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いつ何が起きるか分からないこの世で永遠に変わらない幸せになれる! [無常]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    いつ何が起きるか

     分からないこの世で

    永遠に変わらない

     幸せになれる

 

            『歎異抄』に込められた

              渾身のメッセージ

 

はかない無常の幸せばかりの中で、

色あせることなき「常住不変の幸せ」(変わらない幸せ)を説き明かされた

仏教の言葉を前々回の記事

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」で

お話ししました。

普段、私たちが見ようとしない諸行無常の現実を、

たじろがずに直視し、その無常の世に絶対の幸福があることを、

高らかに宣言されたのが、お釈迦さまです。

 

先月の『歎異抄』特集には多くの反響が寄せられました。

『歎異抄』が、時代を超えて、多くの日本人の心を打つ理由は

幾つもありますが、一つには、現実から決して逃げない、

仏教のたくましい精神が根底に流れているからではないでしょうか。

『歎異抄』の言の葉には、「真実のにおいがする」と

作家・司馬遼太郎は述べています。

都合の悪いことは、目を背けたり、美化するのが世の常、

しかし『歎異抄』にはそんなごまかしが一切ないことを

感じ取ったのでしょう。

太平洋戦争の末期、学徒出陣の号令で、

戦地に赴いた多くの青年が、『歎異抄』を肌身離さず

読みふけったといわれます。

死と隣り合わせの戦場で、塹壕に息を潜め、生の意味を

問う若者には、どんな美辞麗句も魂の支えにはならなかった。

彼らが求めたのは、生死の不安を乗り越える

真実の言葉だったに違いありません。

 

『歎異抄』の渾身のメッセージに耳を傾けてみましょう。

 

火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって

そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、

ただ念仏のみぞまことにておわします

            (『歎異抄』後序)

 

●「火宅無常の世界」って何?

 

火宅無常の世界とは、私たちが生きている、この世のこと。

「この世の全ては、そらごとであり、たわごとであり、

まことは一つもない」

という親鸞聖人の断定に、まず驚かされます。

政治・経済・科学・医学、毎日ニュースで取り上げられ、

新聞やネットで論じられていること、

朝から晩まで私たちが幸せ求めて

必死に取り組んでいることを、

「そらごと」「たわごと」「まことがない」なんて、

とんでもない!

反社会的、反道徳的な暴言だと憤慨する人もあるでしょう。

人間のあらゆる営みを否定するような、

衝撃的なこの発言は、何を意味しているのでしょうか。

 

なぜこの世を、「火宅無常の世界」と親鸞聖人は仰ったのか。

「『いろは歌』に隠された絶対の幸福への道」でも詳説した、

「どんな幸せも続かない」という、

「諸行無常」の仏説(釈迦の教え)を、

親鸞聖人は、「火宅無常の世界」と言われているのです。

「火宅」とは、ひさしに火のついた家。

そんな家に住まいをしていたら、何をしていても、

心からの安心満足はない。

「一刻も早く、消し止めなければ」と、

いても立ってもいられない心になります。

家が全焼した人だけが苦しむのではありません。

今は燃えていなくても、これから燃え落ちることが

ハッキリしているから、不安に襲われるのです。

同じように、病気で苦しんでいる人、災害に泣いている人、

伴侶に死別して悲嘆の人、そんな「無常」がわが身に

襲いかかってきてから、苦しむのではありません。

今は縁がないだけで、やがて、必ず無常に直面することは、

すべての人の避けられない運命なのです。

 

それは臨終になればすべての人が直面する大事なのだと、

天下人・秀吉も、こう詠んでいます。

おごらざる者も また久しからず

露とおち 露と消えにし 我が身かな

難波のことも 夢のまた夢

 

彼の辞世には、太閤の威厳はみじんも見られません。

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散る桜 残る桜も 散る桜

 

戦場に赴いた兵士が口ずさんだ句です。

過酷な運命に直面して、先に死ぬか、後で死ぬか、

咲いた花なら散るのが定め。俺は皆より少し早く散るだけだ、

と自らを納得させようとしたのでしょうか。

 

「笑う人 後から転ぶ 雪の道」

 

テレビや新聞で報道される、想定外の喪失に直面した人だけが、

悲しみに沈むのではありません。

見ている人も、やがて必ずぶち当たる、幸せ崩壊の現実です。

持てる者も、持たざる者も、賢愚美醜を問わず、

人間すべてに平等にやってくるのが、

「諸行無常」の真実なのです。

 

●満開の桜が、どうして喜べないの

 

私たちは、このことにうすうす気づいていますから、

幸せのまっただ中にあってでも、

それを心から楽しめないのではないでしょうか。

 

若かったあの頃 何も怖くなかった

ただ貴方のやさしさが 怖かった」(神田川)

 

何も怖くない、好きな人と一緒にいる絶頂の幸せに感じる怖さ。

愛する夫に抱かれて、「私、怖いくらい幸せよ」と

新妻がささやく。

 

人は、山の頂に登ることはできても、

そこに長く住むことはできないことを予感しているのでしょう。

「この世のどんな幸せも続かない。やがて消えてしまうのだよ」

と仰ったのが、

「火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・

真実あることなし」

のお言葉なのです。

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では、どうしたらこの不安を解決して、

絶対の幸福になれるのか。

親鸞聖人が、その道を示されたのが、次のお言葉です。

 

●「ただ念仏のみぞまこと」って、ホント?

 

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

『歎異抄』を読むと、まず目にするのが、

頻出する「念仏」の2文字。

念仏とは、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と

口に称えることだろう。

そんな念仏を称えることが「まこと」とはどういうことだろうか?

と分からなくなります。

この念仏の意味こそが、

『歎異抄』理解のカギといっていいでしょう。

 

親鸞聖人がここで、「念仏のみぞまこと」と言われているのは、

「本願のみぞまこと」を、言い換えられた言葉です。

本願とは、釈迦が生涯懸けて、これ一つ明らかにされた

「阿弥陀仏の本願」のことですから、

その本願が分からなければ、『歎異抄』は正しく読めません。

阿弥陀仏の本願とは、何でしょうか?

阿弥陀仏とは、釈迦の師であり、

大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします仏方の

「本師本仏」(先生・指導者)だと、

お釈迦さま自身が経典に説かれています。

「本願」とは、誓願ともいい、「誓い」「約束」のこと。

阿弥陀仏が、すべての人を相手に、

「必ず、絶対の幸福に救い摂る」と誓われたお約束を、

「阿弥陀仏の本願」といわれるのです。

 

では、阿弥陀仏が救うと誓われた「絶対の幸福」とは

どんな幸せなのでしょうか。

 

阿弥陀仏のお心は、弟子であるお釈迦さまに

お尋ねするしかありません。

釈迦が、師である阿弥陀仏の本願(御心)を解説されたお言葉が、

本願成就文」といわれるものです。

このお釈迦さまの解説によらなければ、

私たちは「本願」を正しく知ることができず、

救われませんから、親鸞聖人は、この本願成就文を、

「一実円満の真教・真宗これなり」(『教行信証』信巻)

と断言されています。

大宇宙に2つとない、唯一の真実(一実)であり、

完全無欠の教え(円満)であり、真実の教えであり、

浄土真宗はこれ以外にない、とまで断言されている、

最も重要な釈迦の教えなのです。

 

その本願成就文には、弥陀の本願の救いを

即得往生 住不退転」と解説されています。

この「不退転に住する」幸せこそが絶対の幸福なのです。

 

●不退転とは、絶対に崩れない幸せ

 

政治家などが、よく「不退転の決意で取り組みます」

と使うように「退くことがない、何事にも屈せぬさま」

を表す言葉になっていますが、

「不退転」は釈迦の本願成就文から出た、

絶対の幸福を表す仏語と知る方は少ないでしょう。

この「不退転」とは、「正定聚(しょうじょうじゅ)不退転」

のことで、

「正しく浄土へ往って、仏になることに定まった人たち(聚)」

の仲間入りをしたことです。

それは、決して崩れない絶対の幸せですから、

「不退転」と言われるのです。

 

