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人間死んだらどうなるか!? [後生の一大事]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


龍樹大士出於世(りゅうじゅだいじしゅっとせ)

悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)

 

龍樹大士、世に出でて、

悉く能く有無の見を摧破し

 

お釈迦さまから親鸞聖人まで、正しく仏教を伝えられた

七名の善知識を七高僧といわれます。

その最初の方が龍樹菩薩です。

龍樹菩薩は、釈尊入滅より約700年後、

南インドに現れ、間違った考えをことごとく打ち破り(破邪)、

正しい教えを明らかにされました(顕正)。

龍樹菩薩が破られた邪とは何でしょうか。

「悉く能く有無の見を摧破し」

とありますように、それは「有無の見」です。

有無の見(けん)とは、「有の見(うのけん)」と

「無の見(むのけん)」の2つの見方をいいます。

龍樹菩薩の時代も、さまざまな間違った教えがありましたが、

突き詰めれば有の見か無の見のどちらかになります。

今回は、無の見(むのけん)について解説しましょう。

 

●「無の見(むのけん)」とは

 

人間死んだらどうなるか。

考えたことのない人は、ないでしょう。

人は必ず死なねばならないからです。

それに対して、死ねば何もなくなると考えるのが無の見です。

つまり死後を否定する思想で、「断見外道(だんけんげどう)」

ともいわれます。

外道とは、真理の外側の教え、

つまり真理ではない教えということです。

断見の人は、昔も今も決して少なくありません。

発達を遂げた科学も、死後の世界を

解明することはできませんから、凡夫の知恵で

「分からぬこと」を「無いこと」にしてしまうのでしょう。

中には、

「お釈迦さまや親鸞聖人は、死後を教えられなかった」

と主張し、仏教を学びながら「死後はない」と

思っている人さえあるようです。

 

●死後を否定し切れぬ心

 

ところが、ふだんは、「死んだらあとなんかないよ」と

言い続けている人でも、知人や友人が死ぬと、

「ご霊前で」とか、「ご冥福を祈ります」と言います。

「霊前」は故人の霊の前であり、「冥福」は冥土の

幸福のことですから、いずれも死後を想定してのことです。

果ては、「安らかにお眠りください」

「迷わずに成仏してください」などと、

涙ながらに語りかけられます。

遭難の時などは、空や船から花束や飲食物が投げられるのも、

しばしばです。

単なる儀礼とは、とても思えません。

その表情は深刻で、しぐさも神妙なのです。

「社交辞令」だよと笑って済ませられるのは、

肉親などの死別に遭わない、幸せな時だけに違いありません。

頭では死後を否定しながら、

何か否定しきれないものがあるのではないでしょうか。

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●もし、死後が無ならば

 

また、もし死後が「無」ならば、

死ねば苦しみもなくなるのですから、

辛苦に耐えて生きることは要らぬことになりましょう。

サッサと自殺する人が利口で、長生きするのは

愚か者ということになります。

医者は人々を苦しめる悪魔であり、

殺人鬼は苦しみをなくしてくれる

ありがたい人になってしまいます。

かつて、警察官の必死の説得にもかかわらず、

「オレはもう5人も殺した。どうせ死刑に決まっている。

後は何人殺っても同じだ!」

と立てこもった殺人犯があったそうですが、

死刑ですべて「無」になるのなら、それも一理ありと

認めることにもなりましょう。

このような死後を否定する者を、無の見とか、

断見外道と排斥し、死後に一大事のあることを

教えているのが仏教です。

 

●自殺者は大馬鹿者

 

仏教に次のような話が伝えられています。

 

ある時、お釈迦さまが托鉢中、大きな橋の上で、

辺りをはばかりながら一人の娘が、たもとへ石を入れている。

自殺の準備である。

近寄られた釈尊は、優しく事情を尋ねられると、

娘はほかならぬ釈尊なので、一部始終を告白した。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛して妊娠しましたが、

今は捨てられてしまいました。

世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、

死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。

どうかこのまま死なせてくださいませ」

と泣き崩れた。

釈尊は哀れに思われ、こう諭された。

「愚かなそなたには、例えをもって教えよう。

ある所に、毎日、重荷を積んだ車を朝から晩まで

引かねばならぬ牛がいたのだ。

つくづくその牛は思った。

なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、

自分を苦しめているのは一体何なのかと考えた。

そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、

牛は車を壊すことを決意した。

ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、

木っ端微塵に壊してしまった。

ところが飼い主は、〝こんな乱暴な牛には、

頑丈な車でなければまた壊される〟と、

やがて鋼鉄製の車を造ってきた。

それは壊した車の何十倍、何百倍の重さであった。

その車で重荷を同じように毎日引かせられ、

以前の何百倍何千倍、苦しむようになった牛は、

深く後悔したが後の祭りであった。

牛がちょうど、車さえ壊せば苦しまなくてもよいと

思ったのと同じように、そなたは肉体さえ壊せば楽になれると

思っているのだろう。

そなたには分からないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ

飛び込まなければならないのだ。

その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも

恐ろしい苦しみなのだよ」

娘は、始めて知る一大事に驚き、仏門に入り救われたのである。

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この話は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない

