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「他力本願」とは誰でも「金剛心」にする阿弥陀仏のお約束 [阿弥陀仏の本願]

     「他力本願」とは

          誰でも「金剛心」にする

                     阿弥陀仏のお約束

 

   いかなる人の

   どんな言葉にも動ぜず

   感謝と喜びに転ずる幸せ

 

「他力」は自分以外の人の力ではなく、

阿弥陀仏のお力のみをいい、「他力本願」とは、

阿弥陀仏の本願のお力のことだと、巻頭特集で学びました。

(ブログには載せていません)

阿弥陀仏は、お釈迦さまが私たちに紹介された仏さまです。

今日、最も広く知られている仏さまといっていいでしょう。

阿弥陀仏は、大宇宙あまたの仏方の先生であり、

王さまの仏であることが、7000余巻の経典の至るところに

書かれています。

 

阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)

(阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王さまだ)

 

諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり(平等覚経)

(諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である)

 

天台宗の荊渓(けいけい)という学者は、

諸経に讃ずるところ多く弥陀に在り

と、どのお経を読んでも、お釈迦さまは阿弥陀仏のことばかり

褒めたたえておられると驚嘆しています。

親鸞聖人は、この釈迦の教法をそのまま私たちに

教えられたお方ですから、

 

仏光照曜最第一

光炎王仏となづけたり  (浄土和讃)

阿弥陀仏の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ

 

と仰っています。

これを蓮如上人もまた、

 

ここに弥陀如来と申すは、

三世十方の諸仏の本師・本仏なり (御文章2帖目8通)

 

と、教えられています。

2600年前に活躍されたお釈迦さまは、今日、世界の偉人の

トップに挙げられていますが、そのお釈迦さまが80歳で

お亡くなりになられるまで教えられたことは、

「阿弥陀仏の本願一つ」だと、親鸞聖人は明示されました。

 

如来所以興出世 

唯説弥陀本願海  (正信偈)

釈迦如来がこの世に生まれられたのは、

唯一つ、弥陀の本願海を説くためであった

 

釈迦一代の教えとは何か。大宇宙の仏方の師である

阿弥陀仏の本願、唯一つであったのです。

この阿弥陀仏の本願を「他力本願」といいます。

「本願」とは、本当の願い。大宇宙最尊の阿弥陀仏は、

苦しみ悩みから離れられないすべての人を、

哀れみ悲しみ、何とか本当の幸せに救ってやりたいと

願われ、誓いを建てられました。

それが阿弥陀仏の本願(お約束)です。

大宇宙にあまたの仏がましましても、すべての人を相手に、

絶対の幸福に助けるという、こんなとてつもない誓い(願)を

建てられる仏はありません。

だから『正信偈』には、

 

建立無上殊勝願 無上殊勝の願を建立し

超発希有大弘誓 稀有の大弘誓を超発せり。

 

阿弥陀仏は、殊に勝れた無上の願いを建てられ、

大宇宙に二つとない偉大な誓い(お約束)をなされた

と重ねて絶賛されています。

 

●仏さまの願いと私たちの願い

 

どんな人も、つらいことや、苦しみ悩みを厭い、

幸せになりたいと願っています。

政治・経済・科学・医学・法律など、

私たちの全ての営みは、幸せになりたいと願ってのことです。

しかし、あらゆる分野で著しい進歩を遂げたといわれる

20世紀において、戦争のない日は一日もありませんでした。

世界50カ国を巻き込んだ世界大戦の反省もむなしく、

今日もなお争いは絶えません。

家庭内戦争は日常茶飯事。職場や、学校、

レジャーランドでさえも、人が集まるところには

争いが起こります。

世界の人々が平和を願い、安心・満足したいと願っていますが、

なせかなわぬのでしょうか。

自分の思ったとおりにしたいというのが、私たちの願いです。

書店に行くと、

「なぜ子供は親の思うように育たないか」

「妻が(夫が)、私の話を聞かなくなった」

「相談できる人が欲しい」

「うまくいかないと悩む」

などの本や見出しが目に入ります。

それぞれが相手を、自分の思いどおりにしたいと

願っているのです。

こんな歌があります。

 

世の中は 一つかなえばまた二つ

   三つ四つ五つ 六つかしの世や

 

一つ自分の思いどおりになると、もっと願望をかなえたい、

もっと満足したい、安心したいと、際限がありません。

また、思いどおりにならないと、邪魔したと思われる相手に

腹が立ちます。

車中で、秘書への暴力・怒号が明るみに出た

議員さんがありました。

思いどおり動かぬ秘書へのイライラを思う存分ぶつけて、

スッキリしたかったのか。

ぶつけられた側は、忍耐の限界を超え、暴露してしまった。

親が子供に、夫が妻に、妻が夫に、上司が部下に、

怒りをぶつけると、結局、双方ジゴクで苦しみます。

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あるテレビの街頭インタビューで、

「他人の不幸を喜ぶのは、男性・女性のどちらだと思いますか?」

という質問に、

「それは、男性でしょ」と男性は答え、

「女性ですよ!」と女性は答えていました。

人間は皆、他人の幸せを妬み、不幸を願う愚痴の心が

うごめいていると、お釈迦さまは教えられています。

 

このように私たちの願いは、順境の時は、

もっともっとと欲が膨れ上がり、逆境になれば、

怒り・恨みを晴らそうと思う。

どちらにしても幸福ではなさそうです。

たとえ願いが満たされても、この世は50年乃至100年、

長いようで短い夢・幻の一生です。

やがて必ず私たちは、生涯かけて手にした全てを手離し、

たった独りで後生(来世)へと旅立っていかねばなりません。

 

