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ご恩に生かされた輝く人生 [恩徳讃]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
    ご恩に生かされた輝く人生

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

      (親鸞聖人・恩徳讃

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報いきれない。

その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、

骨を砕いても済みませぬ

 

●ご恩・感謝は忘れがち、不平・不満は思いがち

 

今月も親鸞聖人の「恩徳讃」についてお話いたします。

阿弥陀如来と師主知識への報恩の情にあふれる「恩徳讃」

しかし、私たちは〝ご恩・感謝は忘れがち、

不平・不満は思いがち〟になってはいないでしょうか。

中国に、「井戸水を飲む時、掘った人のことを忘れるな」

ということわざがあります。

掘る時は協力しないくせに、水が出たら我先に使い、

不都合が出れば文句をいう。

そんな人間は不幸であり、掘ってくれた人に

感謝しながら飲む人は幸せです。

今日なら水道水。

蛇口をひねれば水が出ますが、

そうなるまでには数々の手間暇がかかっています。

貯水池を造り、家庭まで届ける水道管を

張り巡らさねばならなかったのです。

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何事もそう。スーッと車で通り抜けるトンネルも、

もともとは険しい山を歩いて越えねばならなかった。

その山を貫通させるにはどれだけの時間と労力が

かかったことでしょうか。

高度成長期、関西地域は電力不足で停電が頻発していた。

そこで建設されたのが今日なお日本一の高さを誇る

黒部ダム(富山県)。

工事は困難を極め、殉職者は171名に及んだ。

電球はついて当然と思いがちですが、

決して当たり前ではないのです。

春は、入学、入社の季節。

慣れないことが多く大変だと思いますが、

そんな時、まぶたを閉じ、静かに創業者の苦労を

想像してみるのもいいでしょう。

教えてもらったことを実行するのも難しいのに、

ゼロから学校や会社を作り上げることは、

いかに困難な事業であっただろうか、と。

このような心で改めて周りを見渡せば、

当たり前のことは一つもなく、

していただいていることばかりです。

なのに、やったことに恩を着せ、

受けたご恩は当然と流してしまう。

そんな人には、喜びもなければ感謝もありません。

最も不幸な人でしょう。

 

●私たちが仏法を聞けるのは、どなたのおかげ?

 

今日、仏教を老若男女ともに聞かせていただけるのも

決して当たり前ではありません。

昔、仏教といえば山に入って修行ができる

屈強な男性のためのものでした。

比叡山は女人禁制、年配の方や身体が不自由な人に

厳しい修行は務まりません。

つまり、日本で広まっていた仏教は、

大衆や女性のための教えではなかったのです。

ところが親鸞聖人は、世界で初めて僧侶の身で

公然と「肉食妻帯」を断行なされ、男も女も、

ありのままで平等に救われる阿弥陀仏の救いこそが

真実の仏教だと身をもって明らかにしてくださいました。

当時、肉食妻帯は僧侶には固く禁じられていたから、

親鸞聖人は、「色坊主」「破壊坊主」「仏教の怨敵」

「仏教を破壊する悪魔」と罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々を浴び、

石を投げられ、槍を突きつけられ、八方総攻撃を受けられました。

それでもなお「みなみな仏縁あれかし」と念じられ、

生涯、信念を貫いてくだされたからこそ、

今日、老若男女ひとしく弥陀の本願を聞かせていただけるのです。

「とどろき仏教教室」に参加されている方から

こんな話しを聞かせてもらいました。

その女性Nさんの夫は、真言宗の僧侶。

勉強会の内容が素晴らしいので、

食事中そっと主人にこう告げました。

「実はね、私、最近、親鸞さんのお話聞いているの」

するとご主人、

「なんだ、結婚した堕落坊主の話を聞いているのか」。

そう言って鶏肉を頬張った。

「妻の目の前でそんなこと言うなんて、

わが身知らずもここまでくるとねえ」

と私に話してくれたNさんは、抑えきれずに笑ったあと、

正面から私を見て、

「今でさえそんなことを言われるのですから、

親鸞さまは本当に大変だったのでしょうね」

と目を潤ませました。

死刑、流刑も覚悟され、すべての人が煩悩あるままで、

この世から絶対の幸福になれると伝え続けられた

親鸞聖人のご恩を決して忘れてはなりません。

ご恩をありがたく感謝する者は成功し、

ご恩を当然と受け流す者は信用を失い、

ご恩を仇で返す者は身を滅ぼすのです。

 

●本光房了顕の決死報恩

 

報恩講に歌われる「如来大悲の恩徳」の「如来」とは、

すべての仏さまの先生である阿弥陀如来のことです。

その阿弥陀如来のお力で「浄土往生間違いなし」と

絶対の幸福に救われた人は、必ず知恩報徳の益に生かされると

親鸞聖人は教えられています。

それは、阿弥陀仏の大恩や、師主知識の洪恩、

有情非情のご恩、有形無形の恵みを知らされ、

報恩に前進せずにはおれない幸せです。

(有情・・・人間や鳥獣など、心を持つ生き物

非情・・・山や川、草木や石など、心を持たないもの

有形無形・・・森羅万象)

釈迦・弥陀の大慈悲によって絶対の幸福(往生一定)になれた。

この広大無辺のご恩に、いかに報じたらよいかと、

聖人90年の生涯は、如来大悲の恩徳に捧げられた

不惜身命の正法宣布であったことは広く知られています。

(不惜身命・・・命懸けのこと

正法宣布・・・広く仏法を伝えること)

 

この知恩報徳を地で行った先哲は多くありますが、

今も感動を与え続けるのは、蓮如上人のお弟子、本光房了顕

殉教でしょう。

時は文明6年、所は蓮如上人北陸布教の拠点、吉崎御坊(福井県)。

この御坊には北陸、近畿、東海はもちろん、

遠くは関東、東北からも親鸞学徒が陸続と群参し

門前市を成す大繁盛でした。

 

ことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、

彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣いたし、

群衆せしむる由、その聞えかくれなし。

これ末代の不思議なり、唯事とも覚えはんべらず

                (御文章一帖目七通)

 

わずか2年余りで、参詣者の宿泊所や民家が200軒余りも立ち並び、

虎や狼がすむといわれた寂れた北陸の一漁村が、

見る間に、一大仏法都市に変貌しました。

その繁栄もまた、外道諸宗の者たちの、

妬みやそねみの元となったのです。

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時、まさに乱世。

吉崎御坊焼き討ちのうわさが、しきりに流れていた

文明6年3月28日、吉崎には春の訪れを思わせる強い風が

吹いていた。

その日の夕刻、南大門辺りから、不審な火の手が揚がる。

放火の疑いが強かった。

折からの季節風にあおられて、炎はたちまち9つの宿舎を

なめ尽くし、今やまさに、大本堂に襲いかかる猛火となっていた。

不慮の火災に吉崎御坊は大混乱となった。

その時、蓮如上人は、吉崎御坊の居室で、

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻を拝読されていたが、

「火事だ」の声を聞かれるや、避難の指示を次々になされる。

しかし、強風で火の回りは速い。

吉崎御坊は、たちまち紅蓮の炎に包まれ、

蓮如上人のお部屋にも、刻一刻と猛火は迫っていた。

それでもようやく屋外に抜け出られた蓮如上人

振り返ると、大本堂が火柱になって揺れている。

その時だ。

「ああ・・・しまった!」

突如、蓮如上人がダダダッと燃え上がる吉崎御坊へ向かって、

走り出された。

驚いたお弟子の法敬房が上人の衣の袖に取りすがる。

「上人さま、どうなされたのですか」

「放せ、法敬、放してくれ。蓮如、一生の不覚じゃ」

「なりませぬ。上人さま、気をお静めくださいませ」

「証の巻じゃ。法敬、わしは『教行信証』の経櫃(きょうひつ)

ばかりに気を取られ、机の上に、証の巻を置き忘れてきたのじゃ」

(経櫃・・・お聖教を入れる箱)

「え、上人さま、何と・・・」

臓腑をえぐる上人の叫びに、法敬房搾り出すように、

「し、しかし、この猛火ではとても・・・」。

その時、蓮如上人の前に、一人のお弟子がひざまずく。

「上人さま。この本光房。一命に代えても、

『教行信証』証の巻、お護りいたします。お任せくださいませ!」

言い終わるや、脱兎のごとく火の中に突進した。

返し切れぬ阿弥陀如来と師主知識の恩徳に、

いつも感泣していた本光房了顕であった。
(本光房了顕はすでに阿弥陀仏に救われていたということ)

火の粉かき分け猛火をかいくぐり、かいくぐって、

やっとの思いで蓮如上人のお部屋へたどり着いて見れば

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻は、

いまだ焼けずに机の上にあった。

「あら、有り難や、これぞ如来聖人のご加護・・・」

踊る心を抑えて証の巻を押し頂き、脱出せんと振り向いた時、

雨のごとくに火の粉が降り注ぐ。

辺りはすでに、猛火に包まれ、逃れる所は、もうなかった。

「ああ、わが命、果てるはもとより覚悟のうえ。

されど・・・このご本典だけはお護り申し上げねば・・・

この本光房、お師匠さまとの誓いが立たぬ。

・・・一体どうすれば・・・」

(ご本典・・・『教行信証』のこと)

その時、肩の傷口から流れ落ちる血潮に本光房は気づいた。

「血・・・。そうだ、血だ。血によって、お護り申し上げるのだ。

もったいないが我が腹に、籠もらせたまえ」

滴り落ちる鮮血に一条の光を見た本光房、

その場にどかっと座り込む。

お師匠さま!多生にもお会いできぬお師匠さまに

会わせていただいた本光房、本当に幸せ者でございました。

やがて散りゆく露の命、護法のためなら本望でございます。

お先にお浄土へ・・・失礼いたします・・・。

南無阿弥陀仏・・・

高々念仏称えつつ、腰の懐刀スルリと抜いて、

気合いもろとも腹十文字にかき切り、内蔵深くお聖教を押し込み、

どっとうつぶせになった。

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重く息苦しい夜であった。

必死の消火活動で、明け方、ようやく猛火は収まったが、

至る所にまだチョロチョロとした火と、

きな臭い煙が充満していた。

この有り様では、とても本光房が生きているとは思えない。

どれでも何とか無事であってくれと一縷の望みをかけながら、

煙くゆる焼け跡へ散らばり、「本光房よ!」「了顕!」と、

皆が声を限りに呼び続ける。

だが、あちらこちらにブツブツと余塵(よじん)のはじける

音がするばかり。

その時、

「本光房だ!了顕がここに・・・」

と一人が叫んだ。蓮如上人やお弟子たちが駆けつけると、

果たしてそこに変わり果てた了顕の姿があった。

 