蓮如上人は有名な『御文章』に、

その世界を「往生一定」とか「往生治定(おうじょうじじょう)」

と教えられています。

「往生」とは、「立ち往生」とか「にわか雨に遭って往生した」

などと言われるように「死んだこと」や「困ったこと」を

世間では言いますが、仏教本来の意味は、

浄土へ「往って」、仏に「生まれる」こと。

「一定」「治定」とは、「疑いなくハッキリしたこと」ですから、

「往生一定」とは、「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と

ハッキリした大安心大満足の世界をいうのです。

今幸せでも、未来、苦しみに転落するかも、

となれば、不安から逃れることはできません。

しかし、お釈迦さまが教えられた「不退転」の世界とは、

この世は絶対の幸福、来世は浄土往生という、

この世から未来永遠の幸せに生かされた世界なのです。

 

幸せの絶頂から、やがて転がり落ちる「有頂天」では、

「いつどうなるか分からない」不安が、足下から、

背後から迫ってきて、心から安心できません。

一切の滅びる中に、滅びざる「まこと」の世界が、

本願に誓われた「不退転」の世界です。

 

『歎異抄』は、「火宅無常」の不安におののく私たちが、

渇望してやまない幸せは、「ただ念仏のみぞまこと」の

世界であることを伝えんとした書だったのです。

 

では、どうしたら、その世界に出させていただけるのでしょうか。

親鸞聖人が、唯一の真実の教えを仰った、

釈迦の「本願成就文」には、「聞其名号」と教えられ、

「聞く一つ」で、不退転の身・絶対の幸福に救われると

明言されています。

この釈迦の教えに基づいて、親鸞聖人も蓮如上人も、

仏法は聴聞に極まる」と説かれているのです。

 

「えーっ、ただ聞いているだけでいいの?」と

思った方もあるかもしれませんが、「真剣に」聞きなさいよと

教えられた親鸞聖人のお言葉を、最後にお示ししましょう。

 

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり

                (浄土和讃)

たとい、大宇宙が火の海になろうとも、

そのなか仏法を聞き抜く人は、

必ず不滅の幸せ(不退)に輝くのだ

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絶対の幸福になれば、大切な人と未来、必ず浄土で会える! [死後に再会するためには]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

        絶対の幸福になれば、

               大切な人と未来、

                    必ず浄土で会える

 

親や先祖など、今は亡き大切な人たちへの

真の恩返しとは何か。

これについて、巻頭記事では

「生きている私が本当の幸福になること」

と明らかにしました。

ここで言われる「本当の幸福」とはどんな幸せかを、

このコーナーではお話します。

 

一口に「幸せ」といっても、人それぞれ、

思い浮かべるものは異なるでしょう。

例えば、人生という旅の中で私たちは、

父母兄弟、友人や恩師、夫や妻、子供など

さまざまな人と出会います。

素晴らしい出会いによって、人生は豊かに彩られるでしょう。

ところが、「会者定離」は世の習い。

出会いがあれば必ず別れもある。

しかも愛が深ければ深いほど、別離の悲しみは、

強くなります。

今月のテーマの「お盆」は、その別れを経験した人の

大切な年中行事です。(2017年8月のとどろきです)

高齢化社会の到来で認知症の増加に拍車がかかっています。

2012年の患者数は460万人を超え、あと7~8年で700万人を

超えるともいわれます。

この認知症の人たちが直面するのは「思い出」との別れでしょう。

折々に多くの喜怒哀楽を経験してきた人生の記憶を失う

心境はいかばかりか。

しかも、それは家族にとっても深刻な問題です。

ある医師のコラムに、認知症の夫を世話する妻の、

こんなコメントが記されていた。

〝若い頃から苦楽をともにした夫が、私と過ごした日々を

忘れるようになった。病気だから、とは思っても、

夫の記憶から私が消えていくと考えると、

夜も眠れないほどにつらい〟

これから多くの人が経験することになりそうです。

 

●2とおりの幸福がある

 

仏教では、幸福に2種あると説き、今述べたような、

いつまでも続かない喜びを「相対の幸福」といいます。

「相対」とは、比べて分かる、という意味があります。

私たちは、1本の棒を見て、長いか短いかと問われても

答えることができません。

短い棒と比べれば長いし、もっと長い棒と比べれば、

短くなるからです。

同様に、重い軽い、高い低い、優劣、美醜、貧富など、

他のものと比べて初めて評価がハッキリします。

そんな相対的な知恵しか持たない私たちは、

自分の幸せについても、常に誰かと比較しないと、

幸・不幸を実感できないのです。

 

この「幸」の字源は諸説ありますが、その一つに、

中国の手枷(てかせ・手錠)をもとにしてできた象形文字、

といわれています。

死刑や流刑などと比べて、手枷の刑は軽い。

〝ヤレヤレ命拾いした、幸いであった〟と喜ぶことから

「幸」という字形になったというのです。

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テストで80点取った時、それだけでいい成績かどうか分かりません。

平均が50点台での80点ならば優秀ですが、

皆が90点ならうれしくない。

勉強もスポーツも仕事も、優劣を競いますが、

評価は比べる相手によって変わる。昔から

「幸せでいたかったら、上見て暮らすな、下見て暮らせ」

と言われるのも、自分より不幸な人を見ていないと、

幸せを感じられないからでしょう。

「ボクはAより背が低いし、成績も悪い。ああ、オレは不幸だ!!」

と嘆いたり、

「あの人より私の髪の方が黒々ツヤツヤしてるわ」

と勝ち誇ったりする。そんなこの世の幸せの実態を、

 

万のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無し 

                   (歎異抄

すべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、

まことは一つもない

 

親鸞聖人は『歎異抄』に仰っています。

 

●「生まれてよかった」と喜べる「絶対の幸福」

 

このような相対的な幸福に対して仏教では、

永遠に変わらぬ「絶対の幸福」を説かれています。

仏教は、この無上の幸福を明らかにするために説かれた教えであり、

私たちも、この絶対の幸福になるために生まれたのだと

お釈迦さまは仰せです。

せっかく先祖から受け継いだ大切なこの生命、

「人間に生まれてよかった」と真に輝かせるためには、

絶対の幸福になることだ、と教えられているのです。

では「絶対の幸福」とは、どんな幸せなのでしょう。

他人と比べて味わう幸せではなく、

「大宇宙に私ほどの幸せ者はない」と一人いて喜べる幸福だ

蓮如上人は仰っています。

 

同行の前にては喜ぶなり。これ名聞(みょうもん)なり。

信の上は一人居て喜ぶ法なり    (御一代記聞書154)

 

しかも、この無上の喜び、満足は、いつでもどこでも、

決して色あせることがないのです。

この絶対の幸福には、生きている今、誰もがなれると

説かれています。

それは大宇宙の仏方の「本師本仏」である偉大な阿弥陀仏が、

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

という約束をなさっているからです。

これを阿弥陀仏の本願(約束)といいます。

人間の力ではなく、ひとえに、この阿弥陀仏の本願力によって、

すべての人は絶対の幸福に必ずなれるのだ

親鸞聖人は仰せです。

 

若不生者のちかいゆえ

信楽まことにときいたり

一念慶喜するひとは

往生かならずさだまりぬ 浄土和讃

 

必ず絶対の幸福にしてみせると、

弥陀が命を懸けて誓っておられるから、

信楽〈絶対の幸福〉になれる時が必ず来るのだ。

平生の一念に慶喜した人は、必ず浄土へ往く身になるのである

 

「若不生者のちかい」とは、阿弥陀仏の本願に、

「若不生者、不取正覚(若し生まれずば正覚を取らじ)」

と誓われているので、弥陀の本願を「若不生者のちかい」

と親鸞聖人は仰っています。

これは「若(もし)」の一字に仏の命(正覚)を懸けて

「必ず生まれさせる」と阿弥陀仏が誓われているお言葉です。

「生まれさせる」とは「信楽(絶対の幸福)にする」ことです。

 

