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東海道の出会い(親鸞聖人の旅) [親鸞聖人の旅]

                           親鸞聖人の旅

      東海道の出会い

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箱根の山を越えられた親鸞聖人は、東海道を経て、

懐かしき京の都へ向かわれた。

その道中に、数々のドラマが残されている。

かつての法友・熊谷蓮生房(くまがいれんしょうぼう)に

顕正された人々との出会い、

親鸞聖人に法論を挑んできた僧侶たち、

参詣者の胸から胸へ拡大していく法輪・・・。

その出会いは、やがて、蓮如上人を危機からお救いする

源流となり発展していくのである。

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●福井長者の仏縁

 

駿河国(静岡県)で、親鸞聖人を心待ちにしている

夫婦があった。

彼らは、聖人の法友・熊谷蓮生房と縁があった人たちである。

25年以上も前のことであるが、

どんな出会いだったのだろうか・・・。

蓮生房が、京都から関東へ向かった時のこと。

小夜ノ中山(さよのなかやま)の峠で盗賊に襲われた。

腕に自信はあったが、なぜか「失って惜しい物は何もない」

と無抵抗を示した。賊は路銀や衣類、すべてを奪っていった。

さて、どうするか。身ぐるみはがされた蓮生房は、

大胆にも藤枝の宿で一番の富豪・福井憲順の屋敷の前に立って叫んだ。

「私は、武蔵国の蓮生房と申す者。

先ほど盗賊に路銀を全部与えてしもうた。

再度、京都に上る時にお返しするから、

銭をお貸し下さらんか」

素っ裸の見知らぬ男の借用にだれが耳を貸そうか。

憲順は、当然、断った。

すると蓮生房

「わしは無一文だが、この世で最も素晴らしい宝を持っている。

それを抵当にお預けするから、借金をお願いしたい。

大事なものゆえ、貴殿の腹の中にお預かりいただきたい。

さあ、口をお開けくだされ・・・」。

蓮生房は合掌し、南無阿弥陀仏と念仏を称えた。

すると蓮生房の口より、まばゆい金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、

憲順の口の中に移った。

これは有り難い奇瑞(きずい)、と喜んだ憲順は、

蓮生房に路銀を貸しただけでなく、法衣を贈り、

温かくもてなしたという。

蓮生房が抵当に入れた「この世で最も素晴らしい宝」とは、

阿弥陀如来の本願である。

蓮生房は憲順に説法したのだ。

感激した憲順が蓮生房に心を開いたのだろう。

色も形も無い真実の教えをどう表すか。

すべての人を絶対の幸福に助けずばおかぬの、

阿弥陀仏の本願は、資産家の憲順には、まさに

「金色の阿弥陀如来像」を得たような喜びだったのだろう。

翌春、蓮生房は、約束どおりお金を返しに来た。

彼は、福井憲順に、

後生の一大事をゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。

善知識の教えを受けて、往生を願いなさい

と言い残して京都へ帰っていった。

憲順は、尊い教えだなと思いながらも、

自ら急いで求めようという気持ちになれず、

長い年月が過ぎてしまった。

ところが、親鸞聖人が関東から京都へ

お帰りになるという話が伝わってきた。

これを縁に、かつて聞いた後生の一大事が思い起こされてきた。

老齢の身、「今死んだら・・・」と思うと、

不安はつのるばかりである。

道中で、夫婦そろって聖人をお待ちし、

自宅で法話をお願いした。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の御名号の偉大な力を

懇ろに諭されたという。

夫婦はこれを聴聞し、宿善開発し、

たちどころに信心受得す

          (二十四輩順拝図絵)

(信心受得とは、阿弥陀仏に救われたということです)

福井長者夫婦は、聖人のお弟子になり、名を蓮順、蓮心と改め、

全財産を投じて自宅を聞法道場に改造した。

これが藤枝市本町に残る蓮生寺(れんしょうじ)である。

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●三河の柳堂でご説法

 

親鸞聖人が、京都に向かって関東をたたれたことは、

当時、ビッグニュースとして東海道を駆け抜けたのではないか。

聖人がお通りになることを知った三河国(愛知県)碧海郡の

領主・安藤信平は、「この機会にぜひ、高名な聖人に

お会いしたい」と城内の柳堂にお招きし、法話をお願いした。

ここでのご説法は、17日間に及んだ。

初めて聴聞する真実の仏法であったが、

安藤信平は、即座に決心した。

これこそ、生涯懸けて悔いなき道だ。

人生の目的をハッキリ知らされたぞ!

