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「いのち」って何だろう? [六道輪廻]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)    

    「いのち」って何だろう?

 

           仏教の生命観と

              人生の目的

 

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特集①では、私たちにとって

最も大切なものが「人生の目的」であることを

お話ししてきました。

では、仏教では「真の人生の目的」は

何であると教えられているのでしょうか。

 

結論から申しますと、

人生の目的は、後生の一大事を解決することである

と説かれています。蓮如上人はこれを、

 

誰の人も、はやく後生の一大事を

心にかけて・・・・」  (白骨の御文章)

 

われらが今度の一大事の後生、

御助け候えと・・・」  (領解文)

 

この阿弥陀如来をば、如何して

信じまいらせて、後生の一大事をば

助かるべきぞ・・・」  (御文章3帖目4通)

 

一心に阿弥陀如来、後生たすけたまえと・・・

            (御文章5帖目18通)

 

と至るところに教えられています。

 

(蓮如上人・・親鸞聖人の8代目の子孫。聖人の教えを全国に伝え、

       有名な『御文章』を書かれた方)

これはそのまま「親鸞聖人の教え」であり、仏説です。

「久しく沈めるわれら」のお言葉も、

この「後生の一大事」のことです。

ですから「後生の一大事」とはどんなことかを

正しく知らなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、

まったく分からないということです。

当然、人生の目的を達成することも

かなわないことになってしまいます。

そこで、この「後生の一大事」を知るために、

まず、私たちの「生命」を仏教ではどのように説かれているのか、

〝仏教の生命観〟からお話ししましょう。

 

●大河のごとき生命

 

一般的に「いのち」とか「生命」と言えば、

肉体のことだと誰もが思います。

生命工学や脳科学の扱う「生命」も、

遺伝子とかDNAなど物質的な領域を出ません。

鳩山首相が施政方針で、熱心に

「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。

生まれてくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい」

(2010年5月のとどろきです)

と訴えていた「いのち」も、

「人間としての生命」のことでしょう。   

これが常識的な「生命観」です。

ところが仏教では、我々の生命というのは、

この世のわずか50年や100年の間だけのことではない、

果てしない過去から、永遠の未来へと流れている、

と教えられています。

それはちょうど、滔々と流れる大河のようなもので、

肉体は、その水面にポッと生じてパッと消える

泡のようなものだということです。

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その果てしない生命の歴史を、親鸞聖人は、

「多生」「億劫(おっこう)」「昿劫(こうごう)」

「微塵劫(みじんこう)」、

歎異抄では「久遠劫より流転せる」と、

いろいろに表現されています。

「多生」とは、迷い苦しみの世界を、

生まれては死に生まれては死に繰り返してきたこと。

仏教では、その苦悩の絶えない六つの世界を「六界」

とか「六道」と教えられています。

列記してみましょう。

 

○地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。

○餓鬼界・・・餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、

       炎となって食べられず飲まれもせず、

       飢えと渇きで苦しむ世界。

○畜生界・・・犬や猫、動物の世界。

       弱肉強食の境界(きょうがい)で、

       つねに不安におびえている世界。

○修羅界・・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

○人間界・・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

○天上界・・・六道の中では楽しみの多い世界だが、

       迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。

 

これらの世界を一人一人が、各自の業(行い)に応じて、

生まれたり死んだり、繰り返し経巡っていることを、

「多生」と言われているのです。

その生死生死を重ねてきた期間は、

100万年や200万年どころではなく、

「億劫(おっこう)」といわれています。

「劫」とは年数の単位で、一劫は「4億3千2百万年」のこと。

その億倍が「億劫」であり、「昿劫(こうごう)」の「昿」も

無限を表す言葉ですから、「億劫」も「昿劫」も、

気の遠くなるような長期間のことです。

また「微塵劫」とも言われています。

「微塵」とは、細かい沢山のチリのことで、

大学の教室など広い空間には、

目には見えませんがチリやホコリが浮いています。

カーテンの隙間から強い光線が射し込むと、

それがよく見えて、「こんなところで息を吸ってたのか」

とビックリするほど。

そのチリの数は、一体どれくらいあるでしょうか。

おそらく10億や20億どころではないでしょう。

その「細かい塵の数」×「劫」が「微塵劫」ですから、

もう無限といっていい。

「多生」「億劫」「昿劫」と同じく、永遠の魂の遍歴を

表された言葉です。

このように、私たちは無限の過去から今日まで

苦しみ迷い続けてきたことを聖人は、

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と言われ、

また、

「自ら流転輪廻を度(はか)るに、

微塵劫を超過すれども、仏願力帰し難く、

大信海に入り難し」(教行信証化土巻)

 

「生死輪転の家に還来する」(正信偈)

 

「昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき」(高僧和讃)

 

「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里」

            (歎異抄)

 

とも仰っているのです。

このようなお言葉は枚挙にいとまがありませんが、

いずれも「きっとそうに違いない」とか

「果てしない過去から、苦しんできたそうな」

などの想像や憶測ではありません。

弥陀の光明に照破されてハッキリ知らされた自己を

告白されているのです。

 

●一瞬の人生に、

   意味はあるのか

 

それにしても、「昿劫」とか「久遠劫」というスパン(間隔)

で説かれる仏教の生命観は、とてつもないですね。

〝あの支払い、どうしようか〟とか

〝また上司に叱られた〟などという目の前のことで

あたふたしている私たちにとっては、

あまりにもスケールが大きすぎて、

なかなかピンときません。

そこで、分かりやすく比較して考えてみましょう。

地球が誕生して約46億年といわれます。

1億年を1メートルとして換算すれば、

地球の歴史は46メートルになります。

10万年が1ミリメートル、〝中国4千年の歴史〟といっても、

たったの0.04ミリです。

では、日本の平均寿命・80年は?