本光房の遺体に優しく手をかけ、蓮如上人がいたわられると、

何かを訴えるように右手で腹を指さしている。

本光房の体を起こした法敬房が驚いた。

「しょ、上人さま。ここのお聖教が・・・」

なんと腹わたえぐって、その中へ、しかと『教行信証』証の巻が

護られている。

おお、本光房、けなげであった・・・

よくぞここまで・・・そなたこそ本光房、まことの仏法者だ。

そなたの選んだ決死の報恩、われら親鸞学徒の鑑じゃ。

永久に全人類の明闇を晴らす、灯炬(とうこ)になるであろう

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あたかも、生ける人に語りかけるような蓮如上人が、

涙ながらに血に染まったお聖教を高々と捧げられると、

一同、感極まって声を合わせ南無阿弥陀仏を唱和した。

かくて吉崎御坊は焼失したが、全人類の根本聖典、

親鸞聖人直筆の『教行信証』六巻は、護り抜かれた。

この時の証の巻は、『血染めの聖教』とも

『腹籠もりのお聖教』とも呼ばれ、今に厳存している。

蓮如上人の元には、本光房了顕のような、

真実を知り真実に生かされた、多くの若き親鸞学徒が参集し、

人類永遠の救済に、立ち上がっていたのである。

 

昿劫多生も値(あ)い難き、弥陀の弘誓に摂取され、

大生命の歓喜を得れば、老若男女賢愚を問わず、

生きる世界は皆同じ、祖師聖人の恩徳讃。

如来大悲の洪恩と、師主知識の大恩は、

身を粉にしても足りませぬ、骨砕きても済まぬぞと、

如来広大の恩徳に、微塵の報謝も果たしえぬ、

極悪最下に感泣し、突き進まずにはおれぬのです。

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

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初転法輪(しょてんぽうりん)-----ご布教の始まり [ブッダと仏弟子の物語]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
   初転法輪(しょてんぽうりん)

                 ご布教の始まり

 

「おい、大変だ。太子がこちらに向かってくるぞ。

あの堕落した悉達多(しっだるた)が・・・」

その声に、ほかの4人も瞑想を中断してその方角を眺めた。

遠く、ゆっくりと、人影が大きくなってくる。

紛れもなくそれは、彼らが仕えていた

釈迦族の太子・悉達多であった。

「一体、何をしに来たのだろう?」

仲間の一人の声に、ムキになって

橋陳如(きょうちんにょ)は返した。

「ともかく彼は苦行を棄てて堕落したのだ。

あんな者を相手にしてはならない」

5人の修行者は車座になり、修行のフリをしてかかわらぬように

示し合わせた。

彼らがこれほどまでに太子を避ける訳は、こうである。

 

数週間前まで、5人は太子と苦行をともにしていた。

もともと橋陳如たちは、太子の身の回りの世話を、

と父・浄飯王(じょうぼんのう)によって遣わされた臣下であった。

故郷のカピラ城を捨て、真理を求めて修行を始められた太子を、

父王は捨ておけなかったからである。

だが橋陳如らの来訪を、太子は拒絶された。

身の回りの世話などされては修行にならぬ、

というのが理由だった。

そこで彼らは、「ともに修行いたしますので、

どうかおそばにいさせてください」と申し出、

ようやく起居をともにすることを許された。

それは初めこそ王の命を守るための出家であったが、

5人はやがて、太子の気高き求道心に引かれ始める。

ことに橋陳如は、太子の際だった苦行を目の当たりにして、

心から真理を求めるようになっていった。

 

修行を始めてから、6年がたとうとしていたある日のこと。

太子はふと、何も言わずに近くを流れるニレゼン河へ向かって

歩き始めた。

あとを追った5人はわが目を疑った。

太子が河で沐浴(もくよく)し、黙々と身を清めているではないか。
のみならず、あろうことか、女から乳粥の布施を受けたのだ。

それは苦行の断念を意味している。

橋陳如たちは、口々に太子をののしった。

「彼は弱い心に負け、苦行を棄てた。

悉達多は堕落したんだ」

5人はすぐに太子から離れてその場を去り、

自分たちの修行を続けるため、

ここ波羅奈国(ばらなこく)の鹿野苑(ろくやおん)へと

やってきたのである。

 

その悉達多が、こちらへ向かってくる。

5人は気配を感じながらも、視線を向けぬよう努めた。

太子の様子が別れる前と異なっているのは

遠目にも分かっていた。

彼らは太子の変化を確かめたくなって、そわそわしだした。

互いに、さっき交わした約束などもう守っておれない気持ちになり、

続けざまに、その尊い姿を拝したのである。

5人の修行者は知った。

ーー悉達多は堕落などしていない。

太子は大覚を成就なされたのだ。

「せ・・・世尊!!」

一斉に叫びながら御許に駆け寄り、ある者は仏陀を迎え、

ある者は衣鉢をとり、ある者は座を設け、ある者は洗足水をもって

仏足を礼拝した。

仏陀の威徳に、皆、ぬかずいたのである。

「我は一切の知者となれり。一切の勝者になれり。

我ついに永遠の目的を成就せり。

我はそなたたちに無上の法を授けに来た。

ここに真理を説こうぞ。よく聞くがよい」

これが地球上における、仏陀の初めての説法である。

初転法輪といい、人々の荒れ果てた心の大地を、

平らかに耕す法輪を転ぜられた初の法えんであった。

釈尊、45年間のご布教が、ここに始まったのである。


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釈迦が教えられた「はたらく」真の意味 [ブッダと仏弟子の物語]

「私は心田を耕す労働者」

    釈迦が教えられた「はたらく」真の意味

 

昨今は「働く」意味が広く世に問われています。

人生の大半を働いて過ごしますから、

重要な問いですね。

これを仏教ではどう教えているのか。

お釈迦さま在世中のエピソードから聞きましょう。

 

ある日、お釈迦さまがお弟子たちを連れて

湖畔を通りかかられると、大勢の農民が仕事を終えて、

食事に取りかかっていた。

お釈迦さまが彼らの前に立たれると、

その中の頭(かしら)らしい一人の男が、

「よく、あなたたちは来なさるね。

どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、

ブラブラ乞食(こつじき)したり、

訳の分からぬ説法などして歩かないで、

ひとつ自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したら。

私らは難しいことは言わないが、自分で働いて、

自分でちゃんと食っていますよ」

と、からかうように言った。

その時、お釈迦さまは従容(しょうよう)として

答えられている。

私もまた、田畑を耕し種をまき、

実りを刈り取っている労働者です

「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、

どこに種をまいておられるのか」

反問してくる農民に、お釈迦さまは、

私は、忍辱という牛と、精進という鋤を持って、

人々の心田を耕して真の幸福になる種をまいている」。

毅然と仰っている。

(忍辱・・・忍耐のこと、精進・・・努力のこと)

 

「働く」とは「はたをらくにする」ということで、

多くの人々を幸福にすること。

苦しみ悩みを解決する道を教え、

真の幸福に導くのが「はたらく」ことなのです。

米や野菜、自動車、電化製品などの生産に従事し、

物質的に人々を幸福にすることも大切ですが、

それのみが働くことではないでしょう。

大きな体や豊かな力を持つ力士やスポーツ選手が、

米や野菜の生産に従事せずとも、

多くの愛好者を楽しませ、

明日の労働への活力を与えているとして、

一般労働者よりも多くの報酬を受けています。

彼らが多くの人々を楽しませ、

「はたをらくにしている」からでしょう。

しかし、多くの人に喜びや活力を与えていても、

それは一時的なもので、永続性のある喜びではありません。

仏教では、一切の人の苦しみの根元を断ち切り、

永遠の幸福を与える無二の教法、阿弥陀仏の本願を伝えることが、

真に「はたをらくにする」ことであると示されています。

「はたらく」意味を自覚し、人々に真の楽を与えることが、

本当に「はたらく」ことなのだと、

お釈迦さまはこのエピソードで教えられているのです。

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仏弟子・アナリツの深い反省 [ブッダと仏弟子の物語]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)
「今後、決して眠りません」

    仏弟子・アナリツの深い反省

 

誰にでも失敗や過ちはあるもの。

特に重いミスを犯した時に大切なのは、

深く反省し、向上することでしょう。

お釈迦さまのご説法中に居眠りしてしまった

仏弟子・アナリツは、心を改め、

後に「釈迦十大弟子」といわれるまでに生まれ変わりました。

どんなことがあったのでしょう。

 

こともあろうにお釈迦さまの説法中、

弟子のアナリツが居眠りを始めた。

説法後、呼ばれて釈迦は静かに言われる。

「何が目的で仏道を求めているのか」

「はい。生死の一大事の解決のためでございます」

「そなたは良家の出身ながら道心堅固、

どうして、居眠りなどしたのか」

釈迦の慈言に決然と、アナリツは誓った。

「今後、目がただれようとも眠りはいたしません。

どうか、お許しください」

 

その日から、彼の熱烈な修行は暁に及んでも、

決して眠ることはなかった。

続いた不眠で、目を患った彼に、

「琴の糸のように張るべき時は張り、

緩むべき時は緩めねばならぬ。

精進も度が過ぎると後悔する。

怠けると煩悩が起きる。中道を選ぶがよい」

のお釈迦さまのお諭しや、

「もう少し、眠れば治る」

の侍医の強い勧めもあったが、

彼は釈迦との誓いを貫き徹し、ついに両眼を失明した。

同時にしかし、深遠な心眼が開け、釈迦十大弟子の一人、

アナリツ尊者となっている。

(心眼が開ける・・・阿弥陀仏に救われて、生死の一大事を解決したということ)

まこと不惜身命である。

「決して眠らない」と決意し、失明するまで貫いた

アナリツの行動は、深い反省の大切さを教えています。

 

アナリツがある時、衣の綻びを繕おうとして、

針に糸を通そうとするがかなわない。

そこで彼は、周囲に呼びかけた。

「誰か、善を求めようと思う人は、

この針に糸を通してくだされ」

その時、

「ぜひ、私にさせてもらいたい」

と申し出られたのは、ほかならぬお釈迦さまだった。

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アナリツは、その声に驚いて、

「世尊、全ての善と徳を成就なされた方ではありませんか」。

おそれて言うと、釈迦は、

「仏のさとりを開けばとて、

小善をおろそかにしてよい道理がない。

世の中で、善を求めること私に優(すぐ)る者はない」

と答えられたという。


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絶対の幸福にする無限のお力

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
      絶対の幸福にする無限のお力

 

本願の名号は正定の業なり

阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、

すべての人を絶対の幸福に救うお働きがある

 

親鸞聖人の教えはただ一つ、「なぜ生きる」の答えでありました。

私たちは何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか、

苦しくともなぜ生きねばならぬのか。

誰もが知りたいこの難問に、

ハッキリ答えられたのが親鸞聖人です。

その親鸞聖人90年の教えを一言で表された言葉が

平生業成」です。

 

「平生」とは、生きている〝今〟のこと。

 