仏語に虚妄なし、仏さまのお言葉にウソはありません。

大宇宙で最も尊い仏さまが、

命を懸けて約束をなさっているのだから、 

誰もが必ず「絶対の幸福」になれる時があるのだと、

聖人は、「信楽まことに時至り」と仰っています。

親鸞聖人は29歳で弥陀の本願のとおりに絶対の幸福になられた時、

 

「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(教行信証総序)

(阿弥陀仏のお約束、まことだった、本当だった)

 

と宣言なされています。「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」

阿弥陀仏の本願を、「まことであった」と自ら体験なされたのです。

 

絶対の幸福になるのはアッという間もない一念の瞬間であり、

その時の、大慶喜心が起きますので、絶対の幸福になった人を、

「一念慶喜する人」と言われ、その人は「往生かならず定まりぬ」

と仰せです。

だから、弥陀の救いはハッキリしています。

「往生」とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往って仏に生まれること。

肉体が死なねば極楽へは往けませんが、

往生はこの世でハッキリする。

それを「必ず定まりぬ」と言われています。

「往生一定」ともいい、未来の往生が、

今ハッキリ確定する(一定)のです。

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無量光明土の極楽浄土に往ける身に、ただ今なれる。

そうなれば、今から心は底抜けに明るく楽しい、

まさに「心は浄土に遊ぶなり」です。

そんな往生一定の身になれるのは、

ひとえにこの阿弥陀仏の偉大な本願力によるのだ、

と聖人はこの和讃で教えられています。

ですから、一人一人がこの世で弥陀に救われ、

絶対の幸福になれば、親子、妻子、家族そろって

弥陀の浄土に往生し、未来永遠の家族、夫婦となれるのです。

有名な『阿弥陀経』に

倶会一処(くえいっしょ)」

という言葉があります。墓にもよく刻まれていますが、

これは〝死んだら誰でも極楽〟という意味ではなく、

この世で絶対の幸福になった人は皆、

ともに浄土で会うことができるのだよ、

ということです。

「真実の信心をえたる人(絶対の幸福、往生一定になった人)

のみ本願の実報土(じっぽうど・極楽)によく入ると知るべし」

                 (尊号真像銘文14)

と親鸞聖人は明らかに仰っています。

 

●未来で必ず大切な人を救うことができる

 

最後に、亡き人の真の供養について『歎異抄』五章の

お言葉を紹介しましょう。

 

ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、

六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、

神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々

 

ただ、はやく本願を計ろう自力の心を捨てて、

浄土で仏のさとりを開けば、どんな六道・四生の

迷いの世界で、苦しみに沈んでいようとも、

仏の方便力で縁の深い人々から救うことができよう、

と聖人は仰せになりました

 

すでに世を去った人たちの中には、

浄土に往生している人もあるでしょうが、

仏縁に恵まれず、苦しみ迷いの世界でさまよっている人も

大勢ありましょう。

だが、たとえどのような苦界にいても、

今生きている私が真剣に仏法を聞いて絶対の幸福になれば、

来世は浄土で仏になり、その神通力をもって、

いかなる世界にいる人をも真実の幸福に導き、

本当の幸せに救うことができるのです。

 

『歎異抄』にこう仰っているのは、

絶対の幸福に救われた人は阿弥陀仏から

還相廻向(げんそうえこう)」の働き(浄土から再び、娑婆世界へ戻って

衆生を救済すること)を賜るからです。

大事な人を未来、本当の幸福にすることができるのですから、

今、自分が真剣に阿弥陀仏の本願を聞き抜き、

絶対の幸福になることこそが、真の供養であり、

恩返しになるのですよ、と教えられているのです。


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「南無阿弥陀仏」は幸せの特効薬 [南無阿弥陀仏]

「南無阿弥陀仏」は

     幸せの特効薬

  

          光り輝く人生に

             ガラリと変える力とは

 

葬式や法事では、必ずといっていいほどお経が読まれます。

参列者には意味が理解できず、

死者を供養する呪文かまじないのように

思われるかもしれませんが、そうではありません。

お経は、2600年前のインドでお釈迦さまが説かれた教えを

記録したもの。

すべての人が本当の幸福になれる道を説かれた方が

お釈迦さまであり、その教えが仏教です。

葬式や法事で読経がなされるのは、

あくまで参列者のためですから、

そのあとの説法で、お経の内容をよく知ることが大切です。

 

では、お経には何が説かれているのでしょうか。

「お経」という言葉自体、「難解なもの」の

代名詞のように使われていますから、

〝仏教は難しい〟というイメージが定着しています。

しかし、昔から「物に本末あり、事に始終あり」と

いわれるように、どんなことにも必ず本末・始終があって、

本から末、始めから終わりまで、全体を知ることが

物事を理解するうえで大事だと教えられます。

仏教もしかり。

一部分だけ聞いて、「何の事だかサッパリ分からない」と

思うのは当然のこと。

そこで今回は、仏教の全体像を身近な例え話で

お話したいと思います。

 

ここに病で苦しむ人がいる。

放置すれば死んでしまうので、

その病人を助けようという医師が現れた。

医師は病を完治させる薬をつくった。

その薬を病人に与えるとたちまち病気が全快。

苦しみから救われたその人は、

医師に心からお礼を言った。

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ここで「病人」とは私たちすべての人間です。

「医師」とは阿弥陀仏のことです。

その阿弥陀仏が完成なされた「薬」が南無阿弥陀仏。

病の特効薬を私たちが頂くと、

立ちどころに「全快」します。

これを信心決定(しんじんけつじょう)といいます。

全快して医師へ言う「お礼」が念仏です。

この順番で、説明いたしましょう。


①病人 どうして心が満たされないの

 

仏教では、なぜすべての人を「病人」というのでしょうか。

それは心に本当の喜びがないからです。

仏さまの眼に映る古今東西のすべての人は、

何のために生まれてきたのか分からず、

常に不安を抱えて生きる苦悩の衆生です。

今月の巻頭特集に「有無同然」とあったとおり、

どれだけ欲しいものを手に入れても、

心からの幸せ、喜びにはならないのです。

しかし、私たちは決して苦しむために

生まれてきたのではありません。

では、何のために生きているのでしょうか。

「なぜ生きる」の答えが分からない真っ暗な心を仏教で

「無明の闇」と教えられ、

これが人生を苦に染める根元であり、

病の本当の原因であると説かれているのです。


 

②医師 〝一人立ち上がられた〟とは

 

そんな病(無明の闇)に苦しむすべての人を哀れに思われ、

何とかして助けてやりたいと、

一人立ち上がられた名医が阿弥陀如来という仏さまです。

本師本仏と仰がれ、「大医王」とたたえられています。

大宇宙にまします数え切れないほどの仏が、

異口同音に「われらが師匠の仏」と尊敬するのが阿弥陀仏です。

だから釈迦も一切経の中で、「諸仏の中の王なり」とか、

「最尊第一」の阿弥陀如来とか、

言葉を尽くして称賛されているのです。

 

阿弥陀仏は、どうすればすべての人の病(無明の闇)を

完治させることができるか、

五劫という長期間、考えられました。

これを「五劫の思惟」といいます。

弥陀は五劫もの間、病を徹底研究され、

兆載永劫のご苦労の末、ついに病を完治させる働きのある

「南無阿弥陀仏」という妙薬を完成なされたのです。

 

③薬 「南無阿弥陀仏」の効能

 

「南無阿弥陀仏」とは何か。

親鸞聖人は「功徳の大宝海」「真如一実の功徳宝海なり

と仰り、南無阿弥陀仏は善根功徳の大きな宝の海である、

と仰せです。

蓮如上人は「南無阿弥陀仏の名号の中には、無上甚深の

功徳利益の広大なること、更にその極まりなし」、

大宇宙最高の功徳がおさまっているのだよと

教えてくださっています。

 

