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極楽に蓮の花が咲いている訳 [救われるとどうなる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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仏事になじみ深いのが、蓮の花

仏教では、蓮を大切にします。

 

極楽浄土に咲くのは、桜でも菊でもなく、

清浄な蓮の花ばかりといわれます。

その理由は、どこにあるのでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   蓮は極楽の花

 

「在る日のことでございます。

お釈迦さまは極楽の蓮池のふちを、

独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。

池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、

そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、

何とも云えない好い匂が、絶え間なくあたりへ溢れております。

極楽は丁度朝なのでございましょう。

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文豪・芥川龍之介は、代表作『くもの糸』の冒頭に、

極楽の様子をこう書きました。

極楽と聞けば、きらびやかな、百花繚乱の荘厳を

連想する人も多いでしょう。

ところが「極楽絵図」には、蓮の花ばかりが描かれ、

仏さま方は、みな蓮の台(うてな)の上におられます。

そういえば、お仏壇や墓石に描かれているのも蓮の花。

有名な『阿弥陀経』には、

「池の中に蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し」

と浄土の様子が描かれています。

仏教で花といえば、蓮のことと言っても過言ではありません。

 

  極楽に蓮の花が

   咲いている訳

 

なぜ、蓮がよく登場するのでしょうか。

それは、蓮の花が、仏教で教えられる「正しい信心」の

特徴を表しているからです。

 

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだ、

と思う人があるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、

一日たりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きておれると、命を信じて生きています。

いつまでも達者でおれると、健康を信じています。

金や財産があるから安心だ、地位や名誉があるから大丈夫と

信じる人も、それらの信心を持っているのです。

夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、親は子供を信じています。

政治、科学、思想、何かを信じなければ、

私たちは生きていけません。

神や仏を信じるだけが、信心ではありません。

何かを信じておれば、それはその人の信心です。

何を命として信じるかは、一人一人違いましょうが、

すべての人は何らかの信心を持って生きているのです。

生きるとは、信じることだといえましょう。

 

ところが私たちが、信じていたものに裏切られた時に、

苦しみ悩みます。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、

家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、

夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

しかも、深く信じていればいるほど、

裏切られた苦悩や悲しみ、怒りが大きくなります。

私たちは決して、苦しみ悲しむために

生まれてきたのではありません。

生きているのでもありません。

幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年、信じられるものがあったとしても、

私たちは最後、死なねばなりません。

いよいよ死んでいかねばならない時には、

信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、

この肉体さえも焼いていかなければなりません。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、

苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、

絶対裏切ることのない「正しい信心」を持ちなさいよと、

親鸞聖人は教えていかれました。

その正しい信心とはどんなものかを、

蓮の花の五つの特徴が表しているのです。

これを「蓮華の五徳」といわれます。

 

「蓮華の五徳」

 

蓮華の五徳」とは、次の5つをいいます。

 

①淤泥不染(おでいふぜん)の徳

②一茎一花(いっけいいっか)の徳

③花果同時(かかどうじ)の徳

④一花多果(いっかたか)の徳

⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳

 

●どんな人の心に

    信心の花が開くのか

       ①淤泥不染の徳

 

蓮の花は、高原陸地には咲かず、泥沼(淤泥)に咲くという

特徴を持っています。

しかもその花は、泥の汚れに染まらず、

清浄な輝きを放つのです。

 

これは、正しい信心が、どんな人の心の中に開くかを

教えています。

ここで「淤泥」、泥沼に例えられたのは、

悪人のことです。

また、高原陸地とは、善人を例えています。

正しい信心は、善人の心中には徹底せず、

悪人の心の中にこそ、開発(かいほつ)するのです。

親鸞聖人は、有名な『歎異抄』に、

こうおっしゃっています。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

 

このお言葉を、多くの人は、「善人より悪人が救われるのか、

ならば悪いことをすればよいのか」と思いますが、

大変な間違いです。

これを正しく読むには、聖人のおっしゃる「悪人」とは

どんな人かを、よく知らなければなりません。

 

■「悪人」とはだれのことか

 

聖人のいわれる「悪人」とは、常識や法律、

倫理・道徳の悪人とは全く異なります。

「自分ほどの悪人はなかった」と、

自己の真実の姿を知らされた人のことなのです。

仏教は「法鏡」ともいわれ、私たち人間の本当の姿を、

明らかに映す鏡であると教えられます。

微塵の悪も見逃されない仏さまの眼からごらんになれば、

すべての人間は一人残らず悪人であると、

お釈迦さまは仰せです。

 

