関東の二十四輩・信願房へのお諭し [親鸞聖人の旅]
(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
親鸞聖人の旅
関東の二十四輩・信願房へのお諭し
親鸞聖人の熱烈な布教により、他宗の僧が、
寺ごと真宗に変わった例が多く見られる。
栃木県宇都宮市の観専寺もそうであり、
開基・信願房(しんがんぼう)は二十四輩の
一人になっている。
信願房への、聖人晩年のお諭しを通し、
真の報恩とは何かを考えてみよう。
●天台宗から改宗
観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、
常陸稲木の領主であった。
地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を
突然の不幸が襲った。
最愛の一子が病で亡くなったのである。
「ああ、あまりにもむごい・・・。
あの子は、どこへ行ったのか・・・。
幼い子供にさえ死は容赦しない。
まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ」
無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決目指して
出家し、宇都宮に寺を建てた。
天台宗の修行に励んだのである。
どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、
親鸞聖人との出会いであった。
しかも、聖人のほうから飛び込んでこられた。
高田に新たな拠点を築かれ、
布教戦線を拡大しておられた聖人は、
観専寺で一夜の宿を請われたのである。
聖人は、住職を、夜を徹して顕正なされた。
比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では
決して救われないことを明らかにされたのである。
初めて真実の教えを知らされた義清は、
直ちに聖人のお弟子になり、「信願房」と生まれ変わった。
観専寺では、翌日から、里人を集めて
親鸞聖人のご法話が開かれている。
「後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ
絶対に解決する道はありません。
阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず助けると
誓っておられるのです」
と静かに説かれるや、
「老若男女の念仏に帰すること、
草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は
四方にひびきわたった」
と寺伝に記されている。
●真の報恩
親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、
信願房は、師の聖人を慕って上洛している。
聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが
胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようだった。
親鸞聖人は、信願房にこう諭されている。
「仏恩、師の恩を報ずるということは、
自信教人信にしくものはない」
「自信教人信」とは、善導大師のお言葉、
「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」
の一節である。
「自分が信心決定することは大変難しいことだ。
人を信心決定まで導くことはさらに難しいことだ。
だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、
いちばんの御恩報謝になるのだ」
と教えられているのである。
(信心決定<しんじんけつじょう>とは、阿弥陀仏に救われること)
親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に
救ってくださった阿弥陀仏のご恩、
救われるまで導いてくださった善知識のご恩に
報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を
伝える以外にない、と言い切っておられる。
信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人のみ教えの
徹底に生涯をかけた。
常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、
信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいる。
●文章伝道のさきがけ
親鸞聖人が京都へ帰られたあと、
聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状であった。
関東から、信心や教学についての疑問が手紙で寄せられる。
親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられる。
しかも、手紙の最後は、
「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」とか、
「かように申し候様を、人々にも申され候べし」
と書き添えておられる。
聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、
親鸞聖人のじかのご説法として、
門徒に読み聞かせたに違いない。
現在、親鸞聖人の書状は46通知られているが、
そのうち、30通が、写本、版本である。
聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、
10万以上の人たちに伝わったのであろう。
お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、
文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、
繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が
目に浮かぶようだ。
これはまさに、文章伝達のさきがけである。
この方法をさらに徹底されたのが、
蓮如上人の『御文章』といえる。
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