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寺院とは仏教を聞き、「抜苦与楽」の身になる「こころの診療所」 [お寺の役割とは]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

     「寺院」とは

         仏教を聞き

       「抜苦与楽」の身になる

         「こころの診療所」

 

●「苦」や「楽」にもいろいろある

 

前回の記事では「寺は本来、仏教を聞く場所である」

と学びました。

では、仏教は何のために聞くのでしょうか。

それが分かれば寺の存在意義もハッキリいたします。

仏教の目的は「抜苦与楽」といわれます。

「抜苦与楽」とは、人々の苦悩を抜き取り、

喜び、楽しみ、幸せを与えることです。

肉体の苦しみを抜いて、健康という喜びを与えるのは病院ですが、

私たちの心の苦しみを抜き取って、

本当の生きる喜びや幸せを与えるのが仏教なのです。

寺は私たちの心の病気を治す診療所だといえるでしょう。

ところで「抜苦与楽」といっても、

一般的な苦楽と、仏教の教える苦楽とは異なっています。

どう違うのでしょうか。

 

●甲乙つけがたい肉体の苦痛

 

私たちが「苦しみ」と聞いて想像するのはどんなものでしょう。

まず、加齢や病気などによる肉体の苦痛があります。

肉体の苦といっても、歯の痛み、頭痛、腹痛、膝や腰の痛みなど

いろいろで、つらい思いをしている人がたくさんありますから、

どの病院にも連日、患者が押し寄せています。

健康が当たり前だった頃には分からなかった体の不調。

永年、酷使した肉体が「あそこが痛い」「ここがツライ」

と悲鳴を上げる。

ひとたび病気になれば、誰もが昨日までの健康は

喜べなくなってしまいます。

世界的アーティストとして知られるアメリカの

レディー・ガガさんが「線維筋痛症」という病気で

活動を中止しました。

これは、原因不明の激痛が、慢性的に全身を襲う病だといいます。

日常生活もままならず、どんなに仕事や名声、

お金に恵まれていても、病一つで人生の輝きが奪われる。

どんな病気も当事者にとっては甲乙つけがたい苦しみだから、

「病」という字は「(やまいだれ)」に「丙」と書くのだそうです。

この肉体の苦しみを軽減し、痛みを取り除き、

健康の喜びを与えるのが、医学の役目であり、

医師や看護師は、そのことに連日、

多大な貢献をしているのです。

 

●さらに深い精神的な苦悩

 

