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絶対の幸福になれば、大切な人と未来、必ず浄土で会える! [死後に再会するためには]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

        絶対の幸福になれば、

               大切な人と未来、

                    必ず浄土で会える

 

親や先祖など、今は亡き大切な人たちへの

真の恩返しとは何か。

これについて、巻頭記事では

「生きている私が本当の幸福になること」

と明らかにしました。

ここで言われる「本当の幸福」とはどんな幸せかを、

このコーナーではお話します。

 

一口に「幸せ」といっても、人それぞれ、

思い浮かべるものは異なるでしょう。

例えば、人生という旅の中で私たちは、

父母兄弟、友人や恩師、夫や妻、子供など

さまざまな人と出会います。

素晴らしい出会いによって、人生は豊かに彩られるでしょう。

ところが、「会者定離」は世の習い。

出会いがあれば必ず別れもある。

しかも愛が深ければ深いほど、別離の悲しみは、

強くなります。

今月のテーマの「お盆」は、その別れを経験した人の

大切な年中行事です。(2017年8月のとどろきです)

高齢化社会の到来で認知症の増加に拍車がかかっています。

2012年の患者数は460万人を超え、あと7~8年で700万人を

超えるともいわれます。

この認知症の人たちが直面するのは「思い出」との別れでしょう。

折々に多くの喜怒哀楽を経験してきた人生の記憶を失う

心境はいかばかりか。

しかも、それは家族にとっても深刻な問題です。

ある医師のコラムに、認知症の夫を世話する妻の、

こんなコメントが記されていた。

〝若い頃から苦楽をともにした夫が、私と過ごした日々を

忘れるようになった。病気だから、とは思っても、

夫の記憶から私が消えていくと考えると、

夜も眠れないほどにつらい〟

これから多くの人が経験することになりそうです。

 

●2とおりの幸福がある

 

仏教では、幸福に2種あると説き、今述べたような、

いつまでも続かない喜びを「相対の幸福」といいます。

「相対」とは、比べて分かる、という意味があります。

私たちは、1本の棒を見て、長いか短いかと問われても

答えることができません。

短い棒と比べれば長いし、もっと長い棒と比べれば、

短くなるからです。

同様に、重い軽い、高い低い、優劣、美醜、貧富など、

他のものと比べて初めて評価がハッキリします。

そんな相対的な知恵しか持たない私たちは、

自分の幸せについても、常に誰かと比較しないと、

幸・不幸を実感できないのです。

 

この「幸」の字源は諸説ありますが、その一つに、

中国の手枷(てかせ・手錠)をもとにしてできた象形文字、

といわれています。

死刑や流刑などと比べて、手枷の刑は軽い。

〝ヤレヤレ命拾いした、幸いであった〟と喜ぶことから

「幸」という字形になったというのです。

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テストで80点取った時、それだけでいい成績かどうか分かりません。

平均が50点台での80点ならば優秀ですが、

皆が90点ならうれしくない。

勉強もスポーツも仕事も、優劣を競いますが、

評価は比べる相手によって変わる。昔から

「幸せでいたかったら、上見て暮らすな、下見て暮らせ」

と言われるのも、自分より不幸な人を見ていないと、

幸せを感じられないからでしょう。

「ボクはAより背が低いし、成績も悪い。ああ、オレは不幸だ!!」

と嘆いたり、

「あの人より私の髪の方が黒々ツヤツヤしてるわ」

と勝ち誇ったりする。そんなこの世の幸せの実態を、

 

万のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無し 

                   (歎異抄

すべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、

まことは一つもない

 

親鸞聖人は『歎異抄』に仰っています。

 

●「生まれてよかった」と喜べる「絶対の幸福」

 

このような相対的な幸福に対して仏教では、

永遠に変わらぬ「絶対の幸福」を説かれています。

仏教は、この無上の幸福を明らかにするために説かれた教えであり、

私たちも、この絶対の幸福になるために生まれたのだと

お釈迦さまは仰せです。

せっかく先祖から受け継いだ大切なこの生命、

「人間に生まれてよかった」と真に輝かせるためには、

絶対の幸福になることだ、と教えられているのです。

では「絶対の幸福」とは、どんな幸せなのでしょう。

他人と比べて味わう幸せではなく、

「大宇宙に私ほどの幸せ者はない」と一人いて喜べる幸福だ

蓮如上人は仰っています。

 

同行の前にては喜ぶなり。これ名聞(みょうもん)なり。

信の上は一人居て喜ぶ法なり    (御一代記聞書154)

 