「お経は長いほうが功徳がある」と思われている方も

少なくありませんから、「南無阿弥陀仏」のわずか六字に

無限の功徳があると言われても、

疑わしく思うに違いありません。

しかし、お釈迦さまご自身が、南無阿弥陀仏の大功徳について、

「私は生涯、この大功徳を説き続けてきたが、

とても説き尽くすことができなかった」

と説かれ、蓮如上人は『御文章』に、

一切の聖教というも、

ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

と仰り、お釈迦さまが一生涯、説かれたことは

この南無阿弥陀仏の功徳一つであり、

一切経は南無阿弥陀仏を私たちに受け取らせるためだったと

言われています。

 

ならば、いかなる効能が「南無阿弥陀仏」にあるのか。

それを教えてくだされている親鸞聖人のお言葉が、

次のご和讃です。

 

無碍光如来(むげこうにょらい)の名号と

かの光明智相(こうみょうちそう)とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃

 

「無碍光如来の名号」とは、

阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏のことです。

「かの光明智相」とは、阿弥陀仏の光明のお力、

お働きをいいます。

「無明長夜の闇を破し」とは、

「苦悩の根元である無明の闇を破り」ということ。

「衆生の志願をみてたまう」の「衆生」は私たち、

「志願」とは、望み、願いのことです。

私たちの願望をかなえてくださるかのように思いがちですが、

私たちの願いは「食べたい、儲けたい、楽したい、

認められたい」ばかり。

阿弥陀仏は、私たちの小さな欲望を満たすと仰っているのではなく、

「人間に生まれてよかった、という絶対の幸福に救う」という

弥陀の願いを私たちの身に満たしてくだされる、

といわれているのです。

このようにすべての人の心の闇を破り、

歓喜あふれる輝く人生にガラリと変えてくだされる

南無阿弥陀仏のお働きを「破闇満願」といいます。


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④全快 どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの?

 

この南無阿弥陀仏の名号を、私たちが弥陀より賜った一念に、

無明の闇が破られ、絶対の幸福に救い摂られるのです。

これを「信心決定(しんじんけつじょう)」とか

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

いくら阿弥陀仏のお手元に薬ができ上がっていても、

私たちがのまねば効きめは表れず、病は全快しません。

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号を創られたのは、

私たちに与えて病を全快させるため。

では、どうすれば頂けるのでしょうか。

このことについて、お釈迦さまは「聞く一つ(聞其名号)」と

教えてくだされています。

聞く一つで名号を与えて絶対の幸福に救うというのが、

阿弥陀仏の御心ですから、最も大事なことは、

真剣によくよく、仏法を聞くことである、と

親鸞聖人も蓮如上人も教え勧められているのです。

 

⑤お礼 救われてからの念仏

 

弥陀より賜った南無阿弥陀仏の特効薬で病が全快し、

絶対の幸福に救い摂られたならば、言わずにおれないのが

お礼の念仏です。

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることですが、

親鸞聖人は最も勧められた念仏は、弥陀に救い摂られたうれしさに、

称えずにおれない「お礼」の念仏です。

世間でも、人から物を頂くと、お礼を言わずにおれませんが、

その言葉は相手によって変わるでしょう。

日本人なら「ありがとう」、アメリカ人なら「サンキュー」、

中国人なら「謝謝」と言います。

阿弥陀仏に対しては、「南無阿弥陀仏」が、

救われたお礼の言葉なのです。

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蓮如上人は、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし

御恩報尽の念仏と、心得べきなり」(聖人一流の章)

と、分かりやすく教えられています。

 

このようにお話すると、

「では、念仏を称えているのは、

もう救われているということなのですね」

と思われる方もありましょうが、

それは大変な誤解です。

念仏を称えるのは大変尊いことですが、

念仏を称えている人なら誰でも南無阿弥陀仏の

名号を受け取っているのではありません。

このことを親鸞聖人は、

 

「称名憶念すること有れども、

無明なお存して所願を満てざる者あり」(教行信証信巻)

 

と仰り、念仏を一生懸命に称えてはいても、

無明の闇がいまだなくならず、大安心・大満足に

救われていない人がいる、と言われています。

 

名号を頂いたかどうかは、称える念仏で決まるのではなく、

無明の闇が破られ、往生一定の身になったかどうかで

決まるのです。

 

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、

私たちに南無阿弥陀仏の名号を受け取らせる一つのため。

一日も早く、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏の名号を頂き、

絶対の幸福に救われるまで、

仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

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こうまでしてくださらないと分からない私でした [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

「こうまでしてくださらないと

     分からない私でした」

       愛児を亡くしたキサーゴータミー

 

事実でも、話に聞くだけでは理解できない、

受け入れられないことが、世の中には多くあるでしょう。

そんな時、実際に体にかけて確かめることが、

非常に大切です。

そんなお釈迦さまのご教導を、今回はお聞きしましょう。

 

釈迦ご在世中、キサーゴータミーという麗しい女性がいた。

結婚して玉のような男の子を生んだ。

ところが命より大事に育てていたその子が、

突然の病で急死してしまう。

彼女は狂わんばかりに愛児の亡骸(なきがら)を

抱き締め、この子を生き返らせる人はないかと

村中を尋ね回った。

会う人見る人、その哀れさに涙を誘われたが、

死者を生き返らせる人などあろうはずがない。

だが今の彼女には、何を言っても聞く耳を持たないと

思ったある人が、

「舎衛城にましますお釈迦さまに聞かれるがよい」

と諭した。

早速、キサーゴータミーはお釈迦さまを訪ね、

泣く泣く事情を訴えて子供の蘇生を懇願した。

哀れむべきこの母親に、お釈迦さまは優しく、

こう告げられている。

あなたの気持ちはよく分かる。

いとしい子を生き返らせたいのなら、

私の言うとおりにすればよい。

これから町へ行き、今まで死人の出たことのない家から

ケシの実を一つかみもらってくるのだ。

すぐにも子供を生き返らせてあげよう

 

お釈迦さまの真意を知る由もないキサーゴータミーは、

それを聞くなり、町へ向かって一心に走った。

しかし、どの家を訪ねても、

〝昨年、父が死んだ〟

〝夫が今年亡くなった〟

〝先日、子供と死別した〟

という家ばかり。だが、彼女はなおも、

死人の出ない家を求めて駆けずり回った。

どの家にもケシの実はあったが、

死人を出さない家はどこにもなかった。

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●実行したから

    知らされた

 

やがて日も暮れ、夕闇が町を包む頃、

心身ともに疲れ果て、歩く力も尽きた彼女は、

トボトボとお釈迦さまの元へと戻っていた。

ゴータミーよ。ケシの実は得られたかな

世尊、死人のない家はどこにもありませんでした。

私の子供も死んだことがようやく知らされました

そうだよ、キサーゴータミー。

人は皆死ぬのだ。明らかなことだが、

分からない愚か者なのだよ

本当に馬鹿でした。こうまでしてくださらないと、

分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、救われる道をお聞かせください

彼女は深く懺悔し、仏法に帰依したという。

 

相手の心に応じたこのようなお釈迦さまのご教導を、

誰が否定できるでしょうか。

〝話せば済むことを、なぜ、ムダな苦労をさせられたのか〟

といぶかる人もあるかもしれませんが、

実行させなければ分からぬ重い真実であるからでしょう。

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往生極楽の道 [歎異抄]

   明るい未来を願う

     すべての人への

        メッセージ

         往生極楽の道

 

親鸞聖人のご金言がしたためられている古典『歎異抄』には、

人生を苦しみに染める元凶

「死んだらどうなるか分からない心(後生暗い心)」が

どうしたら晴れるか、その方法が説かれています。

それが『歎異抄』第2章に出てくる「往生極楽の道」です。

今回は、この親鸞聖人のお言葉について、解説しましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちの日常とは、例えるなら「滝つぼ」へ向かう