心常念悪(心常に悪を念じ) 

 口常言悪(口常に悪を言い)

 身常行悪(身常に悪を行じ)  

 曽無一善(曽て一善無し)」

       (大無量寿経

 

仏眼からは、心も、口も、体も、悪ばかりで

一つの善もない。

人間の実相を喝破なされた、釈尊のご金言です。

世界の光と仰がれる親鸞聖人もまた、

法鏡に映し出されたご自身の姿を、「一生造悪」

「極悪最下」「極重の悪人」とおっしゃり、

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄)

 

と、悲痛な告白をしておられます。

これは、決して聖人だけのことではなく、

古今東西の全人類、変わらぬ姿なのです。

では、「善人」とは、どんな人なのでしょうか。

それは、悪しか造れぬ己の実態が分からず、

善人とうぬぼれている人のことです。

例を挙げれば、〝その気になれば善ができると思っている人〟や、

〝あの人と比べれば私のほうがましだと思っている人〟

〝悪いことはするけど、反省する心ぐらいあると思っている人〟

などです。

 

鏡に近づけば近づくほど、

自分の容姿がハッキリ見えてくるように、

仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、

自分の本当の姿です。

そして、阿弥陀如来のお力で、地獄より行き場のない

極悪最下の者が自分であると知らされた「悪人」の

心の中にこそ、正しい信心の花が開くのです。

 

■何ものにも染まらず輝く真実信心

 

「不染」とは、読んで字のごとく「染まらない」ということです。

蓮の花は、泥中にありながら、汚されることなく、

美しく咲いています。

また、泥沼のままで、きれいな土地に変わることもありません。

これは、正しい信心を獲て、大安心大満足の心に救われても、

「煩悩」は全く変わらないということです。

煩悩は一人一人に108ずつあり、中でも恐ろしいのが、

三毒の煩悩といわれる、貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、

愚痴(ねたみそねみの心)です。

これらの煩悩は死ぬまで、なくなりもしなければ減りもしません。

しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、

いつでもどこでも煩悩一杯が、幸せ一杯となるのです。

これを「煩悩即菩提」といいます。

苦悩がそのまま歓喜となる、煩悩即菩提の不思議さを、

親鸞聖人は次のような例えで説かれています。

 

罪障功徳の体となる

こおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおし

さわりおおきに徳おおし」  (高僧和讃)

 

欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、

幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。

大きな氷ほど解けた水が多いように、

極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ」

シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、

煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、

すごい確信に満ちた、聖人のお言葉です。

正しい信心を獲れば、私たちも皆、

親鸞聖人と同じ境地に出させていただけるのです。

               (淤泥不染の徳

 

往生は一人一人のしのぎ

    ②一茎一花の徳

 

蓮の花は、一本の茎に一つの花しか咲かせません。

チューリップなどほかの花にも見られますが、

蓮の特色の一つです。

 

正しい信心は、一人一人が求めねばならず、

決して身代わりは利かないということを表したものです。

蓮如上人の『御一代記聞書』に、「往生は一人一人のしのぎ」

とおっしゃっています。

後生の一大事は、自分自身の問題であり、

他人事ではありません。

正しい信心は、一人一人が求め、獲得しなければならないのです。

ところが、

〝親鸞さまや蓮如上人さまが、代わりに

ご苦労をしてくだされたのだから、

私たちは求めることも聞き歩くことも要らない。

ありがたいことじゃ〟

と、思っている人があるようです。

 

■ご自身のためであり

   私たちのためでもある

 

善知識方のご苦労には、2とおりあります。

一つは、ご自身の後生の一大事を解決されるための

ご苦労です。そしてもう一つは、私たちのためのご苦労です。

こんな例え話があります。

 