しかも、この無上の喜び、満足は、いつでもどこでも、

決して色あせることがないのです。

この絶対の幸福には、生きている今、誰もがなれると

説かれています。

それは大宇宙の仏方の「本師本仏」である偉大な阿弥陀仏が、

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

という約束をなさっているからです。

これを阿弥陀仏の本願(約束)といいます。

人間の力ではなく、ひとえに、この阿弥陀仏の本願力によって、

すべての人は絶対の幸福に必ずなれるのだ

親鸞聖人は仰せです。

 

若不生者のちかいゆえ

信楽まことにときいたり

一念慶喜するひとは

往生かならずさだまりぬ 浄土和讃

 

必ず絶対の幸福にしてみせると、

弥陀が命を懸けて誓っておられるから、

信楽〈絶対の幸福〉になれる時が必ず来るのだ。

平生の一念に慶喜した人は、必ず浄土へ往く身になるのである

 

「若不生者のちかい」とは、阿弥陀仏の本願に、

「若不生者、不取正覚(若し生まれずば正覚を取らじ)」

と誓われているので、弥陀の本願を「若不生者のちかい」

と親鸞聖人は仰っています。

これは「若(もし)」の一字に仏の命(正覚)を懸けて

「必ず生まれさせる」と阿弥陀仏が誓われているお言葉です。

「生まれさせる」とは「信楽(絶対の幸福)にする」ことです。

 

仏語に虚妄なし、仏さまのお言葉にウソはありません。

大宇宙で最も尊い仏さまが、

命を懸けて約束をなさっているのだから、 

誰もが必ず「絶対の幸福」になれる時があるのだと、

聖人は、「信楽まことに時至り」と仰っています。

親鸞聖人は29歳で弥陀の本願のとおりに絶対の幸福になられた時、

 

「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(教行信証総序)

(阿弥陀仏のお約束、まことだった、本当だった)

 

と宣言なされています。「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」

阿弥陀仏の本願を、「まことであった」と自ら体験なされたのです。

 

絶対の幸福になるのはアッという間もない一念の瞬間であり、

その時の、大慶喜心が起きますので、絶対の幸福になった人を、

「一念慶喜する人」と言われ、その人は「往生かならず定まりぬ」

と仰せです。

だから、弥陀の救いはハッキリしています。

「往生」とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往って仏に生まれること。

肉体が死なねば極楽へは往けませんが、

往生はこの世でハッキリする。

それを「必ず定まりぬ」と言われています。

「往生一定」ともいい、未来の往生が、

今ハッキリ確定する(一定)のです。

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無量光明土の極楽浄土に往ける身に、ただ今なれる。

そうなれば、今から心は底抜けに明るく楽しい、

まさに「心は浄土に遊ぶなり」です。

そんな往生一定の身になれるのは、

ひとえにこの阿弥陀仏の偉大な本願力によるのだ、

と聖人はこの和讃で教えられています。

ですから、一人一人がこの世で弥陀に救われ、

絶対の幸福になれば、親子、妻子、家族そろって

弥陀の浄土に往生し、未来永遠の家族、夫婦となれるのです。

有名な『阿弥陀経』に

倶会一処(くえいっしょ)」

という言葉があります。墓にもよく刻まれていますが、

これは〝死んだら誰でも極楽〟という意味ではなく、

この世で絶対の幸福になった人は皆、

ともに浄土で会うことができるのだよ、

ということです。

「真実の信心をえたる人(絶対の幸福、往生一定になった人)

のみ本願の実報土(じっぽうど・極楽)によく入ると知るべし」

                 (尊号真像銘文14)

と親鸞聖人は明らかに仰っています。

 

●未来で必ず大切な人を救うことができる

 

最後に、亡き人の真の供養について『歎異抄』五章の

お言葉を紹介しましょう。

 

ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、

六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、

神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々

 

ただ、はやく本願を計ろう自力の心を捨てて、

浄土で仏のさとりを開けば、どんな六道・四生の

迷いの世界で、苦しみに沈んでいようとも、

仏の方便力で縁の深い人々から救うことができよう、

と聖人は仰せになりました

 

すでに世を去った人たちの中には、

浄土に往生している人もあるでしょうが、

仏縁に恵まれず、苦しみ迷いの世界でさまよっている人も

大勢ありましょう。

だが、たとえどのような苦界にいても、

今生きている私が真剣に仏法を聞いて絶対の幸福になれば、

来世は浄土で仏になり、その神通力をもって、

いかなる世界にいる人をも真実の幸福に導き、

本当の幸せに救うことができるのです。

 

『歎異抄』にこう仰っているのは、

絶対の幸福に救われた人は阿弥陀仏から

還相廻向(げんそうえこう)」の働き(浄土から再び、娑婆世界へ戻って

衆生を救済すること)を賜るからです。

大事な人を未来、本当の幸福にすることができるのですから、

今、自分が真剣に阿弥陀仏の本願を聞き抜き、

絶対の幸福になることこそが、真の供養であり、

恩返しになるのですよ、と教えられているのです。


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