しかし、この肉体の苦しみよりも、さらに深刻なのが、

心の苦しみ、精神的な苦痛でしょう。

人間関係はその苦しみの中でも、最も大きなものです。

近頃流行のアドラー心理学では、人間の苦しみの全ては、

人間関係から生じると言っています。

学校や職場、近所づきあいなど、あらゆる場面で私たちは、

他人と接しなければ生きられませんが、

人が集まれば、必ず好き嫌いの感情が生じます。

「あの人が好き」

「あいつは顔も見たくない」

親鸞聖人が、

愛憎違順することは 高峯岳山にことならず

自分に従う者は愛して近づけるが、反する者は憎んで遠ざける。

そんな心は高く大きく、高峯岳山、大きな山と変わらない

と仰るように、誰もがそういう好悪(こうお)に、

毎日振り回されているのではないでしょうか。

一度苦手と思うと、その人と会うのが心の負担になりますが、

なぜかそんな相手とは縁が深く、

何かと顔を合わさねばなりません。

仏教ではこれを「怨憎会苦(おんぞうえく)」といいます。

近親者はなおさらで、近いがゆえに関係がこじれ、

悲惨な結果を招くことも。

警察庁は、平成28年に摘発した

殺人事件(未遂も含む)770件のうち、

親族間が占める割合は55パーセントだと発表しています。

実に半数以上が、親類同士の惨劇なのです。

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平成22年、宮崎市で家族3人の殺人事件が起き、

妻と生後5ヶ月の息子、妻の母を殺害したとして

20代の男性が逮捕された。

動機を聞くと、彼は妻の母から日常的に

「結婚を機に転職したのが気に入らん」とか

「結納や結婚式がなかった」「おまえの実家は何もしてくれん」

など、執拗に責められていた。

妻も味方になってくれず、家には居場所も、

自由に使えるお金もない。

義母との衝突を避けるため彼は、毎晩仕事が終わったあと、

車中で過ごして夜遅くに帰宅。

翌日も早朝4時、5時から仕事に出掛けるなど、

疲れ果てていった。

事件の数日前、子供のことで話し合っていると、

いつも以上に激高した義母から何度も頭を殴られ、

心の糸がついに切れてしまう。

「この生活から抜け出したかった。

義母を殺害するしかないと思った」

追い詰められ、義母と妻子を手にかけてしまった。

死刑囚となった彼は、後にこう述懐している。

「自分はもともと視野が狭かったと思いますが、

〝あの時〟はいつも以上に視野狭窄になっていた。

全ての原因は自分にありました」

 

極端な例と思うかもしれませんが、私たちも、

何かに追い詰められると、苦しみのあまり、

いつ爆発してもおかしくない心理状態になるでしょう。

このような精神的苦しみを解決して悲劇を起こさぬよう、

相談機関では、日夜努力しています。

爆発しそうな時は、誰かに心のありのままを

思いっ切り吐き出すことで、スッキリすることもある。

何かで発散させなければ、生きていけないほど、

本人はつらいのです。

そこまで深刻にならないように、仕事に忙殺される日々に潤いを、

笑顔を、と家族で旅行やレジャーに出掛けたり、

たまには美味に舌鼓を打ち、温泉につかってのんびりしたり、

趣味に没頭したり、音楽や芸術でストレスを解消し、

スポーツに明日への活力を得たりしています。

しかし、ここで挙げたような苦悩は、

人間の根本的な苦しみではない、と仏教では教えられます。

木に例えれば「枝葉」の苦であり、

それを解決して得られる喜び、楽しみも、

苦しみの大木の枝を切り落とすようなもので、

一瞬楽になりますが、永続しません。

根や幹が残れば養分が他に行くだけで、

新たな苦悩の枝葉が再び現れるのです。

 

●苦しみの根本は「三世の業障」

 

では、苦しみの根本とはどんなものなのでしょう。

昨年から、各地で上映されているアニメーション映画

『なぜ生きるーー蓮如上人と吉崎炎上』には、

室町時代に活躍された蓮如上人が、

本願寺や吉崎御坊(福井県)で弥陀の本願を説かれ、

多くの聴衆が聞いている場面が、史実に基づいて描かれています。

この映画を見たブラジルの青年から、

こんな喜びの声が届きました。

 

「映画『なぜ生きる』を拝見し、どれだけ感動したか。

私は今、不思議な感覚でいます。

言葉にならない満足感が、私の心を覆っています。

私の目の前に、ものすごい映像が流れたのですが、

それだけではなかったのです。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、

晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。

その感動を一端なりとも他の人に伝えようと思いましたが、

とても表すことができません。

無始無終の苦しみの過去から、仏法を求めてきた〝浮浪者〟が、

今生で阿弥陀仏の本願真実を

聞かせていただくことができたのです。

〝我、十方に叫ぶ この世で一番の幸福者、否、

大宇宙一の最高の幸福者と〟

親鸞聖人の恩徳讃の御心のまま進ませていただきたいと思います」

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この青年は感想の中で「無始無終の苦しみ」と言っています。

無始無終とは、始めもなく終わりもないということ。

これはもちろん、私たちの肉体のことではありません。

仏教では、私たちの生命の実相は、

果てしない悠久の過去から永遠の未来に向かって、

とうとうと流れていると説かれています。

私たち一人一人に、人間に生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死んだ後の未来世がある。

これを「三世」といい、去年から今年、来年に続くように、

私たちの生命は、過去世から現在世、そして未来世へと

永遠に続いていくのだと、お釈迦さまは説かれています。

この三世を貫いて私たちを苦しめる苦悩の根元を、

蓮如上人は、「過去・未来・現在の三世の業障

と仰っています。

肉体の苦しみや人間関係の悩みは死ねば終わりますが、

この「三世の業障」は遠い過去世から私を闇の中に

さまよわせてきた心の病ですから、

「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」

とも蓮如上人は言われています。

仏教で教える「抜苦与楽」の「苦」とはこのことであり、

この苦悩の根本治癒が、私たちが人間に生まれてきた

真の目的なのです。

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●生きている今、聞く一つで絶対の幸福に

 