一大事があることを教えられたものです。

死後を仏教で後生といいますから、

これを「後生の一大事」といわれます。

まさに無知ほど恐ろしいものはありません。

焼け火箸を平気で握りに行く赤子のみが無知ではないのです。

自殺者は、それ以上に哀れな大馬鹿者だと、

釈尊は教えられています。

 

●三世因果の道理

 

では、後生に一大事が、なぜ引き起こるのでしょうか。

釈尊一代の教え、仏教を貫いている根本教理は、

因果の道理です。

いわゆる「まかぬタネは生えぬ」し、「まいたタネは、

必ず生える」と教えます。

幸福や不幸という結果は、原因なしに現れたものではありません。

自分自身の行為(業)が生み出したものであり、

また、造り出していくものなのです。

しかも、善い行いをすれば、善業力となって善果を現し、

悪業を造れば悪果を引き起こします。

それは、現在世にとどまらず、過去世、未来世の三世を貫くと

教えるところに、仏教の精粋(せいすい)があります。

過去世とは、私たちが人間に生まれる以前のすべてです。

現在世とは、人間に生まれてから死ぬまでの50年から100年の

人生をいい、未来世は、寿命尽きたあと、永遠の時をいわれます。

私たちの生命は、肉体が生じてより滅するまでの

現世のみではありません。

悠久の過去より永遠の未来へと、とうとうと流れる

大河のように続いているのです。

肉体はちょうど、水面にできて、しばらく流れて

消える泡のようなものにすぎません。

死ねば何もなくなって終わりではないのです。

例えば、かりに一人の人を殺して、

一回の死刑という結果を受けるとすれば、

10人殺した者は、後の9人分を来世で受けねばなりません。

100人殺せば、99人の業報を受けることになります。

因が変われば、それに応じて結果が変わる。

それでなければ道理に合いません。

釈尊は、

「因果応報なるが故に、来世なきに非ず」(阿含経)

とおおせになっています。

まいたタネを刈り取らねばならぬ未来世(後生)を、

仏教は厳然として説き明かしているのです。

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●真実の自己を徹見せよ

 

「過去世や未来世のことなんか分かるものかい」

という声が聞こえてきそうですが、釈尊はこう説かれています。

 

汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。

未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経

 

この意味は、

過去の因は現在の果に現れており、

未来の果は現在の因によって発現するのだから、

現在を徹見すれば過去も未来もすべて分かる

ということです。

分かりやすく例えるならば、暗がりの中で何の種をまいたか

分からなくても、知る方法があるでしょう。

生えてきた芽を見れば、「あの時、ダイコンの種をまいたのだな」

とか、「トマトの種だったのだな」と分かります。

また、今何の種をまいているかを見れば、将来、

何が出てくるか分かるでしょう。

スイカの種ならばスイカ、

カボチャの種ならばカボチャが出てくるのです。

このような因果の道理から仏教は、

〝現在の自己を徹見すれば、後生が分かる〟

と教えます。

〝どんな後生を生み出す因を造っているか、凝視せよ〟

と現在を仏教は、最も重視します。

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●地獄は一定すみか

 

仏法という法鏡に映し出された、自己の実相を知れば、

だれしもが、地獄一定の一大事に驚かずにおれません。

親鸞聖人は、

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)

 

と仰っています。

現在の自己が無善造悪の者とハッキリし、

地獄一定の後生もハッキリ知らされたということです。

同時に、

弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人が為なりけり」(歎異抄)。

阿弥陀如来の本願は、地獄一定の親鸞一人を

助けるためのお約束でありました、と絶対の弥陀の救済に

躍り上がられたのです。

 

●迷見が破れるまで

 

仏教は、後生の一大事を知るところから始まり、

その解決で終わります。

その後生を否定する無の見を、龍樹菩薩は看過されず、

徹底して破邪の剣を振るわれたのです。

そのご苦労のおかげで親鸞、後生の一大事を知らされ、

救われることができた。

親鸞も、この一大事と解決の道を叫ばずにおれぬと、

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。

一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず」(教行信証)。

一息つがざれば次の生、死ねば万劫にも戻らぬ

一大事が引き起こると警鐘乱打されています。

蓮如上人も、

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、

いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、

弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし

                  (帖外御文)

と、後生の一大事の解決一つを念じておられます。

善知識のご教導にしたがい、阿弥陀如来に救い摂られた時、

三世も、一大事の後生もハッキリしますので、

死後が無いと思う人も、その断見が破れるまで

聞き抜かせていただきましょう。


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