「業」とは、人生の大事業。

〝大事業〟と聞くと、秀吉の天下統一、

ナポレオンやチンギス・ハンのやったこと、

オリンピックの開催などを思い浮かべる人が多いかもしれません。

オリンピック事業の経費が何千億円、

来場者数が一千万人などと聞くと

「大事業だなぁ」と思えますが、

一万年もたてば、そこでオリンピックがあったことは

誰が知るでしょう。

恐竜展で巨大生物の化石を見ると、

「こんな生物が地球上をのさぼり歩いていたのか」

と驚かされます。そんな恐竜たちが一億五千万年もの間、

地上に君臨していたというのですから、

年表に載る数千年の歴史的事業も、何億年の時の流れを

前にしては、一瞬の夢の戯れにすぎません。

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親鸞聖人が「人生の大事業」と言われるのは、

時を経れば夢幻のごとく消え去ってしまうものではない。

たとえ何万年、何億年たとうとも変わらぬ、重い、

万人共通の「大事業」を言われているのです。

「そんな大事業が、私にあるのか」

という万人の問いに、親鸞聖人は

「ある。それは絶対の幸福になることだ」

と断言されています。

 

●やがて死ぬのになぜ生きる

 

生きる目的は幸福だとパスカルも言うように、

古今東西、人類は幸せを求めて生きています。

学生のねじり鉢巻きの受験勉強も、

惚れた異性にプロポーズしたり、

ストレスに耐えて働くのも、幸せを求めているのは、

皆共通しています。

政治も、経済も、医学も、科学も、人間の営み一切は、

「幸福」の二字に向かっています。

 

ところが、有為転変は世の習い、私たちが追い求める喜びは、

やがて苦しみ悲しみに変質し、崩壊、

烏有(うゆう)に帰することさえある。

(烏有に帰する・・・無くなってしまう)


「今年初め、主人を亡くしました。

心にぽっかり穴が開いた感じがします。

幸せだった分、悲しみが大きいです。

今からどうやって生きていけばいいのか。

今マンションで独り暮らしとなり、夜が来るのがさみしいです。

頑張れ、頑張れと言われても、

もういいや、と思うこともあります」

「ローンで家を買ったが、2年前に離婚。

借金を全て背負わされ、妻は子供を連れて出て行った。

この先、どう生きていけばいいのか途方に暮れている。

週末は独りぼっちで誰も話す相手がいない」

瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、

薄氷を踏むように不安がつきまとう。

たとえしばらく続いても、有限の時の終わりに、

全てが朽ち果てる。

 

蓮如上人はそれを、こう警鐘乱打されています。

 

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

              (御文章一帖目十一通)

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。

財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、

あて力にしていても、次の世に旅立つ時は、

妻も子供も、連れになってはくれない。

この世のもの何一つ、持ってはいけないのだ。

死出の山路は、ただ一人。

丸裸で一体、どこへ行くのだろうか

 

若さと美貌を誇れども続かず、一家団らんも今しばし、

やがて全てに見放され、この世を去る時が、

どんな人にも訪れます。

そんな結末が百パーセント確定していながら、

なぜ苦しくても生きねばならぬのでしょうか。

これほど、切実な命題は他にない。

最も解明を急がねばならぬ〝大事業〟に違いありません。

 

終活で、延命治療や死に場所、遺言書や財産分与、

葬儀や墓をどうするか、といったことばかりが問題にされますが、

死に直面しても変わらぬ絶対の幸福になるという〝大事業〟を

成し遂げることこそ、真の〝終活〟でありましょう。

 

「平生業成」の「成」とは、「完成」「達成」のこと。

生きている平生に、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、

往生一定の絶対の幸福に成り、多生の目的を達成することです。

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●なぜ絶対の幸福になれるのか

 

こんなすごい絶対の幸福があると聞けば、

「何が起きても崩れない絶対の幸福?

本当にそんな幸福になれるのか?」

と思われるでしょう。

 

このような私たちの不審にズバリ答えられたのが、

冒頭の親鸞聖人のお言葉です。

 

本願の名号は正定の業なり正信偈

 

最初の「本願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

仏教を説かれたお釈迦さまは、

「私(釈迦)が仏教を説く目的は、

阿弥陀仏の本願一つを伝えるためである」

と仰せです。

世間では「釈迦如来も阿弥陀如来も、結局同じ仏のことだ」

と言う人がありますが、もし釈迦も弥陀も同じ仏であれば、

お釈迦さまが、

「私(釈迦)は、阿弥陀如来という仏さまの本願を伝えるために

仏教を説いているんだよ」

と仰っているのはおかしなことになります。

お釈迦さまと、阿弥陀仏とは、全く異なる仏です。

その違いを知らないと、仏教も親鸞聖人のみ教えも

絶対に分かりません。

 

お釈迦さまは『大無量寿経』に、

 

我(釈迦)無量寿仏(阿弥陀仏)の

光明威神の巍々(ぎぎ)として

殊玅(しゅみょう)なるを説かんに、

昼夜一劫すとも、なお未だ尽くすこと能(あた)わず

 

と、弥陀のお力の素晴らしさは、釈迦の大雄弁をもってしても

説き尽くせないことを説示されています。

 

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のあらゆる諸仏がことごとく、

弥陀の偉大なるお力を褒めたたえていることを、

同じく『大無量寿経』に、次のように説かれています。

 

我(釈迦)今その光明を称するのみにあらず、

一切の諸仏・声門・縁覚・諸菩薩衆も、

ことごとく嘆誉したまうこと、またまたかくの如し

                 (大無量寿経

 

なぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し、礼拝されるのか。

その理由を釈迦は『般舟経』に明らかにされています。

 

三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚

(三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて、等正覚に成る)

              (般舟経

 

すべての仏(三世諸仏)は、

阿弥陀仏のお力によって(念弥陀三昧)、

仏(等正覚)になったのです。

これは一切の諸仏(大日如来や薬師如来をはじめ釈迦も)は、

最後は阿弥陀仏のお力によって仏になったということですから、

あらゆる仏が、阿弥陀仏を本師本仏(師の仏)とあがめるのは

当然のことなのです。

 

その弥陀がなされているお約束を『正信偈』に

親鸞聖人は「本願」といわれています。

大宇宙の仏方にもそれぞれ本願がありますが、

「本願」といえば「阿弥陀仏の本願」のことになるのは、

弥陀の本願が他の仏の本願にズバ抜けて、

尊く素晴らしいからです。

 

では、いかなるお約束を、弥陀はなされているのでしょうか。

 

どんな人をも、

平生に絶対の幸福に救い、

必ず極楽浄土に生まれさせる

 

これが弥陀の、命を懸けたお誓いです。

「どんな人をも」と相手を選ばず助けることができるのは、

大宇宙広しといえども阿弥陀仏だけです。

ここに、阿弥陀仏が大宇宙の諸仏の本師本仏たる

ゆえんがあるのです。

 

●南無阿弥陀仏は真実の宝

 

次の「名号」とは、阿弥陀仏が、自らの約束を果たされるために、

兆載永劫のご修行をなされて完成してくだされた

「南無阿弥陀仏」の六字のことです。

これを親鸞聖人は『正信偈』に、

「本願の名号」

〝阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号〟

と言われているのです。

 

他の仏にはとても創ることのできない威神功徳の名号だから、

すべての仏さまが「南無阿弥陀仏」の偉大なるお力を

絶賛されるのです。

親鸞聖人は

「不可称不可説不可思議の功徳」と仰り、

この「南無阿弥陀仏」をまた蓮如上人は

「真実の宝」と言われています。

 

当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏(御一代記聞書)

 

この世に〝宝〟といわれるものはたくさんあります。

高価な宝石や金塊を〝宝〟という人もあれば、

大事に育てている盆栽を〝宝〟にしている人もある。

子供にとっては、お菓子のおまけや、河原で拾った小石も〝宝物〟。愛する夫から昔もらったラブレターを大事にしている

奥さんもあるでしょう。

〝宝〟とは、その人に喜びや満足を与えてくれるものといえます。

 

ところが、その大事な〝宝〟も、いつまでも私に幸福感を

与えてくれるものではありません。

実家の押し入れから、小学時代に集めた牛乳瓶のフタが

たくさん出てきた。

当時は大事な〝宝〟だったが、大人になった今は懐かしい

思い出こそあれ、処分の対象でしかない。

恋人からの指輪も、破局を迎えた途端、

「質屋にでも売ろうかな」に変わる。

先祖代々の家宝の壺も、大災害で一瞬のうちに瓦礫と化す。

85ページの蓮如上人のお言葉にあるように、

たとえどんなに大事にしている宝も、

いよいよ死んでいく時は、

全てこの世に置いていかねばなりません。

私たちが人間に生まれてきたのは、

そんな宝を獲得するためではないのです。

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お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、

「人間に生まれてきた目的は、真実の宝(南無阿弥陀仏)を

獲得(ぎゃくとく)する一つ」と仰せです。

 

「真実」とは、いつでもどこでも変わらないもの。

三世十方を貫き、万人に、変わらぬ無上の喜びを与える宝が

「南無阿弥陀仏」だから、「真実の宝」といわれるのです。

 

そんな真実の宝である南無阿弥陀仏を

弥陀が創られた目的はただ一つ、

私たちに与えて、「信楽(絶対の幸福)」にするためです。

十方衆生(すべての人)を信楽(しんぎょう)に救い、

浄土に往生させることこそが、

弥陀の究極の目的なのです。

 

だからこそ、釈迦仏は弥陀如来の弟子として、

私たちに南無阿弥陀仏の大功徳を受け取らせるために

仏教を説かれたのであり、一切の仏教書も

それ以外に目的はないのだよと、

蓮如上人は次のように明かされています。

 

一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんがためなり       (御文章5帖)

 

私たちは、無上宝珠の名号(南無阿弥陀仏)を、

阿弥陀仏から賜った一念に、絶対の幸福に救われます。

これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

同時に、「絶対の幸福なんてあるのだろうか?」

「そんな幸福になれるんだろうか?」の疑いは、

ツユチリほどもなくなるのです。

絶対他力の弥陀の救いは極めてハッキリいたしますから、

「阿弥陀仏のはたらきをしっかり受け止める」

というような自分の力で受け止めなければならぬものでも

全くありません。    

 

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を弥陀より賜り、

絶対の幸福になられた時、こう仰っています。

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法

              (教行信証総序)

(ああ、阿弥陀仏の本願、まことだった、本当だった)

 

このように私たちが絶対の幸福に救われるのは、

全く南無阿弥陀仏の御名号のお働きによることを

教えられているのが『正信偈』の「本願名号正定業」の

お言葉です。


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幸せの花ひらく「因果の道理」を身につける [因果の道理]

    明日を変える 

      心のタネまき

 

                 幸せの花ひらく

           「因果の法則」を

             身につける

 

「実りある人生に」とは

誰もが願うことですが、

思うようにならないのも人生。

「七転び八起き」といわれても、

なかなか結果が出ないと、

「これも自分の運命か」

「私なんか、どうせダメ」

などとアキラメてしまうことも

少なくないのではないでしょうか

でも、お釈迦さまは

「どんな人も、

アキラメル必要はないのだよ。

人間に生まれてよかった、という

本当の幸福になれるのですよ」

と教えられています。

そのために説かれたのが仏教であり、

その根幹である運命の法則が

「因果の道理」です。

これを知ることで、今から

本当の幸福への道が開かれます。

未来は、自分の手でいくらでも

変わるのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「アキラメル」

     本来は前向きな意味だった!?