城主の位を弟に譲り、聖人のお弟子になって、

名を念信房と改めた。

柳堂は、現在、妙源寺の境内にある。

JR西岡崎駅の裏手、広い水田地帯の中に建っている。

山門をくぐった正面が柳堂。茅葺きの古い建物だ。

「親鸞聖人説法旧趾」と大きな石碑が立っている。

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●三河門徒の気概

 

聖人の、柳堂でのご説法中にハプニングが起きた。

参詣者の多さをねたんだ天台宗の僧侶3人が、

聖人を論破しようと乗り込んできたのである。

地元の上宮寺、勝鬘寺、本証寺の住職であった。

聖人は、ことごとく彼らの非難を打ち砕かれ、

釈尊の出世本懐は、阿弥陀仏の本願一つであることを

明らかにされた。

誤りを知らされた3人は、そろって聖人のお弟子になり、

寺ごと浄土真宗に改宗している。

これを三河三ヵ寺といい、強信な三河門徒を

形成していくのである。

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三河は、蓮如上人の時代に真宗一色に塗り変えられた。

その中心が、上宮寺であった。

上宮寺の末寺は三河64ヵ寺、尾張41ヵ寺あったというから、

絶大な勢力を振るっていたことが分かる。

寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の僧兵が、

蓮如上人のお命を狙って本願寺を襲撃した。

この時、上宮寺の住職・佐々木如光は三河の門徒を引き連れて

はせ参じ、比叡山との交渉を一手に引き受けている。

比叡山は金を要求した。如光は、「金で済むなら、

三河から取り寄せよう」と悪僧たちに宣言。

一晩で、山門に金を山と積ませ、比叡山を黙らせた。

事件解決後、蓮如上人は三河を巡教されて、

上宮寺にしばらく滞在されている。

これから約100年後のこと。

織田信長が桶狭間で今川義元を破って以来、

家康は今川の拘束から離れ、着々と三河の支配を固めていた。

永禄6年(1563年)、家康の家臣が上宮寺から兵糧として

米を略奪した。これを機に、家康の苛酷な支配に対する

信宗門徒の不満が爆発。一向一揆が起きた。

三河三ヵ寺を中心とする信宗門徒は一万余の勢力に及び、

半年にわたって家康を苦しめた。

一時は、岡崎城に攻め込むほどの勢いであったという。

窮地に追い込まれた家康は、勝算なしと判断し、

和議をもって臨んだ。

その条件は、

①寺・道場・門徒は元のままとする

②真宗側についた武士の領地は没収しない

③一揆の首謀者は殺さない

であった。真宗側にとって有利なものである。

ところが、一揆の勢力が各地へ引き揚げたと同時に、

腹黒い家康は約束を破って、寺院をことごとく破壊し、

真宗禁止令を出したのである。

卑劣な弾圧であった。

三河に真宗寺院が復活したのは、それから20年後のことであった。

 

●河野九門徒と瀬部七ヵ寺


真実は、一人の胸から胸へと確実に広まっていく。

三河の柳堂で親鸞聖人のご説法を聴聞した人の中に、

尾張国羽栗郡本庄郷の人がいた。

「こんな素晴らしいみ教え、私の故郷にもお伝えください」

との願いに、聖人は快く応えられ、帰洛の途中に立ち寄られた。

現在の、岐阜県羽島郡笠松町円城寺の辺りだといわれている。

この地の参詣者の中で、新たに9人が聖人のお弟子になっている。

親鸞聖人は一人一人に直筆の御名号を書き与えられた。

彼らは、それぞれ一寺を建立し、聖人のみ教えを伝えたので

「河野九門徒」と呼ばれている。

さらに京へ向かって歩みを進められたが、

木曽川の氾濫で、しばらく、現在の愛知県一宮市瀬部に

滞在された。

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その間も地元の人々にご説法なされ、

7人がお弟子になっている。

その中には、武士も商人もいた。

彼らも、それぞれ聞法道場を築き親鸞聖人のみ教えを伝えた。

これを「瀬部七ヵ寺」という。

聖人のご出発にあたり、この7人のお弟子は、

木曽川の激流へ入って瀬踏みをし、無事、聖人を対岸へ

ご案内したと伝えられている。

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