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すべての人の生きる意味とは!? [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
『正信偈』と

   『歎異抄』に示された、

         すべての人の

             生きる意味

 

 

「『正信偈』って何?」という人も

「きみょう~むりょう~じゅにょらい~」

と聞けば、耳になじみがあるのではないでしょうか。

葬式や法事の祭に、最も読まれているためか、

『正信偈』は大変多くの人に知られています。

漢字ばかりなので「お経」だと思っている人もありますが、

『正信偈』はお経ではありません。

お経は、「仏説○○経」とあるように、

仏であるお釈迦さまの説法を書き残したもの。

『正信偈』は親鸞聖人が書かれたものですから、

お経とはいいません。とはいえ、1行7文字、

120行の『正信偈』には、仏教の全てが収まっているのです。

この『正信偈』の意味が分かれば、世界の科学者、

哲学者たちが仏教を称賛せずにはおれなかったのも

うなずけるでしょう。

 

●生きるとは信ずること

 

まず、偈とはうたのことですから、『正信偈』とは、

〝正しい信心(正信)のうた〟ということ。

親鸞聖人は「正しい信心」を、親しみやすい歌にして

教えられているのです。

 

一般に「信心」と聞くと、「私は観音様を信心しています」

というように、ほとんどの人が、仏や菩薩や神を

信ずることだと思っています。だから、

「信心なんて、自分とは関係ない」

と思っている人が少なくありません。

無宗教の自分は「信心」など無関係と思うのでしょう。

ところが「信心」とは、「心で何かを信ずる」ことですから、

神や仏でなくても、何かを信じていれば、

それはその人の信心です。

信じるとは、あて力にする、頼りにする、支えにする、

といってもいいでしょう。

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例えば、床屋でひげをそってもらう時、

鋭いカミソリが喉元や顎の下をなでているというのに、

すやすやと寝ている人があります。

どうしてそんなに無防備でいられるのか?

「よもや床屋さんが、カミソリで首を切るようなことはしまい」

と床屋さんを信じ切っているです。

 

毎日の食べ物の中に、毒が入っているかもしれないと

思ったら何も食べられません。

そんなことは絶対ないと、信じ切って食べています。

医者からもらった薬を躊躇なくポーンと口に放り込むのも同じで、

医者を信じているからです。

明日は、来月は、来年は、と計画を立てるのは、

自分の命がまだまだ続くと信じてのことでしょう。

どれだけニュースで天災・人災を見聞きしても、

自分がその当事者になることは想定外で、

手帳に先々のスケジュールを記しています。

 

今年、岡山県を豪雨が襲った時のこと。

浸水していく町に、独り残る父を避難させようと、

息子がやってきた。

「お父さん、早く逃げないと大変だ」

せかす息子の呼びかけに

「家電を2階に上げてからや」

と返す父。

「急がないと、死ぬよ!」

と叫ぶも、

「死にゃーせん」

と父は、電化製品を持って悠々と階段を上がっていく。

「そんなこと言ってた人が、どれだけ亡くなったか!」

息子は強引に父を連れ出し、道に出ると、

水は腰までのみ込み、足を取られぬように進むのがやっとだった。

「こんなになっていたとは・・・」

と父の表情は一変し、命からがら避難したそうです。

命の危険がすぐそこまで迫っていても、

昨日まで大丈夫だったから今日も大丈夫と、

ほとんどの人はただ盲目的に信じて生きているのです。

 

家族を信じ、お金を信じて生きている。

健康第一と思っている人は健康信心。

「科学の進歩が人類に幸福をもたらす」

と思っているのは、科学信心。

「宗教は要らない」と言っている共産主義者は、

共産思想こそが人間を幸せにすると信じている人たちです。

「私は誰も、何も信じない」

という人があれば、そんな人は床屋もスーパーも、

病院にも行けず、電車やタクシーにも乗れませんし、

何を求めて生きればよいか分からず、

人生の方角が全く立ちません。

何かを信じないと、人は生きてはいけないのです。

だから「生きる」とは「何かを信じている」ことです。

命として信じているものが、その人の「生きる目的」となり、

人生そのものとなるのです。

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●信心は人それぞれでいい?

 

何を信じるかは、一人一人違いますが、

問題は何を信じて生きるかです。

何を信じようが自分の勝手だから、好きにすればよいと

いうわけにもいきません。

なぜなら、人間の苦しみは、信じているものに

裏切られた時に起きるからです。

 

「そんな男と一緒になってはダメ」と親が忠告しても、

「誰を好きになろうが私の勝手でしょ」と娘は言う。

「あの人とは〝赤い糸〟で結ばれているの」と

幸せな未来を信じて突進しますが、

人生経験豊かな親の予感は的中。

やがて、〝赤い糸〟は〝鎖〟だったと知らされ、

逃げられない苦しみに、浅はかだったことを後悔する例が

絶えません。

 

愛情を注いで育てれば、自分も幸せになれると

思っていた親が、子供に裏切られて苦しんでいます。

映画やテレビ、CMに、引っ張りだこだった大女優が、

息子の覚醒剤所持による度重なる逮捕で仕事は激減。

ストレスで体を壊し、10億円の豪邸も手放し、

「親としてはもう力及ばず」と悲痛な心境を吐露していました。

深く信じているほど、裏切られた悲しみや怒りは大きい。

親にとって子供は命ですから、わが子の裏切りほど

つらいことはないでしょう。

 

事故や病気で身体が不自由になった苦しみは、

健康に裏切られたから。

ガンで余命幾ばくと宣言されたら「何で私が」

「まさかこの若さで」と、夜も眠れない。

それは、いつまでも健康で生きていられると

固く信じていたからです。

会うも別れの始めなり。ときめきの出会いも、

いつか別離の日が来ます。

子供とも離れる時が訪れます。

分かりきったことなのに、現実になると、嫌だ!

