏の智慧と慈悲の顕現(現れ)であることを
よく知っていただきたいと思います。

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体験手記
「アニメは聖人直々のご説法」
    忘れられぬ母の姿
   山村 恭子さん(熊本県)

私を親鸞聖人の教えに導いてくれたのは、
今は亡き母でした。
昭和24年に私の妹が3歳で亡くなってから、
母は仏教に心を寄せ、昭和55年に父、さらには祖父が亡くなると、
それからは毎日のように寺参りするようになりました。
しかし、何か今一つ物足りないと思っていたようです。
そんな母に、祖母が雨でびしょ濡れになった一枚のチラシを渡しました。
そのチラシをご縁に、この世で明らかに救うと誓われた弥陀の本願、
本当の親鸞聖人の教えに巡り遇い、
聞くようになりました。
自分の求めていたものがあったと
大喜びした母の変わりようは大変なものでした。
いちずに家族に伝えようと、仏法一筋、聴聞最優先で、
毎週、遠方まで聞法に行くようになったのです。
自己にも子供たちにも厳しい母の言動が私は理解できず、
反発ばかりしていました。
「何でこんないい話、聞かんとね」
と、母はよく口にしていました。
それは「仏法を聞け、聞け」
という母の勧めであったのでしょう。
仏縁のない私たちに、何としても弥陀の本願を聞かせたかったのだと思います。

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やがて、そんな母が心臓を悪くして入院し、
私は介護の毎日となりました。
病院で母は、アニメ『世界の光・親鸞聖人』
を毎日一巻ずつ見ていました。
「このアニメは親鸞聖人の直のご説法だ」
と、アニメを見る時はご説法を聴聞するのと同様に
身支度を整え、ベッドの上で正座して見ていました。
私も世話のために、一緒に座って見ていましたが、
今にして思えば、仏法の分からぬ私に、
母は姿にかけて仏法の尊さを教えてくれたのでしょう。
上映が終わると、ビデオテープを巻き戻し、
明日見るアニメを準備しておくのが、私の仕事でした。

そんな母から、私が仏法を聞く縁となった衝撃的な事件がありました。
いつものように朝食の世話を済ませ、
自宅へ戻って庭掃除をしていた時、
看護師から電話がありました。
「お母さんの様子がおかしいので、
すぐ病院に戻ってきてください」
とのこと。
容体が悪化したのかと思い、
すぐ駆けつけると、目を真っ赤にして
「本当だった。私をこんな幸せにしてくださるとは本当だった」
と繰り返し弥陀の本願を喜ぶ母がいたのです。
看護師さんは様子がおかしい、と思ったのでしょう。
仏縁の薄い私も、容体がおかしいとしか思えませんでした。
その時母は、このような歌を私に筆記させました。

  あら不思議
心は弥陀に いだかれて
 南無阿弥陀仏の
    船の中とは

その後もなかなか仏法を聞こうとしなかった私でしたが、
“阿弥陀さまに救われた、明らかな世界が本当にあるんだな”
と知らされ、いろいろなご縁によって、
今は親鸞聖人の教えを求める身となりました。
亡き母に心から言いたいです。
「お母さん、私を生んでくれて本当にありがとう。
仏法を伝えてくれて本当にありがとう」
姿にかけて教えてくれた母の聞法を見習い、
この大恩に報いるべく、弥陀の救いにあうまで
真剣に聞き求めたいと思います。

 


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