夏の盛り、高い山に登る人たちがあった。

汗は滝のように流れ、のどはカラカラ。

手持ちの水筒は空っぽ。渇するあまり、

「もう一歩も歩けない」と、一人また一人、

動けなくなりその場に座り込んでしまう。

最後の一人が、気力を振り絞って登っていく。

登れど登れど、しかしどこにも水はない。

やがてその男も、精根尽き果ててバッタリ倒れてしまった。

と、倒れた場所のすぐそばに、冷たい清水が、

こんこんとわき出ているではないか。

思わず男は顔を突っ込み、ガブガブ飲んだ。

清水の冷たさが全身にしみわたる。

九死に一生を得た男は、

「ああ、この水のおかげで助かったぞ-!」と、

大喜びである。

そして、大声で呼ばずにおれなかった。

「おーい、ここまで来いよ-!。

ここにおいしい清水があるぞー!」

手にした笠を振りかざし、力の限り叫ぶ。

力尽き倒れていた人たちは、その声に勇気づけられ、

清水のある場所まで懸命に登ろうとする。

そしてたどり着き、のどを潤した同士もまた、叫んだ。

「本当だ、ここに清水があるぞ!」

こうして次々と助かった人々は、

最初に清水を見つけた人に感謝せずにおれなかった。

〝笠上げて 道連れ招く 清水かな〟

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親鸞聖人は、800年前、後生の一大事の解決という「山登り」を

なされました。

比叡山で20年間、血のにじむご修行に励まれるも

一大事の解決はならず、泣く泣く山を下りられた聖人は、

法然上人より阿弥陀仏の本願を知らされ、来る日も来る日も、

必死の聞法を重ねられました。

建仁元年、29歳の御時、阿弥陀仏の救済にあわれた聖人は、

自らの体験と救い摂られたことへの感謝を、

実に生々しく感動的に叫び上げられています。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻(たび)疑網に覆蔽せられなば

更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

             (教行信証)

ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、

求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない。

もし今生も、無明の闇(後生暗い心)の晴れぬままで

終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。

何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、

知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを

 

聖人は、この生命の大歓喜、弥陀に救われた世界を、

90歳でお亡くなりになるまで、

私たちにお叫びくださったのです。

親鸞聖人ほか、善知識方が、阿弥陀如来に救われるまでの

ご苦労は、ご自身のためのものです。

これは先ほどの例え話では、気力ある一人が、

先陣切って山を登っていく苦労に当たります。

見つけた清水の在りかを、笠振り叫ばずにおれないとは、

阿弥陀仏の本願という清水を皆に伝え、

飲ませようとしてのことです。

これは私たちのため、ひとえに私たちの後生を

案じてくだされてのご苦労なのです。

その聖人のご教導に従い、一人一人が、

正しい信心を求めねばなりません。

         (一茎一花の徳

 

信心の「花」と

  幸福の「実」は一念同時

       ③花果同時の徳

 

蓮は、花開くと同時に実ができるという特徴があります。

普通は、開花から実を結ぶまで時間がかかりますが、

蓮の花は違います。また、蓮の花はだんだんと開くのではなく、

一気に音を立てて開きます。

 

これは、正しい信心は「一念」で獲得させていただけることを

表しています。「一念」とは、

何億分の1秒よりも速い時をいいます。

蓮の花がパッと開くように、真実の信心は、

アッという間もない一念で獲得できるのです。

だんだんと信ずるのでもなければ、いつとはなしに信心を

頂くのでもありません。

中国の高僧・曇鸞大師は、阿弥陀如来の救いの速さを、

有名な例えで解説されています。

 

譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば

すなわち明朗なるが如し。

闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや

                (浄土論註)

たとえ千年間、闇に閉ざされてきた部屋でも、

明るくするのに時間はかからないだろう。

光がさし込むと同時に、闇はなくなる。

千年も真っ暗だったからといって、闇が晴れるのに

時間がかかるということはない

 

しかも、一念の信心を獲ると同時に、正定聚の身になるのです。

蓮如上人は、そのことを『御文章』に、

「その位を『一念発起・入正定聚』とも釈し」と

おっしゃっています。

「正定聚」とは、「間違いなく仏になることに定まった人々」

ということですから、いつ死んでも、必ず浄土へ往ける、

大安心・大満足の身になるのです。

絶対に崩れない幸福ですから、今日の言葉で、

絶対の幸福ともいいます。

一念の信心の「花」開くと同時に、

絶対の幸福の「実」を頂けるのです。

 

正しい信心は、〝いつとはなしに頂く〟のでもなければ、

〝信心しておれば、そのうちご利益がある〟という信心とも

全く違います。

一念で獲得でき、同時に絶対の幸福に救い摂られる信心なのです。

             (花果同時の徳

 

限りない幸福の「実」

    ④一花多果の徳

 

蓮は、一つの花からたくさんの実ができます。

これに対して、柿やミカンなどは一つの花から

一つの実しかできません。

 