 

アキラメルという言葉は今日、消極的な意味で使われていますが、

元は仏教に由来することをご存じでしょうか。

仏教では「諦観(たいかん)」と書き、

「アキラカニミル」と読みます。

「因果の道理」を明らかに見よ、ということです。

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そうすれば、不幸や災難に遭っても、

迷信におびえたり、占いや霊能者にすがったりするような

生き方ではなく、反省すべきポイントをつかんで、

改善、進歩する、すがすがしい道が必ず開けます。

「明らかに見る」が縮まって「アキラメル」となったのですが、

本来、前向きな意味なのです。

その「因果の道理」とは、どんなことなのでしょうか。

 

●運命の法則「因果の道理」は

      仏教の根幹

 

仏教を1本の木に例えると、因果の道理は、「根」であり、

「幹」に当たります。

根がなければ木は枯れ、幹を切れば木は倒れます。

7千巻に上るお釈迦さまの一切経を貫いている教えが、

因果の道理なのです。

 

●「道理」とは変わらぬ真理

 

「道理」とは、三世十方を貫くもの。

「三世十方を貫く」とは、「三世」とは過去世、現在世、

未来世のことで、「いつでも」ということ、

「十方」とは東西南北上下四唯で、「どこでも」ということです。

(四唯・・北西、南西、南東、北東)

いつでも、どこでも変わらない真理を「道理」といわれます。

時代や場所によって異なるものは、道理とはいいません。

地球上だけでなく、たとえ宇宙に飛び出しても間違いないのが

「道理」です。

因果の道理は「道理」ですから、いつの時代、

どこの国の人にも当てはまります。

それは、現代日本の私たちも例外ではありません。

それはどんな法則なのでしょうか?

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●運命には原因がある

 

因果の道理の「因果」とは、「原因」と「結果」のことです。

因果の道理とは「全ての結果には必ず原因がある、

原因なしに起きる結果は万に一つもない」ということです。

例えば飛行機が海に墜落したという結果にも、

必ず原因があります。

原因なしに墜落することはありませんから、

多額の費用がかかっても、機体を引き上げ、原因を調査します。

もちろん原因不明ということはあります。

飛行機が海底深く沈んでしまえば、

墜落の原因を知ることはできないでしょうが、

原因が分からないことと、原因が無いこととは全く異なります。

エンジンが故障したとか、乱気流に巻き込まれたとか、

必ず何か原因があるのです。

この世のこと全て、どんな小さなことにも必ず原因があります。

中には、ほとんどの人が関心を持たない、

どうでもいいこともありますが、

私たちが最も知りたいのは、自分の将来の運命と、

その原因でしょう。

それさえ分かれば、未来の運命を

よいものにすることができるからです。

その運命の原因と結果の関係を教えられたのが、

仏教の「因果の道理」なのです。

 

●「行い」が「運命」を生み出す

 

私たちの運命と、その原因にどのような関係があるのか。

仏教では、こう教えられています。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

善因善果、悪因悪果」とは、

善いタネをまけば、善い結果が現れる。

悪いタネをまけば、悪い結果が現れる

ということです。

植物で例えれば、ダイコンの種をまけばダイコンが、

キュウリの種をまけばキュウリが出てくる。

ダイコンの種をまいてキュウリが生えることも、

キュウリの種をまいてダイコンが出てくることもない。

まいた種と同じものしか生えてはこないのです。

だから、まいたものを知れば何が出てくるか分かるし、

出てきたものを見れば、まいた種も分かります。

ここでお釈迦さまが「因」といわれているのは、

私たちの「行い」のこと。

「果」とは「運命」のことですから、

善い行いは善い運命(幸福)を、悪い行いは

悪い運命(不幸)を生み出す。

善いことをして悪い運命が引き起こることもなければ、

悪いことをしたのに、善い運命が現れることもない。

ですから苦しみを逃れるには、悪い行いをやめ、

幸せになるには、善い行いをすればいいのです。

 

●成功も失敗もすべて「自業自得」

 

最後の「自因自果」とは、

まかぬ種は生えぬ。刈り取らねばならぬ一切は、

自分のまいたものばかり

ということです。

いつまでも寝ていたいのに、起きて仕事に出掛けるのは、

自分が働けばそれだけ収入が得られるし、

サボればクビになるからでしょう。

自分が一生懸命勉強すれば、自分の成績が上がるのであって、

友達が勉強しても自分の成績は上がりません。

毎日、添加物の多い物やお菓子ばかり食べていれば、

体を壊すのは本人で、他人が病気になることはない。

まいたタネは必ず自分に現れます。

これを「自業自得」ともいいます。

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世間では「それは自業自得だ」といえば、

悪い結果ばかりに使われますが、本来は、そうではありません。

善いことにも悪いことにも「自業自得」といえるのです。

善いのも悪いのも、自分に現れる運命は全て自業自得です。

100パーセント自分の行為が生み出したものであり、

それは万に一つも例外はないのだと、

お釈迦さまは教えられています。

ですから、もし悪い結果が起きたなら、

そこにはそれ相応のタネまきがあったからです。

悪いことを人のせいにしていても何も変わりませんが、

悪い結果を引き起こした自分の行いを反省して、

それを改善すれば、必ず結果はよくなるのです。

仏教というと、雨にも負けず、風にも負けず、

何か悪いことが起きても、

何も反応せずに静かに笑っているイメージがあります。

不幸や災難をひたすら堪え忍ぶのみの、アキラメ主義のように

誤解されがちですが、「アキラメル」とは、

本来、仏教から出た言葉。

初めに述べたように「諦観」と書いてアキラカニミルと読み、

〝因果の道理を明らかに見よ〟ということです。

自業自得の因果の道理を諦観すれば、

自分の悪い行いを反省し改善しますから、

無限に進歩向上できるのです。

 

●心で思うことも「行い」!?

 

運命は自分の行いが生み出したもの、

とお話しました。「行い」と聞くと一般に、

身体を動かしたり、口で言うことと思いますが、

それだけでなく、心で思うことも行いだと、

仏教では教えられます。

身体の行いを「身業(しんごう)」、

口の行いを「口業(くごう)」、

そして心の行いを「意業(いごう)」といい、

これを「三業」といわれます。

中でも特に心の行い(意業)を重視します。

なぜなら、言ったり、やったり、

口や身体を動かしているのは心だからです。

心掛けを変えると身体や口の行いが変わるのは、

心が「元」だからです。

心掛けをほんの少し変え、

実行することで毎日が変わっていくのです。

 

●心が変われば、人生が変わる

 

私たちの日常生活の中でも、これは実感できることでしょう。

アメリカ出身の心理学者で、哲学者でもある

ウィリアム・ジェームズは次の言葉を残しています。

 

心が変われば行動が変わる。

行動が変われば習慣が変わる。

習慣が変われば人格が変わる。

人格が変われば運命が変わる

 

心掛けの変化は、必ず行動に表れ、善い行動の積み重ねは、

やがて習慣化し、人格となってにじみ出てくるもの。

人格が変われば、その人の人生は全く新しいものに

生まれ変わることでしょう。

 

●「ネタミ」と「感謝」

   心のタネまきの差で運命は大違い

 

心掛けの大切さは、スポーツ界の話題の中にも

見ることができます。

昨年、カヌー日本選手権で優勝した選手が、

ドーピング検査で陽性反応が出て

資格停止処分を受ける問題が起きた。

ところがその後、処分を受けた選手の飲み物の中に、

他の選手が禁止薬物を混入させていたことが発覚。

今度は、この選手が8年間の資格停止処分を

受けることになりました。

「東京オリンピックに出場できないかもしれないという焦り」から、ライバルを引きずり下ろしたいという、

ネタミ、ソネミの心のタネまきが結局、

自らの不幸な結果を生んでしまいました。

 

一方、今年2月に行われた平昌オリンピックのスピードスケートで、

(2018年のとどろきです)

金・銀のメダルを分かち合った小平奈緒選手(日本)と

イ・サンファ選手(韓国)は、猛烈なライバル意識を持ちながらも、互いに尊敬し合っていた。小平選手は

「サンファはいつも親切です。3年前、ソウルのワールドカップで

私が初優勝した時、悔しいはずなのに、

飛行機の出発が迫る中、リンクから空港までのタクシーを

呼んでくれ、お金も出してくれた。

それがすごくうれしかった」

と言い、イ・サンファ選手も

「彼女とレースをして悪い気持ちになったことは

一度もない。彼女のライバルであることを誇りに思う」

と話しています。

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ライバルを「邪魔者」と見てネタむか、

「向上させてくれる恩人」と見て感謝の心で努力するか。

心のタネまきによって、その人に現れる結果、

いわゆる「運命」も180度変わってしまうのです。

 

●家庭や職場から変えよう

 

何事も実行なしでは、結果は現れません。

では、私たちは、どんなことから始めたらいいのでしょうか。

まず、身近なことから着手してみてはどうでしょう。

例えば、家族に対して。

家族と永年一緒にいると、「○○してくれて当たり前」となり、

これが家庭不和の元でもあります。

「夫は給料を運んで当たり前」

「妻は食事を作って当たり前」・・・。

でも、そんな時、「○○してくれてありがとう」と、

心のタネまきを変えてみてはどうでしょう。

日常のささいな出来事にも喜びを感じられるようになります。

職場でも、部下には「○○の仕事をしてくれてありがとう」。

上司には「忙しい中、○○してくださってありがとうございます」

などと心のタネまきを変えると、

人間関係もスムーズになり、仕事も順調に進むようになってきます。「面と向かっては、伝えにくい」という人には、

「間接的に伝える」という方法もあります。

会社の食堂や休憩室などで同僚と会話している時、

「○○さんは、厳しいことも言うけど、

仕事をきっちりする人だよね」などと、

その場にいない人を大いに褒めるのです。

うわさ話は回り回って必ずその人の耳に。

相手からの印象はグッとよくなります。

ただし、心から褒めることが大切です。

小さなタネと軽く見てはいけません。

1粒のモミダネから出る芽は1本でも、

枝分かれしてやがて何百もの実をつけます。

実行が未来を大きく変えるのです。

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●誰も見ていないタネまきでも、

   運命は変わるの?

 

さて、ここまでの話を読んで、

こんな疑問を持つ人もあるのではないでしょうか。

確かに、心のタネまきは大切だろう。

でも、誰も見ていないところでコツコツとタネまきしていても、

結果は来るのだろうか?