船の中の出来事だと、特集第1部でお話ししました。

船内だけ見れば、平穏に見えるかもしれませんが、

ヘリコプターから見下ろせば、船に一大事が迫っていることは

明らかでしょう。

船旅に興じる人たちは、その行き先を見ることはできませんから、

船内で飲めや歌えの大騒ぎをしています。

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同じように人は皆、勝った負けた、損した得したと

目の色を変え、互いに争って生きています。

こんな話しがあります。

「得」という字を分解すれば

「人々よ、日に一寸ずつ儲けてゆけ」

と書いてある。

欲深ばあさん、それ聞いて、

「これは面白い、よいこと知った。

一日一寸でも一年たてば、大したものが得られるぞ」。

それから隣の田んぼを、ちょっとずつ削り取ることを

日課とする。

だんだん広がるわが田を眺め、得意然(とくいぜん)と

喜ぶばあさんだった。

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ところが間もなく、交通事故で、息子が身体障害者となり、

ばあさんは脳卒中で寝たきりに。

一寸ずつ儲けた田んぼを売り払い、死んでいったという。

私たちは、どこへ向かっているのか、

よくよく考えてみなければならないでしょう。

 

今から30年前に上映された、

『TOMORROW 朝』という映画があります。

舞台は、原爆が投下された昭和20年8月9日の前日の長崎。

婚礼を挙げる男女をはじめ、出産を控えた女性、

恋人から赤紙が来たと告げられる少女、

出征する兵士と家族写真を撮影する人々、

写真館の主人らの、ありふれた日常風景が描かれています。

いつものように朝起きて、ご飯を食べ、学校や職場に行く。

悲劇の前日も、そんなフツウの1日でした。

写真館の現像室で、結婚式の集合写真が印画紙に浮き出る。

それから間もなく、原爆が炸裂し、

あるはずだったそれぞれの未来は霧のように消えた。

淡々と描かれる人々の日常の幸せが、悲しみに染まります。

 

しかし、こうした〝悲劇〟は、

原爆に遭った人たちだけのことでしょうか?

考えてみれば、未来に死という〝滝つぼ〟のあることを知らず、

遅かれ早かれ無防備のまま突っ込んでいく私たちの日常と、

少しも変わりません。

「皆死ぬんだから、死なんか怖くない」

と言う人もありますが、

健康長寿のためのテレビ番組や本が人気を集め、

環境問題に感心を示すのも、死を遠ざけたい心の表れでしょう。

しかし後生の不安は、強がりやごまかし、

考え方を変えたくらいで払拭できるものではありません。

 

このままでは恐れと後悔で終わってしまう。

ところが親鸞聖人は、そんな人生が、一念の瞬間に

ガラリと明るく大変わりすると説かれているのです。

「そんなバカな、ありえない」

と思われるかもしれませんが、親鸞聖人のお言葉は、

常に揺るぎのない力に満ちています。

それが記された『歎異抄』第2章の一節を確認してみましょう。

 

おのおの十余ヵ国の境を越えて、身命を顧みずして

訪ね来たらしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を

問い聞かんがためなり

あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から

身命を顧みず、この親鸞を訪ねて来られたのは、

往生極楽の道、ただ一つを問いただすためであろう

 

親鸞聖人がこう仰った背景について、

簡単に説明しておきましょう。

関東で20年間、ご布教なされた親鸞聖人は、

還暦(60歳)を過ぎて、故郷の京都へ帰られました。

ところがその後、関東では聖人の教えを惑乱させる

種々の事件が続発しました。

信仰が大きく動揺した人たちは居ても立ってもいられず、

「聖人に、直にお聞きしたい」

と、京行きを決意したのです。

当時、数十日はかかったといわれる関東から京都への旅は、

箱根山や大井川などの難所も多く、また、盗賊・山賊も

うろついて、生きて帰る保証はありません。

まさに身命を顧みぬ旅路でした。

その同胞らと対面されるや、聖人はこう直言されています。

「そなたたちが、命を懸けて聞きに来られた目的は

往生極楽の道、ただ一つであろう」

このお言葉から、親鸞聖人の教えは

「往生極楽の道」であることが分かります。

では「往生極楽の道」とは何でしょうか。

それは、「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と

誓われる阿弥陀仏の本願のことです。

 

●阿弥陀仏の本願とは

 

約2600年前、インドに現れられたお釈迦さまが、

80年の生涯懸けて説かれた教えが仏教です。

今日、一切経と呼ばれる7千余巻もの膨大なお経に

書き残されています。

親鸞聖人はこの一切経を何度も読み破られ、

こう仰っています。

 

如来、世に興出したまう所以は、

唯、弥陀の本願海を説かんとなり  (正信偈)

釈迦如来が一切経を説かれたのは、

「弥陀の本願海〈阿弥陀仏の本願〉ただ一つを教えるためだった」

 

ではお釈迦さまが、私たちに伝えようとされた

「阿弥陀仏の本願」とは何でしょうか。

地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、

大宇宙には数え切れない仏さまがまします。

それらの仏方の先生、最高の仏さまが阿弥陀仏です。

お経には、

最尊第一の阿弥陀如来

諸仏の中の王なり

と説かれています。

 

「本願」とは誓願ともいわれ、お約束のことです。

滝つぼに向かって流され、不安の中で生きている私たちを、

「必ず弥陀の浄土に生まれる往生一定の幸せにしてみせる」

と約束されているのが阿弥陀仏の本願です。

「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ往って仏に生まれること。

「一定」とは、ハッキリすることです。

ですから「往生一定」とは、死ねば弥陀の浄土へ往って

仏に生まれられるとハッキリする、ということです。

この阿弥陀仏の本願のとおりに救われ、

来世は浄土に間違いなしとハッキリすれば、

後生(死後)の心配は一切なくなりますから、

〝生きてよし、死んでよし〟の絶対の幸福になれるのです。

弥陀の浄土は「無量光明土」ともいわれる、

限りなく明るい世界。

不安な人生が、無量光明土に近づく人生にガラリと

大変わりしますから、現在が無限に

明るく楽しい毎日になるのです。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、生きている今。

「業」とは絶対の幸福、「成」は完成する、達成する、

ということですから、平生ただ今、

絶対の幸福に生かされるのです。

 

●この世と来世の2度の救い

 

阿弥陀仏の救いは、「この世だけ救う」のでも、

「この世はどうにもならんが、死んだら助ける」のでもありません。

この世(現世)も死後(当来)も2回救われる「現当二益」と

親鸞聖人は仰っています。

阿弥陀仏の本願は、

「平生に絶対の幸福(正定聚)に救い摂り、

来世は必ず弥陀の浄土に往生させる」

お約束であることを明らかにされたのが、

聖人一代のご布教でした。

親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた室町時代の蓮如上人も、

これを『御文章』に問答形式で分かりやすく教えられています。

「阿弥陀仏の救いは1度でしょうか、2度でしょうか」

の問いを出し、

「この世は、あの弥勒菩薩と同格の正定聚(絶対の幸福)に

救われる。仏のさとり(滅度)は、

死後、浄土で得られることである。

だから阿弥陀仏の救いは、2度あることを知るべきである」

と答えられています。

 

では、その阿弥陀仏の本願に、この世も死後も救われるには

どうしたらよいのでしょうか。

それについてお釈迦さまも親鸞聖人も、

仏法は聴聞に極まる」。

阿弥陀仏の本願に救われるには、「聞く一つ」と

明言されています。

 

●真剣な聞法

 

死んだらどうなるか?