正しい信心を獲得した人は、

この世から数多くの利益(りやく)が

頂けることを表します。

「利益」と聞きますと、新興宗教のゴ利益を連想して、

よい印象をもたない方もあるかもしれませんが、

本来は仏教の言葉で「幸福」という意味です。

経典の中にも頻繁に出てきます。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信ずる人は、

計り知れない幸福に恵まれることを、

次のように教えられています。

 

南無阿弥陀仏をとなうれば

この世の利益(りやく)きわもなし

流転輪廻のつみきえて

定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ」 

              (現世利益和讃)

信心獲得して、他力の念仏称えれば、

この世の幸福は限りなく、当然受けねばならぬ業報も、

若死にをすることもなく、天寿を全うすることができるのだ、

と言われています。

そういえば、真宗の善知識方は、

皆ずば抜けてご長命ではありませんか。

親鸞聖人は90歳、蓮如上人は85歳、覚如上人は82歳の

天寿を全うされているのも、うなずけるでしょう。

 

■現世十種の益


数限りない利益を親鸞聖人は、『教行信証』に十にまとめて、

現世十種の益」で教えられています。

 

(1)冥衆護持の益

もろもろの菩薩や諸神(冥衆)が、

夜昼常に守護してくださる。

(2)至徳具足の益

大宇宙最高の功徳(至徳)である南無阿弥陀仏

と私が一体となる。

(3)転悪成善の益

苦しみが転じて楽しみとなる。

(4)諸仏護念の益

十方の諸仏方が百重千重に囲んで

護ってくださる。

(5)諸仏称賛の益

十方の諸仏方が、「妙好人だ、希有人だ」

と褒めたたえてくださる。

(6)心光常護の益

阿弥陀仏が、常に護ってくださる。心光とは

阿弥陀仏の光明、念力。

(7)心多歓喜の益

心に喜びがあふれる。

(8)知恩報徳の益

仏智のはたらきで、阿弥陀仏や善知識のご恩が

知らされ、報いずにおれない。

(9)常光大悲の益

大悲とは、阿弥陀如来の大慈悲心のこと。

弥陀の本願を伝えずにおれなくなる。

(10)入正定聚の益

正定聚の位に入る(正定聚とは、間違いなく

仏になることに定まった人々ということで、

いつ死んでも極楽往生間違いない身になる)。

 

信心の花が開くと、このような限りない

幸福の実が得られるのです。

          (一花多果の徳

 

親鸞聖人の

   たくましさの源泉

      ⑤中虚外直の徳

 

最後は茎の特徴です。

蓮の茎は、中に小さな穴がたくさん空いています(中虚)。

一見、弱々しい感じがしますが、大変強く、

真っ直ぐに花を支えているのです(外直)。

 

「他力の信心」などと聞きますから、「仏法を聞くのは、

弱い人間ではないか」と思う人がありますが、

阿弥陀如来に救い摂られ、絶対の幸福になった人は、

いざ鎌倉と言う時には不思議な力を発揮するものだから、

本当に強いたくましい人間だと、

お釈迦さまはおっしゃっています。

それに対して、金や財産や名誉や権力を持っている者は、

一見強そうに見えるが本当は弱いものだといわれるのです。

日本を一握りにした太閤秀吉も、臨終には天下人の面影もなく、

「露とおち露と消えにしわが身かな 

難波のことも夢のまた夢」と、

寂しく息を引き取りました。

過去にも、幾多の英雄、名士が大事業を成し遂げましたが、

しかし彼らは、後世に一体何を残したのか。

大観すれば、それはただ、ひとときの夢のようなもの

ではなかったでしょうか。

財産は、地変に遭えばつぶれます。

建物は、災禍に遭えば灰になります。

名誉や地位のはくは、死の前には執着を増すばかりです。

永劫生き抜く他力金剛心の信心を獲なければ、

すべてが一朝の夢にしかすぎないのだと知らされます。

あの親鸞聖人のたくましさ、蓮如上人の大活躍も、

その源泉は、弥陀より賜った他力の大信心にあったと知れば、

うなずけるではありませんか。   (中虚外直の徳

 

現在ただいま、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、

一息切れると同時に、極楽浄土の蓮の台(うてな)に

生まれさせていただけますから、親鸞聖人は、

信心獲得を急げと叫び続けられていかれたのです。

親鸞聖人の教えを真剣に聞き求め、一日も早く、

他力信心の大輪の花を、心の中に咲かせましょう。

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