正直者は馬鹿を見る、とも言うし」・・・。

確かに、人知れずタネまきを続けることは容易ではありません。

だから何事も続かず、挫折する人が多いのでしょう。

「どうせ私なんか、何をやっても・・・」

とアキラメてしまうのです。

では、お釈迦さまは、私たちのこんな疑問に、

どう答えられているのでしょうか。

 

●行いは、消えない

 

「私たちの行い(業)は、決して消えることはないよ。

残って未来の運命を生み出していくのだ。

だから、他人が見ていようと見ていまいと、

善いタネまきを続けていくことが大切なのだよ」

と教えられているのです。

 

あれを見よ

みやまの桜 咲きにけり

真心つくせ 人しらずとも

 

という古歌もあります。

因果の道理を「明らかに見る」ことで、

アキラメの人生に別れを告げ、元気な「アキラメない心」を

手に入れることができるのです。


因果の道理について、もっと深く知りたい方は、

次の更新までお待ちください。


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真実の自己をハッキリ知らされたその時、往生一定の身となる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

絶対の幸福になった時

   真実の自己と

   弥陀の本願まことが

       同時に知らされる

    「法鏡」が映す私は

       「煩悩具足」

 

「どんな人でも本当の幸福になる道」一つ説かれた

お釈迦さまの教えは、一言でいえば「法鏡」である

前回学びました。

 

「法鏡」とは、本当の私を映し出す鏡のこと。

仏法を聞き、法鏡に映し出された真実の自己と対面した時、

誰もが真実の幸福に救われるのです。

では、真実の自己とはどんなものでしょうか。

それは「煩悩具足の凡夫」であると、親鸞聖人は仰っています。

「凡夫」とは人間のこと。

「すべての人は、煩悩具足である」と

仏教では教えられるのです。

「具足」とは、それでできているということ。

氷は水でできているから、水を取ってしまえばゼロになる。

「すべての人間は、煩悩具足である」とは、

〝すべての人は、煩悩に目鼻つけてあるかせたようなもの。

煩悩の塊である〟とお釈迦さまは教導されているのです。

 

●すべての人は煩悩の塊!?

 

「煩悩」とは私たちを、煩わせ、悩ませるもので、

仏教では108あると教えられます。

大晦日に108、除夜の鐘を突くのは、ここに由来します。

「ああ、今年は煩悩に煩わされ、悩まされ、

大変な一年だったナァ。

来年こそ、そんな苦しみが少しでも無くなってほしい」

と願いを込めて、鐘をゴーンと突くのでしょう。

ところが親鸞聖人は、「煩悩は死ぬまで減りもしない、

ましてやなくなるものではないよ」と仰っています。

108ある「煩悩」の中で特に恐ろしいものを、

「三毒の煩悩」といわれます。

「三毒の煩悩」とは、次の3つです。

○貪欲(欲)

○瞋恚(しんに・怒り)

○愚痴(うらみ・ねたみ・そねみ)

 

●際限のない欲の心

 

最初の「貪欲」とは、底知れない欲の心

お釈迦さまは、これを5つに分けて「五欲」と

教えられています。

 

○食欲・・・食べたい、飲みたいの欲望

○財欲・・・お金や物が欲しい欲望

○色欲・・・男女の欲

○名誉欲・・褒められたい、認められたい欲望

○睡眠欲・・眠たい、ラクがしたい欲望

 

どこまでも深く、果てしなく広がるから、

深い海の色に例えて青で表されます。

地獄の青鬼は「欲」の象徴です。

 

「どうして欲の心が恐ろしいと言われるのか。

なければ生きていけないではないか」

と思う人があるかもしれません。

確かに、食欲が無ければ何も食べたくないし、

睡眠欲がなければ夜も眠くならないから生きていけない。

名誉欲や色欲がなければ、誰から何を思われても

へっちゃらな無神経人間ばかりで

社会生活は成り立たないでしょう。

しかし、欲の苦しみが分からないのは、欲の本性が、

「満たされなければ渇き、満たせば度を増して渇く」

ものであると知らないからです。

ちょうど、海水で喉の渇きが癒やされたように

感ずるのは一瞬で、すぐに渇きが倍増するようなものです。

 

欲の実態を示す、こんな話があります。

法螺貝(ほらがい)は巻き貝の一種ですが、

楽器として山伏などが使うには、

中身をきれいに取り出し加工しなければならない。

とはいえ、無理やりかき出そうとすれば、

胴体がちぎれてきれいな空洞にならないから、

一計を案じる。

酒だるの上に法螺貝をつるすのです。

最初はかたくなに閉じ籠もっていた法螺貝も、

やがて酒の甘いにおいに誘われ少しずつ頭を出す。

注意深かった法螺貝も、やがて殻からニューと胴体を現すと、

自身の重みで伸びすぎて戻れなくなり、

ついに酒だるへボチャンと落下してしまうのです。

「これくらいよかろう。もうちょっと、あとちょっと~」

と手を伸ばし、やがて取り返しのつかない事態に陥るのが、

底知れぬ欲の恐ろしさです。

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お釈迦さまに、次のようなエピソードがあります。

「そこに、毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」

「ハイ、心得ております」

お釈迦さまに従って歩いていた阿難が答える。

その会話を聞いた男が、怖いもの見たさにのぞいてみた。

なんとそこには、まばゆい金銀財宝が、

地中から顔を出しているではないか。

「昔、誰かが埋め隠したのが、大雨で洗い出されたに違いない。

こんな宝を毒蛇と間違うとは、釈迦も、まぬけやろうだ」

男は喜んで持ち帰った。

いっぺんに生活は華美になり、国中の評判になった。

王様の耳に入り、怪しまれ、厳しい詮議を受けて白状した。

かかる大枚の財宝を横領するとは、許せぬ大罪。

死刑に処するが3日間猶予を与える、と、一応帰宅させた。

次第を聞いて家族は、嘆き悲しんだ。

ああ、お釈迦さまは偉い。間違いなく毒蛇だった。

オレがかみ殺されるだけでなく、妻子にまで毒が回り、

大変なことになった。

家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。

財宝が、かえって身を責める道具になった

男は心から懺悔した。

翌日、呼び出しがかかった。

死刑が早まったのかと、青ざめて法廷に出ると、

「おまえの罪は許す」

との大恩赦。理由は、

「おまえが帰る前に床下に家来を忍ばせて、

全てを聞いた。お釈迦さまのお言葉から、おまえの懺悔。

考えてみると、おまえばかりが毒蛇にかまれるのではなかった。

取り上げるオレも、酒食に溺れ、国を破滅させるところだった。

財宝はお釈迦さまに使ってもらおう」

とのことだった。

一部始終を聞かれたお釈迦さまは、微笑されながら、

「この世の宝は身を苦しめる道具になることが多い。

早速、みんなが絶対の幸福になる仏法を伝えるために使おう」

と、お預かりになったという。

 

●無謀に始まり、後悔に終わる怒り

 

次の瞋恚(しんに)」とは怒りのこと。

欲が満たされなければ、「怒り」と爆発します。

「心」の上に「奴」と書くように、「怒り」は、

心のまないたで気に食わぬヤツをこれでもかと刻みつける。

怒ると顔が真っ赤になりますから、

仏教では赤鬼で表される心です。

「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」

「怒り」の炎がグワーッと燃え上がれば、

理性は吹っ飛び、恐ろしい言動で、あっという間に

築き上げた全てを焼き尽くしてしまう。

 

昔、上野動物園でカバが妊娠したので飼育係が、

育てやすいようにと計らったのかオリを移動させようとした。

ところが嫌がったカバは激しく抵抗し、

おなかの子供は死産したという。

怒りはカッと身を焼き、サッと頭に血が上るから一般にも、

いつも怒っている人は短命といわれます。

 

●道理に暗いねたみ、そねみの心

 

いくら腹が立っても、ほとんどの場合、怒りをストレートに

ぶつけることはできませんから、

妬みそねみの醜い「愚痴」となります。

「愚」もおろか、「痴」も知恵がやまいだれで入院中ですから、

「愚痴」とはバカのこと。

お釈迦さまは、大宇宙の真理である、自業自得の因果の道理の

分からぬ心をバカと言われたのです。

道理に暗い「愚痴」は黒で表されます。

他人の恵まれた結果は本人の努力や苦労によるもの。

因果の道理を忘れ、相手を呪うだけでは、

やがて身の破滅を招く。

こんな愚かなことはありませんよと、

お釈迦さまは戒められているのです。

 

「嫉妬」は「妬み、そねみ」。ともに「女へん」ですが、

男は特にプライドが高いから

一層質(たち)が悪い、という人もある。

醜いジェラシーに身を焦がしている自分を、

誰にも気づかれたくない。

ましてや、昨日昇格した同期のアイツにだけは絶対知られたくない。

だから、笑顔で〝やったな。おめでとう〟と

肩をたたいて酒を酌み交わしつつ、

腹の中では〝コンチクショー〟と虎視眈々、権謀術数を謀る。

仲の良い2人の間を二枚舌で切り裂きながら、

成り行きをニヤニヤ見守ってほくそえむ。

誰しもあきれるこんな自分を、法鏡では、

ありのままに映し出すのです。

 

●親鸞聖人の懺悔と歓喜

 

仏の眼からごらんになると、私は醜い煩悩の塊だ。

弥陀に救い摂られ、自己を信知なさった親鸞聖人は、

死ぬまでやまない悪性を、こう懺悔なさっています。

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

 

怒りやねたみ、そねみを、蛇や蠍(さそり)に例えて、

親鸞の心は蛇や蠍のようにゾーッとするほど恐ろしく、

醜い、との述懐です。

煩悩具足で死ぬまで悪を造り続ける。

そんな私の後生は、悪因悪果、自因自果の因果の道理に狂いはなく、

永く苦患に沈む。

仏教ではこれ以上の一大事はないから、

後生の一大事といわれ、その解決を急げと説かれるのです。

歎異抄』にはこうも告白されています。

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

 

「いずれの行も及び難き身なれば」とは、

一つの善もできない親鸞だ、との懺悔です。

「地獄」と聞けば、この世の受験地獄や借金地獄を思い出す。

もちろんこれも大変ですが、ここで聖人の言われる地獄とは、

後生、無限の苦悩を受けることだから、

とても比較になりません。

 

幼くして両親を亡くされ、次に死ぬのは自分の番だと、

後生に驚かれた親鸞聖人が、比叡山で天台宗の僧侶になられたのは

9歳のこと。

そこで20年間、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まれず、

青春の全てをささげて身も心も修行に打ち込まれたのは、

後生の一大事を解決したい一心でした。

しかし、どうにも解決ができず、泣く泣く山を下りられ、

吉水の法然上人から、真実の仏教、阿弥陀如来の本願を聞かれる。

そして29歳、弥陀の本願力によって

絶対の幸福に救い摂られた一念に、

「地獄は一定すみかの親鸞」とハッキリ知らされたのです。

「一定」とは間違いなく、ハッキリしたこと。

「すみか」とは家のこと。

家を離れて生きることはできません。

「地獄は一定住み家」とは、この親鸞の行き場は

地獄以外になかったとハッキリ知らされた、との確言です。

同時に、こんな親鸞一人を目当てに助けてくださった

弥陀の本願を喜ばずにおれないと、『歎異抄』にまた、

こう歓喜なさっています。

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人が為なりけり、

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思(おぼ)し召したちける本願のかたじけなさよ

 