後生の問題は、50年や100年どころではありません。

未来永劫、苦患に沈むか、往生極楽の楽果を受けるかの一大事だと、

仏教では教えられています。

それを親鸞聖人から、常々お聞きしていた関東の人々は、

「往生一定に救う」弥陀の本願(極楽往生の道)への疑いを

晴らしたいと、

命を懸けて聖人の御元にはせ参じました。

自分の乗った船が、真っすぐ滝つぼに向かっていると

知らされたなら、どうして放っておけるでしょう。

この一大事の解決を求め、真剣に仏法(弥陀の本願)を

聞く人が、必ず現れてきます。

時代や社会がどう変化しようと、眼前に迫る滝つぼは

変わりません。人は、やがてこの一大事に驚き、

「往生一定の大安心になりたい」と、

真剣に本願を聞き求めずにおれなくなるのです。

親鸞聖人は、その聞法の覚悟を、

 

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

 

大火をくぐり抜ける覚悟で聞法する人は、

必ず阿弥陀仏より現当二益(この世も未来も助かる)の

幸せを頂くのだよ、と仰せです。

来世は必ず「浄土に往生できる」と明らかになり、

心から安心して生き抜く人生を送りましょう。

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浄土真宗でいわれる不来迎の教えとはどんなことでしょうか。 [Q&Aシリーズ]

浄土真宗でいわれる不来迎の

   教えとはどんなことでしょうか。

 

お聞きのとおり、浄土真宗の特色の一つが、

この不来迎の教えだということです。

不来迎ということをお話しする前に、

まず、仏教でいう来迎ということについて

説明しなければなりません。

来迎ということは、平生努めて念仏を称えている人が、

臨終になると、その人の枕元へ阿弥陀仏が観音・勢至の

二菩薩を従えて現れ、極楽浄土へ連れていってくだされると

いうことです。

これを信ずることを、来迎を信ずるというのです。

これに対して、不来迎というのは、

そんなことが全然問題にならなくなるということです。

来迎を信じている人たちは全くお気の毒な人たちです。

臨終の来迎を当てにしなくては往生の確信、安心が

持てないため、現在が不安で苦悩に満ちた生活を送っている

人々だからです。

浄土宗の人たちがよくすることですが、

臨終に、阿弥陀仏の木像の手に糸を引っかけ、

その糸の端を自分が握り締めて、

否応なしに極楽へ引っ張ってもらおうとする儀式さえあります。

これは、平生に阿弥陀仏の明らかな救いを

体験することのできなかった人たちの最後のもだえです。

それは真実の阿弥陀仏の本願を教える善知識に

会わなかったからでもあります。

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浄土真宗の道俗でも、「この世はどうにもなれない、

死んだらお助け、死んだら極楽」と喜んでいる者が多いのですが、

みんなこんな来迎を頼りにしている気の毒な人々です。

これらの人々は、今助かったという大慶喜も大満足もありませんから、

「死んだら極楽へ参れる」という、

未来を当てにする喜びしかできないのです。

ゆえに何とか間違いなく極楽へ往けるように信じ込もうとします。

が、それが信じ切れないので、

来迎をたのんでその不安をごまかそうとするのです。

ところが、その臨終来迎も信じられないので、

上述のような儀式までするようになったのです。

これらの人々は、死ぬまで不安と苦悩の連続で

終わっていくということですから、一大悲劇といわなければなりません。

 

●救われた

  信の一念から常来迎

 

親鸞聖人が不来迎だとおっしゃったのは、平生の時、

信楽開発(しんぎょうかいほつ)の一念に久遠の弥陀と名乗りを上げ、

曠劫流転の魂の解決をハッキリさせていただき、

苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じさせていただき、

 

念仏者は無碍の一道なり

有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど

こころは浄土にあそぶなり

 

と何ものにも恐れず屈せず、何事にもうろたえぬたくましい

正定聚不退転の身に救われて、死んでよし生きてよし、

動くままが南無阿弥陀仏の大満足だもの、

臨終来迎などさらさら用事はないから、

不来迎とおっしゃったのです。

親鸞聖人は、来迎を平生の一念に明らかに体験なされたから、

臨終の来迎など問題になさらなかったのです。

浄土真宗の教えは救われた信の一念から仏凡一体ですから、

常来迎であり、不来迎です。

「されば聖人の仰せには、

『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に

正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、

来迎たのむことなし』といえり」

               (御文章一帖目四通)

と蓮如上人の仰せのとおりであります。


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知恵ある者に怒りなし [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    知恵ある者に怒りなし

 

「そなたは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、

歓待することがあるか」

釈尊の静かな問いかけに、先刻から、辺り構わず

どなり散らしていた邪教徒の男は、

「そ、そりゃ、あるさ」

とかろうじて答えた。

〝やぶから棒に何を!?〟。若い彼は戸惑った。

問われた真意がつかめなかったのだ。

ここを訪れてから今まで、悪口雑言(あっこうぞうごん)を

浴びせ続けているが、釈迦は今までの相手とはまるで違う。

挑発に全く乗ってこないのだ。

〝これじゃ、のれんに腕押しじゃないか〟。彼は焦った。

釈尊は続けて尋ねる。

「親族がその時、そなたの出した食べ物を食べなかったらどうするか」

「食わなければ、残るだけさ」

ぶっきらぼうに、だが導かれるように、仏陀の問いに答えていく男。

釈迦の説法によって、仲間が次々と仏教徒になっていくのを見た彼は、

怒りに打ち震え、論破せんと一人、この精舎に乗り込んできた。

そんな男の素性を知ってか知らずか、釈尊は続けて問いを繰り出される。

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受け取らなければ、

その罵詈雑言は、だれのものになるのか」

核心に触れたと思った男は、ムキになって反論した。

「いや、いくら受け取らなくとも、与えた以上与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたといえない」

突っぱねられた男は、

訳が知りたくなる。

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立場は逆転した。 婆羅門の男は、自ら釈尊に問うようになった。

「それなら、どういうのを受け取ったといい、

どういうのを受け取らないというのか」

「ののしられた時、ののしり返し、怒りには怒りで報い、

打てば打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。

それらは与えたものを受け取ったというのだ。

しかし、その反対に、何とも思わないものは、

与えたといっても受け取ったのではないのだ」

さっきから感じていたことを言い表された気がして、

男は重ねて尋ねた。

「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は厳かに、偈(げ)で答えられた。

 

知恵ある者に怒りなし。

よし吹く風荒くとも、

心の中に波たたず。

怒りに怒りをもって報いるは、

げに愚か者のしわざなり

 

百雷に打たれたような衝撃が心に走った。

外道の若者は、仲間がなぜ仏陀に帰依したかが、ようやく分かった。

「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

落涙平伏し、仏に帰順したのである。


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仏弟子・阿難のエコ感覚 [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   一枚の布も無駄にせぬ心がけ

        仏弟子・阿難のエコ感覚

 

気を抜いて歩けばつまずきそうになる絨毯が、

廊下のはるか先まで続いている。

昼間だというのに、きらびやかな照明が明々(あかあか)と

灯り、

ぜいたくな調度が惜しげもなく置かれる城中。

かつて王族の一員であったから気後れするようなことはないが、

市中は経済が悪化して、今日の食をも事欠く人があふれている。

どうにも違和感を感じつつ阿難は

〝王さまも少し節約されては・・・〟。

心中、苦言をぶつけずにはいられなかった。

 

ともあれ今日は国王の催す法話会に招かれている。

挨拶の席では、後宮の侍女たちに説法してほしいと王から

直々に請われた。

そのせいか、いつもより緊張しているようだ。

阿難は、女性と接するのは得手でない。

だが、容貌が彼女たちの気に入るらしく、

これまで幾人もの女性に言い寄られたことがある。

常に親切を心がけ、だれにも分け隔てなく接しようとすることも、

時に好意と受け取られるようだ。

無道で熱烈な求愛に追い詰められたことがよくあったから、

つい警戒心が先に立つ。

お釈迦さまの御手を煩わせ、窮地を助けていただいたことも

一度や二度ではなかったのだ。

それでも中には、彼とのかかわりを縁に

仏道修行に目覚める者もあって、

それはそれで喜ばしいことだが・・・。

そんなことを考えながら、阿難は後宮に足を踏み入れた。

 