なんと0.00008ミリ!

長く生きてせいぜい100年の人生は、地球の年齢の46メートルに

比べたならば、針の先で突いた〝点〟にもならない。

医学の進歩は、その瞬間的な人生を、

少しでも長引かせる努力といえましょう。

たとえば臓器移植によって30年延命したということは、

0.00003ミリ延ばしたことになります。

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これは地球の年齢46億年と比較した場合ですが、

私たちの生命の歴史は、100億年や200億年どころではない。

「多生」「億劫」「久遠劫」ですから、

それに比べたならば、50年や100年はまさに一瞬。

アッという間に〝娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく〟

人生、と知らされるではありませんか。

シャボン玉より儚いこの一生を、

明治の哲学青年・藤村操は、「悠々たるかな天壌、

遼々たるかな古今」と嘆息し、

人生不可解」と言い残して華厳の滝に身を投げました。

どうせ呆気なく死んでいく命、なぜ生きねばならないのか。

煩わしい人間関係に耐え、病魔と闘い、

さまざまな苦難を乗り越えて、

それでも頑張って生きねばならない理由は、何なのか。

どうせ報われない苦労なら、生きる意味がないじゃないか。

「人生って、なんと不可解なのか」

の叫びは、ひとり藤村操だけのものではないでしょう。

そんな悩める私たちに、生きる目的は、あるのか、ないのか。

「あるから、早く達成せよ」

親鸞聖人は、断言されています。

これが、聖人90年の生涯かけたメッセージでした。

自らが29歳の御時に、真の人生の目的を成就され、

「人身受け難し、今すでに受く」

           (釈尊)

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟

と、ピンピン輝く生命の大歓喜を得られた聖人は、

「どうか皆さん、この親鸞と同じように、

本当の人生の目的を知り、達成してもらいたい。

この目的果たすまで、どんなに苦しくても乗り越えて、

生き抜きなさいよ」

と教え続けていかれたのです。

 

●いのちの目的

 

では、「人生の目的」とは何か。

「後生の一大事を解決することである」

と説かれているのが仏教であり、親鸞聖人です。

人間に生まれる前を過去世、生まれてから死ぬまでを現在世、

死んだ後を未来世とか「後生」と言われます。

自覚の有無にかかわらず、私たち一人一人に、

厳然としてこの過去・現在・未来の「三世」があることを、

因果の道理から詳しく教えられているのが仏教です。

そして、久遠劫の過去より今まで流転してきた私が、

死後も永遠の苦患に沈まねばならぬ大問題を、

仏教では「後生の一大事」と言われるのです。

お釈迦さまはこれを『大無量寿経』に、

従苦入苦(苦より苦に入り)

 従冥入冥(冥〈やみ〉より冥に入る)」

現在苦しみの世界から、死後の苦界に入っていく

と警鐘乱打され、親鸞聖人も、

若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)を覆蔽(ふくへい)

せられなば更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん

                (教行信証総序)

と訴えられ、蓮如上人も、

この信心を獲得せずば、極楽には

往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

              (御文章)

と教えておられます。

「この後生の一大事を、阿弥陀仏の本願によって

解決して頂き、未来永劫の幸福に救い摂られることこそが

人生の目的である。

いや本当は一生や二生の問題ではない、

昿劫多生の目的なのだ」

と、釈迦も親鸞聖人も、明言されているのです。

前章で、弥陀の大船に例えられているのは、

この阿弥陀仏の本願のことです。

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●思想が変われば、世界が変わる

 

戦争、殺人、自殺、暴力、虐待など、

耳をふさぎたくなるような悲しい事件が、

毎日報じられています。

350キロの上空を、国際宇宙ステーションが

周回しているその下で、相も変わらず国同士、

血で血を洗う争いを繰り広げています。

無線LANや液晶テレビが置いてある家の中で、

親が子を殺したり殺されたり、

ケータイやインターネットを介した犯罪や集団自殺も頻発し、

監視や摘発などの対策も間に合わず、

どうにも止められない状態です。

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不幸になりたくて生きている人は一人もいないのに、

どうして幸せになれないのでしょうか。

いろいろな議論はありますが、結局は、

「生きる意味があるのか」

「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」

必死に求めても知り得ぬ深い闇へのいらだちが、

生み出す悲劇と言えるのではないでしょうか。

 

なぜ人間に生まれたことが尊いのか。

人を殺してはいけないのか。

人命は地球より重いのか。

1分でも延命することに意味があるのか。

それは「後生の一大事を解決する」という

「多生億劫の目的」を果たすための〝いのち〟だからなのだと

親鸞聖人は確言され、ゆえに

「肌の色や国籍の違い、男女も貧富も、健常者・障害者も

関係なく、一人一人の命が、無限に重い値を持つのだよ、

だから自ら命を絶つことも、人の命を奪うことも、

あってはならないのだ。

 

生死の苦海ほとりなし

久しく沈めるわれらをば

弥陀弘誓の船のみぞ

乗せてからなずわたしける

 

早く弥陀大悲の願船に乗せていただき、

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、

生命の大歓喜を味わえる身になってくれよ。

そこまで仏法を聞き抜けよ」。

先の見えぬ混迷した現代に、救助の大船の厳存と、

その方角を明示された親鸞聖人の大音声が、

鳴り響いているのです。

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