「弥陀の五劫思惟の願」とは、弥陀が五劫の長きにわたって

考え抜かれて、十方衆生(すべての人)を助けんと

奮い立ってくだされたお約束のこと。

「五劫」は、はるか想像も及ばぬ長期間です。

ここで「すべての人を助ける」弥陀の本願を、

なぜ聖人は「親鸞一人がため」と仰ったのか。

「祭りには 皆とは言えど 気は娘」

さあ今度の夏祭り、ぜひ皆さんで、いらしてくださいね、

と実家の母が、娘の嫁ぎ先の一家を誘うのは、

ひとえに「ただ娘一人かわいい」の親心から。

弥陀はすべての人が相手と誓われてはいるが、

罪悪深重の親鸞一人がかわいい。

何としてもおまえを助けずばおかぬ、

と五劫の長きに悩まれ苦しんでくだされたのか。

「若干の業」とは、無限の悪業のこと。

本師弥陀の五劫思惟のご苦労は、

ひとえに地獄一定の親鸞ゆえ、と悲嘆なされ、

そのまま極楽一定に救い摂ってくだされた大恩を

喜ばずにおれないと、不思議な本願力に

感佩(かんぱい)なさっています。

(感佩・・・感謝)

 

あまりにも深きご恩に親鸞聖人は、90歳で浄土に還帰なされるまで、

この弥陀の本願一つ、叫び続けていかれたのでありました。

その不惜身命のご布教はまさに波瀾万丈。

弊社発行のアニメーションでもごらんいただけるとおり、

今日に語り継がれているのです。

 

このように、弥陀に救い摂られた時、

「真実の自己」と「弥陀の本願まこと」が

同時にハッキリ知らされます。

自己の真実を知らねば、本当の幸福にはもうなれませんから、

法鏡に映し出された自己を徹見し、絶対の幸福に摂取されるまで、

真剣に仏法を聞かせていただきましょう。

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幸せの扉は、本当の「私」を知れば、ひらく! [人間の実相]

幸せの扉は、

  本当の「私」を

    知れば、ひらく

 

           仏教は自分を映す鏡

 

世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまが

仏教を説かれたことは、

「どんな人でも本当の幸せになる道」

一つでした。

そのお釈迦さまは、

仏教とは一言でいえば

「法鏡」であると仰っています。

「法鏡」とは、本当の私の姿を映す鏡ということですが、

それはどんなことでしょう。

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●自己を知ることが本当の幸福のカギ

 

スポーツも受験も就職も、自分の実力を知らねば

勝利は期待できません。

かの有名な孫子の兵法に、

「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」

との名言がありますが、「自己を知る」は、

何事においても重要な一歩です。

 

哲学発祥の地、ギリシャの神殿には、

「汝自身を知れ」と刻まれています。

「私とは何ぞや?」の問いこそ、

何千年も前から人類が知りたいと思ってきたことなのです。

「私」が幸せになるには、

その「私自身」を知らねばなりませんから、

人間の「幸福」を真正面から探求する哲学とは、

「人間自身」の探求にほかなりません。

 

エジプトのスフィンクスが、

「始めは4本足、中頃は2本足、終わりに3本足となる動物は何か?」

と、砂漠の旅人に問いかけ、

答えられない者を食い殺したという伝説があります。

ハイハイから二足歩行を覚え、晩年、杖に頼る一生を

例えたこの謎かけは、自己を知らぬ私たちに

警鐘を鳴らしたものでしょう。

お釈迦さまがお亡くなりになる時、

「我は汝らに、法鏡を授けるであろう」

と仰ったのは、「私自身を知る」ことが

本当の幸せの扉を開くカギであり、

それが仏教の教えであるという表明です。

 

「仏道を習うは自己を習うなり」

仏教を聞き、本当の自分の姿が知らされた時、

私たちは「本当の幸せ」になれるのです。

 

●仏教に説かれた 

    本当の私とは?

 

「知るとのみ

思いながら 何よりも

知られぬものは 己(おのれ)なりけり」

 

誰でも、自分のことは自分がいちばんよく知っていると

思っています。

しかし「私」とは、近すぎてかえって見えないもの。

「目、目を見ることあたわず」

と言われるように、どんなに視力のいい人でも、

自分の目で、自分の顔や目そのものを見ることはできません。

そこで必要になるのが鏡というものです。

お釈迦さまは、世に「私」を映す3とおりの鏡があると

説かれています。

それはどんな鏡でしょうか。

 

(1)他人鏡

    他人の評価によって知る自分の姿

 

私たちは、どんな時でも他人からどう見られているか、

その「評価」が気になります。

他人の評価によって私の「幸福」が決まると

思って生きる私たちは、「他人の鏡に映った自己がどんなものか」

に、日々、神経をとがらせて生活しているとさえいえましょう。

「インスタ映え」と聞いて、

何の「ハエ?」という人もあるかもしれません。

多くの人が見栄えのいい写真を撮って、

すぐにスマホで友達に見せています。

本来、友達同士で楽しみを分け合うはずの行為が、

写真写りばかりに気を取られ、

逆に憂鬱になると悩む人は多いようです。

「いいね!」と言ってくれる人数が気になり、

最近はそのボタンをたくさん押してくれるサービスを

お金で買える、「いいね!自動販売機」なるものさえある。

仕事をしていれば、

〝今日のネクタイ、昨日と同じじゃダメだよね〟

と朝からあれこれ思い悩む。

足下を見透かされないように靴を磨き、

ツメが甘いと言われないよう、

大事なお客さんに会う前には爪を切り、

10分前には洗面所で歯を磨く。

もちろん、プレスケアガム、デオドラントスプレーの

携行は必須。

「人は見た目が9割」などとあおられると、

昇進も外見一つで決まるとばかり、

上司にも顧客にも「よく見られたい」と必死です。

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昼休みも気は休まらない。

同僚や後輩と「うな重」でも食べに行こうものなら、

さらなるつらい選択が課せられます。

先に注文した2人が、威勢よく「松!」とくれば、

自分だけ「梅」と言えず、出費を思って震える声で

「オレも松!」と叫んだものの、味も分からず店を出る。

 

冠婚葬祭に包む金額に気を遣い、

新年のお年玉もまた試練。

親戚の子がその場で開けて、

「え、今どき3000円」

などと言おうものなら、心でその子をたたきつけている。

年始早々、心穏やかでいられない。

教育現場では、親の目を気にして、

先生や保育士がへとへとになる。

学芸会や運動会の時期ともならば大変。

『花咲かじいさん』の劇で、

せっかく出てきたわが子が「木」の役だったら

親はどう思うか。

最近はすべての子が役からあぶれないよう、

主役も意地悪じいさんも何人もで演じるそうな。

もちろん、他人の目を気にするのは大事なことですが、

「私の幸福」まで「他人の評価」が決めるのでしょうか。

 

今日ほめて

明日悪くいう 人の口

泣くも笑うも ウソの世の中

 

一休が嗤(わら)っているように、

人は私を「都合」によって評価するのですから、

他人の評価など、都合次第でコロリと変わります。

 

昨年3000円のお年玉で「ケチなおっちゃん」と

レッテルを貼られたおじさんも、

今年は1万円渡せば「いいおじちゃん」に早変わり。

みんな自分にとって都合のいい人が

「いい人」なのです。

しかし、

「ブタは褒められてもブタ

ライオンはそしられてもライオン」

クルクル変わる他人の評価が、

私の真価を表すはずがありません。

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悪口を言われても気にする必要がない。

どうせ、もうすぐ皆死ぬのだから

『徒然草』の吉田兼好が書いたそんな忠告で、

とっても気が楽になったという人がたくさんいます。

いかに人間関係で皆、疲れ果てていることか、

傷を受けている人がいかに多いことでしょう。

 

「過去にも、今にも、未来にも

皆にて謗る人もなく

皆にて褒むる人もなし」(法句経)

お釈迦さまは、他人の評価に幻惑されず、

真実の自己を見なさいよ、

と教えられています。

 

(2)自分鏡

   自己反省によって知る自己の姿

 

有名出版社「三省堂」の由来は、

「われ日にわが身を三たび省みる」からきているそうです。

人間には道徳的良心があり、

それを鏡として反省する動物とも評価されていますが、

その「良心」は、正しく自己を映しているでしょうか。

 

「この玉の色を見分けた者に、

ご褒美を与えます」

乙姫さんが魚たちに尋ねると、

黒鯛は〝黒です〟、サバは〝青色〟、カレイは〝薄茶色〟と、

皆、答えが異なった。

「どれが本当の色ですか」

声をそろえて乙姫に尋ねると、

「玉は無色透明、皆さんの色が映っただけですよ」

と乙姫さんは笑ったという。

自分の考えや感情の色を全て抜き取って、

私たちは何も見られないのではないでしょうか。

なぜなら、私たちは「慢心」の色メガネを死ぬまで

外せないからです。

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「慢心」とは「自惚れ心」。

「自分に惚れて」自分を見ているのですから、

アバタもエクボは当然で、死ぬまで私たちは、

自分を毛頭悪く見られないのです。

慢心は絶対外せぬ色メガネだよ、

とお釈迦さまは仰います。

 

こんな私たちは、死ぬまで自分の姿を

正しく見ることはできません。

では、自己の姿を正しく知るには、

どうすればよいのでしょうか。

お釈迦さまは、仏教を聞きなさいと教えられています。

仏教とは、法の鏡だから、真剣に仏教を聞けば、

自分の姿がハッキリ知らされてくるのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●七慢自惚れ心を7とおりに分けて、お釈迦さまは「七慢」と説かれています

 

①慢

自分より劣った相手を、情けないやつだと馬鹿にする心。

テストで自分は80点で相手は70点だった時。

〝どうだ、オレのほうが上だろう〟

と相手を見下げる心です。

そう思うのは当然ではないかと思われるかもしれませんが、

相手を踏みつける恐ろしい心です。

 

②過慢

同じ程度の相手なのに、自分のほうが優れていると威張る心

テストの点数が同じでも、「本当はオレのほうが上なのだ」

と自惚れます。

 

③慢過慢

間違いなく相手が優れているのに、素直にそうと認められず

「オレのほうが上だ」と思う心。

相手が90点で自分が80点でも、

〝あいつは親が高い金出して塾に通っている。

条件が同じならオレのほうが断然上だ。

しかも、確かに勉強はそこそこできるかもしれないが、

スポーツはまるでダメ。

その点、オレは両方できるし〟と都合のよい理由を

いろいろ見つけて相手の上に立とうとします。

 

④我慢

自分の間違いに気づきながら、どこどこまでも自分の意見を

押し通そうとする心。

一般に使われる「忍耐」の意味ではない。

 

⑤増上慢

さとりを開いてもいないのに、

さとったと自惚れている心。

 

⑥卑下慢

腰の低さを自惚れる心。

「私ほど悪い者はおりません」「こんな未熟者ですが、

ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」と、

深々と頭を下げつつ、

「どうじゃ、こんなに頭の低い者はおらんだろう」と

ニンマリします。

 