居並ぶ500人の女官たちを前に、阿難は説法を始めた。

〝善い行いは幸せを生み、放埒な振る舞いはやがて身を責める。

自身に現れる果報の一切は、

自身の行為によって生み出されたもの〟

と因果の道理を勧め、身を慎み、徳を求める素晴らしさを説くと、

静かに聞いていた宮廷の女性たちからは、

好もしい雰囲気が感じ取れた。

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話し終えると、すぐさま500枚もの豪奢な衣装が届けられた。

聞けば、つい先ほど王から与えられた着物で、

一枚が千金の値のする高価なもの。

阿難の説法に感銘を受けた侍女たちが、

我先にと善根を求めたのだ。

彼女らの尊志を、彼はありがたく受け取った。

 

次の日、食事の際に女たちが以前の服を

まとっているのを見た王は、

「昨日、皆に与えた新しい衣装はどうしたのじゃ?」

と尋ねると、すべて阿難に施したという。

仏弟子たちが決められた数しか着衣を持たぬのを知っていた王は、

500枚もの着物をどうするのか、

阿難を呼んで問いただした。

「確かに世尊は、私たちの衣服の数を決めておられますが、

衣類の施しを受けてはならない、ということではありません」

しかし、そんなにたくさんの衣装を布施されて、

どうするのだ?

王は重ねて問うた。

「法友の中には、破れたり古くなったりした衣しか

持たぬ者も多くありますので、彼らに分けたいと思います」

「で、彼らの古くなった服はどうする?」

「それぞれ、下着にいたします」

「今までの下着は?」

「寝る時の敷布に作り直します」

よどみなく阿難は答える。王はさらに尋ねた。

「ではそれまでの敷布はどうするのじゃ?」

「枕の布にいたします」

「その枕の布は何に?」

「足ふきに」

「使えなくなった足ふきは?」

「雑巾として使います」

「さすがに古びた雑巾は捨てるのじゃろうのう?」

「いいえ。細かく切って泥と合わせ、家を造る時、

壁や床に塗るのです。わが師・お釈迦さまは、

布1枚に至るまで仏法領のものだから、

決して粗末にしてはならぬと仰せです。

すべてはこの世に生まれ出た本懐を果たすに

大切なものだからです」

一枚の布も無駄にせぬ仏弟子たちの心がけと、

徹底した節約に、王は顔を紅潮させて感心し、

しきりに阿難を称賛したという

 

仏法領とは、私たちが生きる目的を果たすために

必要なもの一切をいう。

最も尊い目的に使うことで、そのものの真価が発揮される。

すべてを大切に、有効に生かす心がけを、

仏法は教えられているのである。


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善いことをすると腹が立つ [人間の実相]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         善いことをすると腹が立つ

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる

      (悲嘆述懐和讃)

弥陀に救われても悪は少しもやまない。

ヘビやサソリのような恐ろしいイヤらしい心で一杯だ。

こんな心に汚染されている善行だから、

雑毒の善、ウソ偽りの行といわれて当然だ

 

このご和讃は、阿弥陀仏の救いにあって知らされた自己の実相を

告白なされた親鸞聖人のお言葉です。

前号は、前半の意味をお話ししましたので、

今回は後半を学びましょう。

 

親鸞聖人は、「修行も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」

と仰っています。

「修善も雑毒」とは、本当の自己の姿を知らされられた聖人が、

「親鸞のやる善には毒が雑(ま)じっている」と懺悔なさっている

お言葉です。

ここで「毒の雑じった善」と聖人が言われているのは、

どんなことなのでしょうか。

 

●毒の雑じった施しは頂くまい

 

こんな話があります。

 

お釈迦さまが、ある家へ乞食(こじき)の姿で現れ、

一飯を乞われた。

「私の家には、夫婦の食べるものしか炊いていない」

出てきた主婦は冷たくあしらう。

「それでは、お茶を一杯、恵んでくださいませんか」

「乞食が、お茶などもったいない。水で上等だ」

「それでは私は動けないので、水を一杯、くんでくださいませんか」

「乞食の分際で、他人を使うとは何事だ。

前の川に水はいくらでも流れているから自分で飲め」

 

釈迦は、忽然と姿を現し、

「何と無慈悲な人だろう。一飯を恵んでくれたら、

この鉄鉢(てつぱつ)に金を一杯上げるはずだった。

お茶を恵んでくれたら、銀を一杯上げるはずだった。

水をくんでくれる親切があったら、

錫を一杯上げるつもりであったが、何の親切心もない。

それでは幸福は報うてはきませんよ」。

「ああ、あなたはお釈迦さまでしたか。

差し上げます、差し上げます」

「いやいや、利益を目当てにする施しには、

毒が雑じっているから頂かない」

と、仰って帰られた。

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帰宅して、一部始終を聞いた主人は、

「おまえはばかなやつだ。なぜ一杯のメシをやらなかったのだ。

金が一杯もらえたのに」

「それが分かっていれば、十杯でもやりますよ」

「よしそれなら、俺が金と換えてもらおう」

と、お釈迦さまの後を追った。

へとへとになったところで、道が左右に分かれている。

ちょうど、道端にうずくまっている乞食がいるので、

「乞食、ここをお釈迦さまが、お通りにならなかったか」。

「ちっとも知りませんが・・・私は空腹で動けません。

何か食べ物を恵んでくださいませんか」

「俺は、おまえに恵みに来たのではない。

金を得るために来たのだ」

その時、釈迦は変身なされ、

「妻も妻なら夫も夫、憐れむ心のない者は恵まれないのだ」。

「あなたがお釈迦さまでしたか。あなたに差し上げるために

来たのです」

「いいえ、名誉や利益のための施しには、毒が雑じっているから

頂くまい」

厳然と仰って、釈迦は立ち去られた。

施しは尊い布施行ではあり善ですが、名誉や利益が目当ての施しは、

「これだけの物をあなたに上げますから、代金を下さい」

と言っている〝商売〟と同じです。

このようなあさましい心でやる善に「毒が雑じっている」と

言われれば、誰でも納得が行くでしょう。

では、「何の代価も要りません」と、無償の親切であれば、

善に毒が雑じることはないのでしょうか。

 

●三つのことを忘れるようにしよう

 

この疑問に答える前に、仏教で本当の親切とはどういうものか、

知っていただかねばなりません。

仏教では、三輪空(さんりんくう)ができなければ、

本当の親切とはいえない、と教えられます。

三輪空とは、

 

○私が(施者)

○誰々に(受者)

○何々を(施物)

 

この三つを忘れる、ということです。

「私が与えてやった」「あの人にしてやった」

「こんないい物を上げたのだ」という心は、

「だから、きっとあの人から、私に、

これくらいのものが返ってくるだろう」と

見返りを期待する心となって表れます。

 

「一休の再来」と騒がれた九州博多の禅僧・仙がいが、

ある冬の日、橋の上を通ると、河原で乞食が

ブルブル震えていた。

かわいそうに思った仙がいは自分の着衣を脱いで投げ与えた。

それを着た乞食、ジロッと一目見ただけで何の言葉もない。

仙がい、たまりかねて、思わず声をかける。

「どうだ、少しは暖かくなったかな」

聞いた乞食、仙がいに

「着れば暖かくなるに決まっている。

分かり切ったことをなぜ聞くか。

オレは見てのとおり乞食の身、

施したくても施す物がない。

おまえは施しのできる身分を喜べよ」。

即座の返答に、見返りを待つ心を見透かされ、

仙がいは深く恥じ入ったという。

 

連休中、旅先で買ってきた土産のお菓子を、

会社の同僚数名に配る。

「わぁ、ありがとう!おいしいね」

と言われれば、〝買ってきた甲斐があった〟と喜べるが、

一言の礼もなく食べる同僚は、面白くない心が噴き上がる。

「人気のお菓子で、けっこう並んで買ったんだ」

と苦労話をしてみせるが、それでも何もないと

〝二度と買ってきてやるか!〟と憤慨する。

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親切したのに、お礼や感謝の言葉がないと、途端に腹が立つ。