幸せ求めて放浪しながら、苦しみから離れ切れない私たちを、

「必ず絶対の幸福にしてみせる」

と阿弥陀仏は誓われました。

それが阿弥陀仏の本願です。

そして、その本願には、すべての人を

絶対の幸福にするお力があります。

これを本願力とも、他力ともいいます。

どんなお力なのでしょうか。

親鸞聖人は、

 

無明長夜の闇を破し

衆生の志願を満てたまう  (高僧和讃)

 

と道破されています。

本願力とは、遠い過去から私たちを苦しめてきた無明の闇を

破り、どんな人をも大安心・大満足の絶対の幸福にする

お力だと教えられているのです。

ただ今絶対の幸福に救われた人は、いつ死んでも無量光明土へ

往って仏に生まれられます。

無量光明土とは、限りなく明るい世界で、

阿弥陀仏の極楽浄土のこと。

一息切れる(死ぬ)と同時に、その無量光明土へ往って

仏に生まれられる(往生一定)となれば、現在ただ今から、

生きてよし、死んでよし。

行く先のハッキリしない不安な人生が、

明るい無量光明土へ向かう人生に大変わりします。

それは全く、本師本仏の阿弥陀仏の、

命を懸けて誓われた熱い願いによる、

その願いを果たすお力を他力というのです。

仏語に虚妄なし

無上の仏さまのお言葉にウソ偽りはありません。

親鸞聖人は29歳の時に、この弥陀の本願のとおりに救われて、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)

と表明されています。

摂取不捨の真言も、超世希有の正法も、

阿弥陀仏の本願(お約束)のことですから、

阿弥陀仏のお約束まことだった、まことだったと

歓喜踊躍されたのです。

 

●弱そうで強いもの 強そうで弱いもの

 

「他力」と聞くと、弱いイメージですが、

弱そうで強いのは舌、強そうで弱いのは歯です。

何でもバリバリ噛む歯は、一見、硬くて強そうですが、

年を取ると欠けたりポロッと抜けたり、

案外もろいものです。

一方、舌は柔らかく弱そうですが、幾つになっても

舌抜けばあさんの話は聞こえてきません。

年を取れば取るほど、いよいよおしゃべりに大活躍するのが

舌です。

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巻頭特集で紹介した石山戦争で、千軍万馬の信長軍は

どう見ても強そうです。

農民、町民が中心の本願寺は何だか弱そうです。

しかし、なぜ本願寺は信長軍に屈しなかったのでしょうか。

信長の軍隊は、戦で勝って領土を拡大したい、

出世したいという願いで生きていた。

しかし、死ねば何もかもおしまいです。

そういう、強そうでもろい人生観の者たちの集まりでした。

ところが本願寺は、生きては絶対の幸福、

死しては無量光明土の身に救うという弥陀の本願に生きている。

ここに他力本願の、底知れぬ強さがあるのです。

 

行者正受金剛心 (正信偈)

(弥陀に救われた人(行者)は、正しく金剛心を受ける)

 

阿弥陀仏の本願に救われ、絶対の幸福になると、

〝金剛心を獲る〟と親鸞聖人は教えられました。

金剛とはダイヤモンド。この世でいちばん硬く強いものです。

皆、「折れない心」になりたいと願っていますが、

弥陀の本願に救われたなら、正しく金剛心になれます。

金剛心とは、どんな心でしょうか。

 

如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を

金剛心という    (後世物語聞書)

 

「如何なる人」とは、例えばテレビによく出てくる

智者や学者などです。

私たちは権威に弱く、有名な知識人や学者に否定されると

自分が間違っているのでは、と動揺しますが、

そんな人たちに、「この世で救われることなんてあるものか、

絶対の幸福なんて妄想だ」と一斉に攻撃されても、

全く変わらない心が金剛心です。

「かわいそうになあ、知識や学問では、

この喜びは到底分からないだろう」と、

金剛心の人は、そしりも非難も、他力本願に生かされた

身の幸を深く知らされる勝縁となり、

感謝と喜びに転ずるのです。

 

親鸞聖人波乱の90年の生涯から、その金剛心のすごさが

鮮やかに知らされます。

常に非難攻撃のまっただ中にありながら、命の危険を顧みず、

唯、弥陀の本願の布教に徹せられました。

百獣の王・ライオンのごとく、大地を踏み締め進む象のごとく、

親鸞聖人の威風堂々の信念に引かれる人は、

昔も今も少なくありません。

自分の弟子や信者が、親鸞聖人を慕うようになった山伏弁円は、

嫉妬に狂い聖人殺害を企てました。

しかし白昼、剣をかざす弁円の前に、

数珠一連で立たれた聖人の偉大な信念に、

弁円はくずおれ、聖人のお弟子・明法房と新生したのです。

命を狙われても屈せられない親鸞聖人、

その聖人の教えのままに生き抜かれた蓮如上人、

信長も恐れさせた親鸞学徒の先人たちの姿は、

人の言葉くらいでは微動だにしない、

少しも変わらざる金剛心の証でしょう。

『歎異抄』第7章には、

 

天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし

(本願他力に生かされ金剛心を獲た人には、

天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も

妨げることができなくなる)

 

と聖人は仰っています。

 

ではどうすれば、いつ死んでも無量光明土へ往く身となり、

生きてよし・死んでよし、何ものにも恐れぬ

スゴイ金剛心になれるのでしょうか。

阿弥陀仏は、本願聞く一つで絶対の幸福(往生一定)に

救うと誓われています。

その阿弥陀仏のお約束どおりに、往生一定の身になられた

聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ」

〝弥陀の本願まことだから、迷いなく聞法一筋に

進みなさいよ。逡巡しては大損失ですよ〟

と生涯、本願他力、弥陀の本願をたたえ、伝え続けられたのです。

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