⑦邪慢

とんでもないことを自慢する心。

窃盗犯が「オレほど素早く他人のものを盗める者はない」

と、機敏さを自慢したり、人殺しが残虐ぶりを自慢すると

聞くとアキレますが、自分のことは皆、よいようにしか

思えないのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(3)法鏡
   真実の自己の姿を映し出す鏡

 

仏教は法鏡なり。その法鏡とはどんな意味でしょうか。

 

仏教で「法」とは、

三世十方を貫く(いつでもどこでも間違いがない。普遍である)

ものです。

国や時代に左右されない、本当の人間の姿をお釈迦さまが

説かれた教えが仏教ですから、その仏教を聞いて、

真実の自己と対面した時、

私たちは「真実の幸せ」になれるのです。

自己を知ることは、本当の幸せの扉を開く

たった一つのカギといえましょう。

 

では、仏教に教えられている人間の真実の姿とは、

どのようなものでしょうか。


次回更新時に載せたいと思います。


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お釈迦さまの説かれた仏教の結論とは! [一向専念無量寿仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

     (親鸞聖人・恩徳讃)

(大慈大悲の阿弥陀如来の高恩と、

その本願を伝えたもうた師主知識の深恩は、

身を粉にしても、骨を砕きても済みませぬ)

 

阿弥陀如来と師主知識(善知識)への感謝、賛嘆(さんだん)で

あふれる親鸞聖人の「恩徳讃」。この後半2行、

「師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし」

のお言葉を続けて学んでいます。

師主知識から骨を砕いても返し切れぬ大恩を受けている、

と仰る「師主知識」とはどのような方か、

私たちはどんなご恩を受けているのでしょう。

師主知識、善知識について『浄土真要鈔』というお聖教に、

こう教えられています。

 

総じていう時は真の善知識というは諸仏・菩薩なり。

別していう時は我らに法を与えたまえる人なり。

また正しく自ら法を説きて聞かする人ならねども、

法を聞かす縁となる人をも善知識と名(なづ)く。

されば善知識は諸仏菩薩なり。

然れば仏法を聞きて生死を離るべき源は、ただ善知識なり

 

「善知識」とは、本来は諸仏・菩薩であるが、

それらの方々の教えをそのまま私たちに説き聞かせる人や、

自ら説かずとも、聞かせる縁となる人も「善知識」だと

説かれています。

私たちの住む世界でいえば、善知識の元祖は、

地球上で最高無上のさとりを開かれた唯一の仏、

釈尊(お釈迦さま)です。

後に続く知識高僧方も、お釈迦さまが仏教を説かれねば、

無上の法を知り、伝えることはできませんでした。

釈尊が何を教えられたかを知らねば、

師主知識のご恩は分かりませんから、今回は、

のお釈迦さまのご教導を学びましょう。

 

●お釈迦さまの説かれたこと

 

お釈迦さまは、約2600年前、インドで活躍なされた方です。

35歳で大宇宙最高の仏のさとりを開かれ、

80歳で亡くなられるまでの45年間の釈迦の教説が仏教です。

仏教は今日、7千余巻の一切経に書き残されていますが、

その膨大な経典の中で

〝これ一つ説くために、この釈迦は世に出たのだ〟

といわれる「出世本懐経」があります。

〝それはこの『大無量寿経』である〟と釈尊は自ら仰っています。

他の7千余の経典は、この経を説くための準備に他ならないのです。

 

『大無量寿経』を説法される時の釈尊のお姿は

「諸根悦豫(しょこんえつよ) 姿色清浄(ししきしょうじょう)

光顔巍巍(こうげんぎぎ)」と説かれています。

これは、弥陀三昧(みだざんまい)に入られて、

お顔や全身が光り輝き、喜びに燃え立っていられるご様子で、

常に親しくお仕えしていた弟子の阿難尊者が、

「いまだかつて、このような尊いお姿を

拝したことがございません」と驚いているほどです。

あまりの尊さに、思わずその訳を尋ねた阿難に、

お釈迦さまはこう宣言なされています。

 

如来、世に出興(しゅっこう)する所以は

道教を光闡(こうせん)し、

群萌(ぐんもう)をすくい恵むに

真実の利を以てせんと欲してなり

          (大無量寿経

私がこの世に生まれ出た目的は、仏教を説き開き、

一切の人々を阿弥陀仏の真実の救いに導くためであったのだ

 

弥陀の本願を説くことが私の出世本懐だ、と明らかにされ、

巻末にはこうも述べられています。

 

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、

特にこの経を留めて止住すること百歳せん

             (大無量寿経下巻

 

他の一切の経典が消滅しても、この『大無量寿経』だけは

永遠不滅である、と断言されているのです。

これについて『大集経』他、多くの経典に、

釈尊がご入滅になった後の時機を三つに分けて、

「三時」と教えられています。

 

①正法の時機・・釈尊死後500年

②像法の時機・・正法の時期終わってから1000年

③末法の時機・・像法の時期終わってから10000年

④法滅・・・・・末法10000年の後、無窮

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「正法」の時機には、仏の説かれた教えも、

その教えどおりに修行する者も、証(さと)る者もあるが、

「像法」の時機は、仏の教えと修行する者はあるが、

証る者はなくなる。

「末法」の時機には、仏の教えのみあって、修行する者も

証る者もなくなり、

「法滅」に至っては、仏の説いた教えも滅してしまう。

と説かれています。

ところが「法滅」になって、一切の経典が滅尽しても、

この弥陀の本願を説く『大無量寿経』だけは滅びることなく、

すべての人々を救うであろうと予言されているのが、

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、

特にこの経を留めて止住すること百歳せん

のお言葉です。よって親鸞聖人は、

 

それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり

                 (教行信証教巻)

『大無量寿経』のみが真実の経である

 

と断定されています。

 

●大無量寿経には何が説かれているのか

 

では、お釈迦さま自ら唯一の真実経と仰る『大無量寿経』には

何が教えられているのでしょう。

それこそ本師本仏の阿弥陀仏という仏さまのましますこと、

その阿弥陀仏のご本願なのです。

阿弥陀仏とは、お釈迦さまが私たちに紹介された仏さまで、

大宇宙に数限りなくまします諸仏の師の仏。

その阿弥陀仏が無上殊勝の本願を建てていられる。

本願とは誓願ともいい、お約束のことです。

阿弥陀仏は私たちと、こう約束なさっています。

 

どんな人も

必ず絶対の幸福(往生一定)に救う

 

〝すべての人よ、必ず無量光明土(弥陀の浄土)に生まれて、

仏になれる身(絶対の幸福)に救う。

死んでからではない、生きている現在ただ今のことである〟

との想像を絶するお誓いです。

相手を選ばず、〝どんな人をも絶対の幸福にしてみせる〟

というのは、他の諸仏、菩薩には到底できないお約束ですから、

お釈迦さまはじめ弟子の諸仏も菩薩も、異口同音に、

「あなたをこの世も未来も救い切ってくださるのは、

本師本仏の阿弥陀仏しかましまさぬ。

だから弥陀一仏に助けていただきなさいよ」

と仰るのです。すなわち、

 

一向専念無量寿仏 (大無量寿経

阿弥陀仏(無量寿仏)一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ

 

のご金言で、これが『大無量寿経』の結語であり、

膨大な一切経の結論なのです。

私たちが真に幸福になるために最も大事なことだから、

お釈迦さまが教えられているのです。

親鸞聖人が『正信偈』に、

「如来世に興出したまう所以は、

唯弥陀の本願海を説かんがためなり」

と断言されているのもよくうなずけるでしょう。

浄土往生できるか否かは、弥陀に一向専念になるか、

否かで決まるのだから、「一向専念無量寿仏」以上に

大事な教えはない、とこうも仰っています。

 

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔

 

この「一向専念無量寿仏」を徹底することが、

善知識の使命であることは前回もお話したとおりです。

 

●恐ろしい迷信、邪を捨てよ

 

この「一向専念無量寿仏」を徹底するに、

お釈迦さまはまず、仏教以外の教え(外道)を捨て、

真理を教えた仏教を信じよ、と『涅槃経』に

このように説かれています。

 

世尊常に説きたまわく、

一切外学の九十五種(外道)は、皆悪道に趣く」(涅槃経

 

九十五種とは仏教以外の全宗教のこと。

お釈迦さま在世中のインドには九十五種の外道が

存在していたからで、それらは皆、人々を悪道(苦しみの世界)へ

堕とす邪教である、と仰っているのです。

日本には現在、約二十二万もの宗教団体があります。

その中には、幼稚な教義を掲げ、

反社会的な事件を引き起こすものもあります。

例えば平成6~7年に、日本中を震撼させたオウム真理教事件は

今なお多くの人の記憶に残っているでしょう。

また、死亡した信者を〝復活させるために清めていた〟と

遺体を放置してミイラ化させた教団や、

〝有害な電磁波から身を守る〟

〝地球に落下してくる惑星から逃れる〟

と言って、白装束、白塗りの車で全国行脚していた団体、

「足裏判断」で幸不幸が分かるとうそぶいて詐欺罪に

問われた教祖もありました。

道理を無視し、社会生活を逸脱した、

こんな〝教え〟が多くの人を不幸に陥れることは明白でしょう。

かかる恐ろしい迷信、邪教を捨て、三世十方を貫く

因果の道理を根幹とする仏教を信じなさいと、

お釈迦さまは勧められたのです。

親鸞聖人もこのお釈迦さまのご教導を、

 

九十五種世をけがす

唯仏一道きよくます (親鸞聖人)

 

と和讃しておられます。

 

●弥陀の本願(浄土の一門)のみ助かる道

 

さらに仏教の中でも、阿弥陀如来の本願によらねば、

誰一人助からないと、お釈迦さまはこう説示されています。

 

我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、

未だ一人も得る者有らずと。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり、

唯浄土の一門有りて通入すべき路なり

                  (大集経

 

今日はすでに末法の世であり、この時機には、

釈迦の教えはあれども、修行する人も証(さと)る人もないと、

釈尊自ら説かれたのは先述のとおりです。

弥陀のご本願(浄土の一門)こそ、未来永劫、

不滅の大法なのだから、すべての人よ、

一刻も早く弥陀の本願を信じ

「一向専念無量寿仏」の身になりなさいよと教導なされ、

その釈迦の御心を親鸞聖人も、和讃にこう述べられています。

 

釈迦の教法ましませど

修すべき有情のなきゆえに

さとりうるもの末法に

一人もあらじとときたまう

       (正像末和讃

聖道権仮(しょうどうごんけ)の方便に

衆生ひさしくとどまりて

諸有(しょう)に流転の身とぞなる

悲願の一乗帰命せよ 

       (浄土和讃

 

もしお釈迦さまが阿弥陀仏の本願を説いてくださらなかったら、

私たちは弥陀の本願を知ることも、

聞いて絶対の幸福に救われることもなかったでしょう。

いかに大きなご恩をお受けしているのか、

これでお分かりになると思います。

仏教の結論は「一向専念無量寿仏」であると、

まずよく知って、阿弥陀仏の本願を真剣に

聞かせていただくことが肝要です。

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すべての人の生きる意味とは!? [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
『正信偈』と