善に努めながら「オレはこれだけやっている」と自負し、

評価や見返りを期待する、その心こそが毒であり、

仏眼からは鼻持ちならぬ臭気が漂っていると説かれるのです。

 

しかも見返りを期待する心は、大きな善になればなるほど

膨らみます。

友人に100円を上げて、次に会った時、礼がなくても

「ああ、忘れているな」で済むでしょう。

ところが、困っている相手を見かねて100万円を施し、

次に顔を合わせて一言の礼もなかったらどうでしょう。

心穏やかでいられるでしょうか。

 

大善ほど猛毒を含む人間の善の実態を、

龍樹菩薩はこのように喝破されています。

 

四十里四方の池に張り詰めた氷の上に、

二升や三升の熱湯をかけても、

翌日はそこは、膨れ上がっている (大智度論)

 

親鸞聖人が、阿弥陀仏に救い摂られ、知らされたのは、

どこどこまでいっても真実の善のできない

雑毒虚仮の人間の実相でした。

 

●弥陀の光明に照らされ、知らされる私の姿

 

聖人ご自身が、9歳から29歳までの20年間、

比叡山で猛烈な修行に打ち込まれたのは、

仏教の善の実践にほかなりませんでした。

そんな聖人が、29歳で法然上人にお会いし、

阿弥陀仏の本願に救い摂られて知らされた自己の真実が、

主著『教行信証』に次のように記されています。

 

一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、

瞋憎(しんぞう)の心常に能く法財を焼く。

急作・急修して頭燃を灸(はら)うが如くすれども、

衆(すべ)て「雑毒・雑修の善」と名け、

また「虚仮・諂偽(てんぎ)の行」と名く。

「真実の業」と名けざるなり    (教行信証

 

いつも己の損得ばかりを考えて欲や怒り憎しみに果てしがない。

こんな欲や怒り妬みそねみに染まり切っている心で、

頭の火をもみ消すように善に励んでも、皆、

偽善であり、うそっぱちであるから、「雑毒・雑修の善」

「虚仮・諂偽の行」といわれ、

「真実の善」とはいわれないのである

 

「一切凡小」とありますから、

これは親鸞聖人だけのことではありません。

阿弥陀仏がとうの昔に見抜かれた十方衆生(すべての人)の実態を、

聖人は同じく『教行信証』に次のようにも仰っています。

 

一切の群生海、無始より已来(このかた)、

乃至(ないし)今日・今時に至るまで、

穢悪(えあく)汚染にして清浄の心無く、

虚仮諂偽にして真実の心無し

 

すべての人間は、遠い過去から今日まで、

邪悪に汚染されて清らかな心はなく、

そらごとたわごとで、真実の心は全くない

 

欲や怒り、愚痴などの煩悩に汚染されて真実の心の

全くない十方衆生(すべての人)の善は、

真実の善ではないから、「雑毒の善」とか

「虚仮の行」と言われるのです。

 

親鸞聖人が冒頭のご和讃で、

「悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる」

と仰っているのは、一人親鸞聖人のみならず、

十方衆生(すべての人)の実態なのです。

 

しかしここで、

「どうせ人間には雑毒の善しかできないのなら、

やっても意味がない。やらないほうがいい」

と誤解しては大変。

 

仏眼からは人間の行う善は虚仮雑毒ですが、

行為そのものは善行ですから、「善因善果 悪因悪果 自因自果」

の因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が必ず現れます。

どうせ雑毒だからと開き直って自堕落な生活をしていたら、

悲惨な人生になるのは当然のことです。

 

親鸞聖人が自己の全てを「雑毒虚仮」と嘆かれたのは、

阿弥陀仏の光明に照らされ知らされた真実の自己(実機)なのです。

 

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ

               (悲嘆述懐和讃)

少しぐらいは、他人を哀れみ、悲しみ、

助ける心があるように思っていたが、

とんでもない錯覚だった。

親鸞は、慈悲のカケラもなかったのだ

 

弥陀に救われ、自己の真実に徹底しなければ、

決して分からぬ痛み嘆きに違いありません。

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続ける大切さ~最大の弱点はアキラメ [ブッダと仏弟子の物語]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

    続ける大切さ

      最大の弱点はアキラメ

 

大切な夢を持ち、実現に向けて努力していても、

長続きせず〝ああ、なんて自分は意志が弱いんだ〟

と反省する人も多いでしょう。

信念を貫いて成功を手にしたいのに、

なぜ挫折してしまうのか。

「続ける大切さ」について、今月も考えてみましょう。

 

ある晩、ネズミが桶の中に落ちた。

跳び上がって出ようと、大いに努力したが、

桶が深くて無理だった。

そこで今度は、桶の側を食い破って出ようとかじり始めたが、

側の木は厚くて、硬くて食い破れそうもない。

慌てたネズミは、さらに場所を変えてかじるが、

なかなか穴は開かず、また次の場所へ移った。

明け方近く、さんざん報われぬ努力をしたネズミは疲れ果て、

むなしく死んでいった。

初めにかじり始めた箇所を、最後までかじり続けていれば、

桶の側の板に、通り抜ける穴ができたものを。

 

このネズミのように、幾度か失敗を重ねると信念が揺らいでしまい、

仕事を転々と変えていく人があります。

そんな人は、到底、成功できないと、

発明王・エジソンはこう言っています。

私たちの最大の弱点は諦めることにある

中途で断念してしまえば、その先には決して行けないからです。

大切なのは、目的を見据え、いかに努力を続けるか。

たとえ、思いどおりに事が進まなくても、

エジソンの言うように、

「失敗なんかしちゃいない。うまくいかない方法を見つけただけ」

「失敗すればするほど、我々は成功に近づいている」

と考えれば元気も出るし、事実、そのとおりなのですから、

挫折することは要りません。

 

●仏弟子

  シュリハンドクの20年

 

自分の力不足を自覚したら、善き師、友、環境を求めて努力し、

成功に向かうこともできます。

ある仏弟子の実例を聞きましょう。

 

お釈迦さまの十大弟子の一人シュリハンドクは、

自分の名前も覚えられぬ生来の馬鹿だった。

優秀な兄は愛想を尽かし、彼を家から追い出した。

門外で泣くハンドクに、

「なぜ、そんなに悲しむのか」。

釈尊(お釈迦さま)がお尋ねになると、

ハンドクは正直に一切を告白し、

どうして自分はこんな馬鹿に生まれたのかと、

さめざめと泣いた。

悲しむ必要はない。おまえは自分の愚かさを知っている。

世の中には賢いと思っている愚か者が多い。

愚かさを知ることは、最もさとりに近いのだ

お釈迦さまは優しく慰め、一本のほうきと

「塵を払わん、垢を除かん」の聖語を授けられた。

シュリハンドクは清掃しながら、必死に覚えようとしたが、

「塵を払わん」を覚えると、

「垢を除かん」を忘れ、

「垢を除かん」を覚えると、

「塵を払わん」を忘れた。

しかし彼は、それを20年続けた。

その間、一度だけ釈尊から褒められたことがある。

おまえは何年掃除しても上達しないが、

それに腐らずよく続けている。

上達も大切だが、根気と継続はもっと大事だ。

そこが他の弟子に見られぬ、そなたの殊勝な点だ

彼のひたむきな精進を、お釈迦さまは評価せられたのだ。

やがてシュリハンドクは、チリやホコリは、

あると思っている所ばかりにあるのではなく、

〝こんな所にあるものか〟と思っている所に

意外にあるものだと知った。そして、

「オレは愚かだと思っていたが、オレの気づかぬところに、

どれだけオレの愚かさがあるか分かったものではない」

と驚いた。

ついに彼に、阿羅漢のさとりが開けたのである。

 

生来、能力が劣っていたシュリハンドクも、

釈尊という明師に会い、最高無上の仏法に導かれ、

よく長期の努力精進に耐えて、さとりを開くことができたのです。


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