では、どうすれば、この根本苦が抜き取られるのでしょう。

大宇宙のすべての仏が「本師本仏(師)」と仰ぐ阿弥陀仏は、

「どんな人でも 聞く一念に

絶対の幸福に救う」

と本願(お約束)を建てられています。

この阿弥陀仏の本願力によって、三世の業障が除かれ、

生命の歓喜を得て、永遠に変わらぬ絶対の幸福になれるのです。

蓮如上人はこのことを、

 

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、

正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

             (御文章5帖目6通)

 

と明示されています。

ここで、三世の業障が「一時に罪消えて」と言われる

「一時」とは「一念」のこと。親鸞聖人は、

「『一念』とは、時剋の極促を顕す」

と仰り、最も短い時間である、と教えられています。

そのアッという間もない一念の瞬間に、

弥陀の本願力によって「三世の業障」が消滅すると同時に、

「正定聚」「等正覚」に救い摂られるのです。

 

「正定聚」とか「等正覚」とは、どういうことでしょう。

「正定聚」とは「正しく(必ず)仏になることに定まった人々」

という意味。

「等正覚」とは「正覚〈仏覚〉と等しい位」ということです。

これは何を意味しているのでしょう。

仏教では「さとり」に52の位があると教えられています。

「さとりの52位」といい、

その最高位が「仏覚(仏のさとり)」です。

その最高のさとりを開かれた方を仏といいます。

「正定聚」「等正覚」はいずれも、その仏覚にあと1段という

51段目の位を表す言葉。

本来、さとりとは、大変な長期間、

修行しなければ到達できない境地ですが、

そんな修行のできない私たちは、弥陀の本願力によって

苦しみの根本が抜き取られた一念に、

51段高とびして「正定聚」「等正覚」になれるのです。

「正定聚」「等正覚」になった人は、

来世は必ず弥陀の極楽浄土に往って仏になれますから、

この身になったことを

「往生一定(浄土往生がハッキリ定まったこと)ともいわれます。

「往生」とは、一般には「死ぬ」「困る」と

誤解されている言葉ですが、本来は極楽浄土に往って、

仏に生まれることをいいます。

いつ、どんな死に方をしても、光明輝く浄土に生まれることが、

生きている今、ハッキリする。

「大宇宙一の幸せ者だ」と叫びたくなるほど

すごい幸せですから、現代の言葉で「絶対の幸福」というのです。

 

しかも、この絶対の幸福には、弥陀の本願を「聞く一つ」で

なれます。親鸞聖人は次のように教えられています。

 

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて

疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり

 

「聞」とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いて、

ツユチリほどの疑心もなくなったことをいうのである

 

「聞く」とは、どういうことか。

「衆生(すべての人)が、「仏願」弥陀の本願の「生起本末」に、

ツユチリほどの疑心もなくなったことだと仰っています。

「仏願の生起本末」とは、弥陀はどんな者のために

本願を建てられたのか。

どんな幸せに、どのように救うと誓われているのか、

ということです。

阿弥陀仏は「すべての人」を相手に本願を建てられました。

それは、1日として厳しい修行もしたことのない私のこと。

そんな私が弥陀の本願力によって、

平生の一念、必ず浄土往生できる身にさせていただけるのです。

〝絶対の幸福なんて、あるのかな〟

〝そんな結構なことに、本当になれるのだろうか〟

〝私でもなれるのかしら〟

素晴らしすぎる弥陀の本願を聞けば、皆、

こんな疑いが出てくるでしょう。

本願を「疑心あることなし」と聞いた一念、

これら一切の疑いが晴れわたって、

弥陀のお約束どおりの幸せになり、

〝弥陀の本願まことだった〟とハッキリするのです。

このように「本願」を「聞く一つ」で救われる教えは

ほかにありません。

親鸞聖人の教えが「本願の宗教」「聞の宗教」と

いわれるゆえんです。

大切なのは、よくよく真剣に弥陀の本願を聴聞すること。

本来の寺は、その聞法の場所として建立されたのですが、

今日はどうでしょうか。

衰退の根本理由は、本来の目的が

果たされていないからではないでしょうか。

とにかく、仏法が正しく説かれている場所を求めて、

「本願に疑心あることなし」となるまで聞くことが

肝要なのです。

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