   『歎異抄』に示された、

         すべての人の

             生きる意味

 

 

「『正信偈』って何?」という人も

「きみょう~むりょう~じゅにょらい~」

と聞けば、耳になじみがあるのではないでしょうか。

葬式や法事の祭に、最も読まれているためか、

『正信偈』は大変多くの人に知られています。

漢字ばかりなので「お経」だと思っている人もありますが、

『正信偈』はお経ではありません。

お経は、「仏説○○経」とあるように、

仏であるお釈迦さまの説法を書き残したもの。

『正信偈』は親鸞聖人が書かれたものですから、

お経とはいいません。とはいえ、1行7文字、

120行の『正信偈』には、仏教の全てが収まっているのです。

この『正信偈』の意味が分かれば、世界の科学者、

哲学者たちが仏教を称賛せずにはおれなかったのも

うなずけるでしょう。

 

●生きるとは信ずること

 

まず、偈とはうたのことですから、『正信偈』とは、

〝正しい信心(正信)のうた〟ということ。

親鸞聖人は「正しい信心」を、親しみやすい歌にして

教えられているのです。

 

一般に「信心」と聞くと、「私は観音様を信心しています」

というように、ほとんどの人が、仏や菩薩や神を

信ずることだと思っています。だから、

「信心なんて、自分とは関係ない」

と思っている人が少なくありません。

無宗教の自分は「信心」など無関係と思うのでしょう。

ところが「信心」とは、「心で何かを信ずる」ことですから、

神や仏でなくても、何かを信じていれば、

それはその人の信心です。

信じるとは、あて力にする、頼りにする、支えにする、

といってもいいでしょう。

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例えば、床屋でひげをそってもらう時、

鋭いカミソリが喉元や顎の下をなでているというのに、

すやすやと寝ている人があります。

どうしてそんなに無防備でいられるのか?

「よもや床屋さんが、カミソリで首を切るようなことはしまい」

と床屋さんを信じ切っているです。

 

毎日の食べ物の中に、毒が入っているかもしれないと

思ったら何も食べられません。

そんなことは絶対ないと、信じ切って食べています。

医者からもらった薬を躊躇なくポーンと口に放り込むのも同じで、

医者を信じているからです。

明日は、来月は、来年は、と計画を立てるのは、

自分の命がまだまだ続くと信じてのことでしょう。

どれだけニュースで天災・人災を見聞きしても、

自分がその当事者になることは想定外で、

手帳に先々のスケジュールを記しています。

 

今年、岡山県を豪雨が襲った時のこと。

浸水していく町に、独り残る父を避難させようと、

息子がやってきた。

「お父さん、早く逃げないと大変だ」

せかす息子の呼びかけに

「家電を2階に上げてからや」

と返す父。

「急がないと、死ぬよ!」

と叫ぶも、

「死にゃーせん」

と父は、電化製品を持って悠々と階段を上がっていく。

「そんなこと言ってた人が、どれだけ亡くなったか!」

息子は強引に父を連れ出し、道に出ると、

水は腰までのみ込み、足を取られぬように進むのがやっとだった。

「こんなになっていたとは・・・」

と父の表情は一変し、命からがら避難したそうです。

命の危険がすぐそこまで迫っていても、

昨日まで大丈夫だったから今日も大丈夫と、

ほとんどの人はただ盲目的に信じて生きているのです。

 

家族を信じ、お金を信じて生きている。

健康第一と思っている人は健康信心。

「科学の進歩が人類に幸福をもたらす」

と思っているのは、科学信心。

「宗教は要らない」と言っている共産主義者は、

共産思想こそが人間を幸せにすると信じている人たちです。

「私は誰も、何も信じない」

という人があれば、そんな人は床屋もスーパーも、

病院にも行けず、電車やタクシーにも乗れませんし、

何を求めて生きればよいか分からず、

人生の方角が全く立ちません。

何かを信じないと、人は生きてはいけないのです。

だから「生きる」とは「何かを信じている」ことです。

命として信じているものが、その人の「生きる目的」となり、

人生そのものとなるのです。

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●信心は人それぞれでいい?

 

何を信じるかは、一人一人違いますが、

問題は何を信じて生きるかです。

何を信じようが自分の勝手だから、好きにすればよいと

いうわけにもいきません。

なぜなら、人間の苦しみは、信じているものに

裏切られた時に起きるからです。

 

「そんな男と一緒になってはダメ」と親が忠告しても、

「誰を好きになろうが私の勝手でしょ」と娘は言う。

「あの人とは〝赤い糸〟で結ばれているの」と

幸せな未来を信じて突進しますが、

人生経験豊かな親の予感は的中。

やがて、〝赤い糸〟は〝鎖〟だったと知らされ、

逃げられない苦しみに、浅はかだったことを後悔する例が

絶えません。

 

愛情を注いで育てれば、自分も幸せになれると

思っていた親が、子供に裏切られて苦しんでいます。

映画やテレビ、CMに、引っ張りだこだった大女優が、

息子の覚醒剤所持による度重なる逮捕で仕事は激減。

ストレスで体を壊し、10億円の豪邸も手放し、

「親としてはもう力及ばず」と悲痛な心境を吐露していました。

深く信じているほど、裏切られた悲しみや怒りは大きい。

親にとって子供は命ですから、わが子の裏切りほど

つらいことはないでしょう。

 

事故や病気で身体が不自由になった苦しみは、

健康に裏切られたから。

ガンで余命幾ばくと宣言されたら「何で私が」

「まさかこの若さで」と、夜も眠れない。

それは、いつまでも健康で生きていられると

固く信じていたからです。

会うも別れの始めなり。ときめきの出会いも、

いつか別離の日が来ます。

子供とも離れる時が訪れます。

分かりきったことなのに、現実になると、嫌だ!

受け入れられない、と苦しみもだえます。

自分の身体も、いつまでも元気ではない。

やがて動かせなくなる。

「その時」を少し先に延ばすことはできても、

止めることはできません。

 

お釈迦さまは「諸行無常」と仰せです。

「諸行」とは全てのもの、「無常」は続かないということです。

一切はやがて滅びゆく。この世に変わらないものは、何もない。

これに例外はありません。

信ずる心も無常ですから、何をどう信じても、

やがて必ず裏切られることになるのです。

親鸞聖人のお言葉が記されている『歎異抄』に、

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万(よろず)のこと

皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無し

                     (後序)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の

すべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない

 

とあるとおりです。

 

●阿弥陀仏の本願のみぞまこと

 

その親鸞聖人

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切られない信心を

獲なさいよ

と教えられているのですが、絶対に裏切らない信心など

あるのでしょうか。

聖人は、前述の『歎異抄』の続きに、こう断言されています。

 

ただ念仏のみぞまことにて在(おわ)します

ただ阿弥陀仏より賜った本願念仏のみが、まことである

 

ここで念仏と言われているのは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

この「阿弥陀仏の本願」こそ、私たちを絶対の幸福にする、

三世十方を貫くまことだと教えられているのです。

 

阿弥陀仏とは、弥陀ともいい、大宇宙の無量の仏方の王様であり、

本師・師匠と仰がれる仏さまです。

 

阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、

光明の中の最明無極なり

                   (大阿弥陀経

 

と、お釈迦さまは言われています。

次に本願とは、誓願ともいい、お約束のこと。

阿弥陀仏の約束は、お経には漢字36字で書かれていますが、

現代の平易な言葉でいうと、

「どんな人も必ず、絶対の幸福に救い摂り、

無量光明土に生まれさせる」

というお約束です

「どんな人も」とは、老少・善悪・男女・賢愚・貧富・美醜など

一切関係ない、すべての人のこと。

『歎異抄』にはこれを、

 

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第1章)

 

と記されています。

阿弥陀仏は

「すべての人を、全く差別なく、必ず絶対の幸福に救う」

と誓われています。

ところが、この世は無常、一切は時々刻々変わりゆくものばかり。

私たちは、そんなはかないものしか知りませんから、

「絶対の幸福にしてみせる」

と聞いても

「そんな幸せになれるはずがない」

と、まことの弥陀の本願をはねつけています。

そらごと・たわごとばかりで、まことの心のない私たちは、

まことを信ずる心も念ずる心もないのです。

 

●弥陀より賜る他力信

 

そこで阿弥陀仏は、「まことの心」が私たちにないのなら、

「まことの心」を与えて絶対の幸福に救おう、

と誓われています。

阿弥陀仏より賜るまことの心で、

まことの阿弥陀仏を信ずる。

これを「他力の信心」といいます。

親鸞聖人が本当の幸せになれる「正しい信心」と言われるのは

この他力の信心のことなのです。

他力とは阿弥陀仏から賜ることです。

阿弥陀仏から頂いた信ずる心も「まこと」、

信ずる阿弥陀仏も「まこと」。

だからこの「他力の信心」は、絶対に崩れることも、

裏切られることもありません。

阿弥陀仏は、阿弥陀仏を信ずる「まことの心」を、

南無阿弥陀仏の「南無」に収められ、

その南無阿弥陀仏の名号を与えて、

信ずる心も念ずる心もない私たちを絶対の幸福に救う、

と約束なされているのです。

「南無阿弥陀仏」を阿弥陀仏から頂くことを

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

信心獲得して初めて私たちは、何があっても絶対に裏切られない

安心・満足を獲て、

「人間に生まれてよかった!!」

と、絶対の幸福に生かされるのです。

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親鸞聖人は、信心獲得した喜びを『正信偈』の冒頭に

 

帰命無量寿如来

南無不可思議光

(親鸞は、阿弥陀仏に救われた、

 親鸞は、阿弥陀仏に助けられた)

 

と仰っています。同じ意味のことを繰り返し書かれているのは、

どれだけ言っても言い足らない、どんなに書いても書き尽くせない

喜びの表現です。

このように親鸞聖人は、自ら他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得され、皆さんも早く、親鸞と同じ大安心・大満足の幸福に

なりなさいよ、と『正信偈』に勧められているのです。

これがすべての人の生まれてきた目的であり、

「なぜ生きる」の答えなのだよと親鸞聖人は仰っています。

 

ではどうすれば、この他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得できるのでしょうか。

南無阿弥陀仏は「聞く一つ」で受け取れるように

完成されていますから阿弥陀仏は、

「聞く一つで救う」

と約束されているのです。これを

「聞其名号 信心歓喜」

とお釈迦さまは教示されています。

蓮如上人は、

「仏法は聴聞に極まる」

と言われています。

南無阿弥陀仏を聞く一つで受け取れば、

「弥陀の本願まことであった」

と疑い晴れる。それは平生の一念です。

(一念・・・1秒よりも短い時間の極まり)

その瞬間に、来世の浄土往生もハッキリいたします。

生きては絶対の幸福、死しては無量光明土。

まさしく生きてよし、死んでよしの広大無辺な世界がひらかれる。

そこまで真剣に聞き抜きなさいと、

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も勧められているのです。

苦労をいとわず、聞法の場に足を運んで、

一筋に進ませていただきましょう。

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