受け入れられない、と苦しみもだえます。

自分の身体も、いつまでも元気ではない。

やがて動かせなくなる。

「その時」を少し先に延ばすことはできても、

止めることはできません。

 

お釈迦さまは「諸行無常」と仰せです。

「諸行」とは全てのもの、「無常」は続かないということです。

一切はやがて滅びゆく。この世に変わらないものは、何もない。

これに例外はありません。

信ずる心も無常ですから、何をどう信じても、

やがて必ず裏切られることになるのです。

親鸞聖人のお言葉が記されている『歎異抄』に、

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万(よろず)のこと

皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無し

                     (後序)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の

すべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない

 

とあるとおりです。

 

●阿弥陀仏の本願のみぞまこと

 

その親鸞聖人

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切られない信心を

獲なさいよ

と教えられているのですが、絶対に裏切らない信心など

あるのでしょうか。

聖人は、前述の『歎異抄』の続きに、こう断言されています。

 

ただ念仏のみぞまことにて在(おわ)します

ただ阿弥陀仏より賜った本願念仏のみが、まことである

 

ここで念仏と言われているのは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

この「阿弥陀仏の本願」こそ、私たちを絶対の幸福にする、

三世十方を貫くまことだと教えられているのです。

 

阿弥陀仏とは、弥陀ともいい、大宇宙の無量の仏方の王様であり、

本師・師匠と仰がれる仏さまです。

 

阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、

光明の中の最明無極なり

                   (大阿弥陀経

 

と、お釈迦さまは言われています。

次に本願とは、誓願ともいい、お約束のこと。

阿弥陀仏の約束は、お経には漢字36字で書かれていますが、

現代の平易な言葉でいうと、

「どんな人も必ず、絶対の幸福に救い摂り、

無量光明土に生まれさせる」

というお約束です

「どんな人も」とは、老少・善悪・男女・賢愚・貧富・美醜など

一切関係ない、すべての人のこと。

『歎異抄』にはこれを、

 

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第1章)

 

と記されています。

阿弥陀仏は

「すべての人を、全く差別なく、必ず絶対の幸福に救う」

と誓われています。

ところが、この世は無常、一切は時々刻々変わりゆくものばかり。

私たちは、そんなはかないものしか知りませんから、

「絶対の幸福にしてみせる」

と聞いても

「そんな幸せになれるはずがない」

と、まことの弥陀の本願をはねつけています。

そらごと・たわごとばかりで、まことの心のない私たちは、

まことを信ずる心も念ずる心もないのです。

 

●弥陀より賜る他力信

 

そこで阿弥陀仏は、「まことの心」が私たちにないのなら、

「まことの心」を与えて絶対の幸福に救おう、

と誓われています。

阿弥陀仏より賜るまことの心で、

まことの阿弥陀仏を信ずる。

これを「他力の信心」といいます。

親鸞聖人が本当の幸せになれる「正しい信心」と言われるのは

この他力の信心のことなのです。

他力とは阿弥陀仏から賜ることです。

阿弥陀仏から頂いた信ずる心も「まこと」、

信ずる阿弥陀仏も「まこと」。

だからこの「他力の信心」は、絶対に崩れることも、

裏切られることもありません。

阿弥陀仏は、阿弥陀仏を信ずる「まことの心」を、

南無阿弥陀仏の「南無」に収められ、

その南無阿弥陀仏の名号を与えて、

信ずる心も念ずる心もない私たちを絶対の幸福に救う、

と約束なされているのです。

「南無阿弥陀仏」を阿弥陀仏から頂くことを

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

信心獲得して初めて私たちは、何があっても絶対に裏切られない

安心・満足を獲て、

「人間に生まれてよかった!!」

と、絶対の幸福に生かされるのです。

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親鸞聖人は、信心獲得した喜びを『正信偈』の冒頭に

 

帰命無量寿如来

南無不可思議光

(親鸞は、阿弥陀仏に救われた、

 親鸞は、阿弥陀仏に助けられた)

 

と仰っています。同じ意味のことを繰り返し書かれているのは、

どれだけ言っても言い足らない、どんなに書いても書き尽くせない

喜びの表現です。

このように親鸞聖人は、自ら他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得され、皆さんも早く、親鸞と同じ大安心・大満足の幸福に

なりなさいよ、と『正信偈』に勧められているのです。

これがすべての人の生まれてきた目的であり、

「なぜ生きる」の答えなのだよと親鸞聖人は仰っています。

 

ではどうすれば、この他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得できるのでしょうか。

南無阿弥陀仏は「聞く一つ」で受け取れるように

完成されていますから阿弥陀仏は、

「聞く一つで救う」

と約束されているのです。これを

「聞其名号 信心歓喜」

とお釈迦さまは教示されています。

蓮如上人は、

「仏法は聴聞に極まる」

と言われています。

南無阿弥陀仏を聞く一つで受け取れば、

「弥陀の本願まことであった」

と疑い晴れる。それは平生の一念です。

(一念・・・1秒よりも短い時間の極まり)

その瞬間に、来世の浄土往生もハッキリいたします。

生きては絶対の幸福、死しては無量光明土。

まさしく生きてよし、死んでよしの広大無辺な世界がひらかれる。

そこまで真剣に聞き抜きなさいと、

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も勧められているのです。

苦労をいとわず、聞法の場に足を運んで、

一筋に進ませていただきましょう。

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