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真実の自己をハッキリ知らされたその時、往生一定の身となる! [阿弥陀仏の本願]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

絶対の幸福になった時

   真実の自己と

   弥陀の本願まことが

       同時に知らされる

    「法鏡」が映す私は

       「煩悩具足」

 

「どんな人でも本当の幸福になる道」一つ説かれた

お釈迦さまの教えは、一言でいえば「法鏡」である

前回学びました。

 

「法鏡」とは、本当の私を映し出す鏡のこと。

仏法を聞き、法鏡に映し出された真実の自己と対面した時、

誰もが真実の幸福に救われるのです。

では、真実の自己とはどんなものでしょうか。

それは「煩悩具足の凡夫」であると、親鸞聖人は仰っています。

「凡夫」とは人間のこと。

「すべての人は、煩悩具足である」と

仏教では教えられるのです。

「具足」とは、それでできているということ。

氷は水でできているから、水を取ってしまえばゼロになる。

「すべての人間は、煩悩具足である」とは、

〝すべての人は、煩悩に目鼻つけてあるかせたようなもの。

煩悩の塊である〟とお釈迦さまは教導されているのです。

 

●すべての人は煩悩の塊!?

 

「煩悩」とは私たちを、煩わせ、悩ませるもので、

仏教では108あると教えられます。

大晦日に108、除夜の鐘を突くのは、ここに由来します。

「ああ、今年は煩悩に煩わされ、悩まされ、

大変な一年だったナァ。

来年こそ、そんな苦しみが少しでも無くなってほしい」

と願いを込めて、鐘をゴーンと突くのでしょう。

ところが親鸞聖人は、「煩悩は死ぬまで減りもしない、

ましてやなくなるものではないよ」と仰っています。

108ある「煩悩」の中で特に恐ろしいものを、

「三毒の煩悩」といわれます。

「三毒の煩悩」とは、次の3つです。

○貪欲(欲)

○瞋恚(しんに・怒り)

○愚痴(うらみ・ねたみ・そねみ)

 

●際限のない欲の心

 

最初の「貪欲」とは、底知れない欲の心

お釈迦さまは、これを5つに分けて「五欲」と

教えられています。

 

○食欲・・・食べたい、飲みたいの欲望

○財欲・・・お金や物が欲しい欲望

○色欲・・・男女の欲

○名誉欲・・褒められたい、認められたい欲望

○睡眠欲・・眠たい、ラクがしたい欲望

 

どこまでも深く、果てしなく広がるから、

深い海の色に例えて青で表されます。

地獄の青鬼は「欲」の象徴です。

 

「どうして欲の心が恐ろしいと言われるのか。

なければ生きていけないではないか」

と思う人があるかもしれません。

確かに、食欲が無ければ何も食べたくないし、

睡眠欲がなければ夜も眠くならないから生きていけない。

名誉欲や色欲がなければ、誰から何を思われても

へっちゃらな無神経人間ばかりで

社会生活は成り立たないでしょう。

しかし、欲の苦しみが分からないのは、欲の本性が、

「満たされなければ渇き、満たせば度を増して渇く」

ものであると知らないからです。

ちょうど、海水で喉の渇きが癒やされたように

感ずるのは一瞬で、すぐに渇きが倍増するようなものです。

 

欲の実態を示す、こんな話があります。

法螺貝(ほらがい)は巻き貝の一種ですが、

楽器として山伏などが使うには、

中身をきれいに取り出し加工しなければならない。

とはいえ、無理やりかき出そうとすれば、

胴体がちぎれてきれいな空洞にならないから、

一計を案じる。

酒だるの上に法螺貝をつるすのです。

最初はかたくなに閉じ籠もっていた法螺貝も、

やがて酒の甘いにおいに誘われ少しずつ頭を出す。

注意深かった法螺貝も、やがて殻からニューと胴体を現すと、

自身の重みで伸びすぎて戻れなくなり、

ついに酒だるへボチャンと落下してしまうのです。

「これくらいよかろう。もうちょっと、あとちょっと~」

と手を伸ばし、やがて取り返しのつかない事態に陥るのが、

底知れぬ欲の恐ろしさです。

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お釈迦さまに、次のようなエピソードがあります。

「そこに、毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」

「ハイ、心得ております」

お釈迦さまに従って歩いていた阿難が答える。

その会話を聞いた男が、怖いもの見たさにのぞいてみた。

なんとそこには、まばゆい金銀財宝が、

地中から顔を出しているではないか。

「昔、誰かが埋め隠したのが、大雨で洗い出されたに違いない。

こんな宝を毒蛇と間違うとは、釈迦も、まぬけやろうだ」

男は喜んで持ち帰った。

いっぺんに生活は華美になり、国中の評判になった。

王様の耳に入り、怪しまれ、厳しい詮議を受けて白状した。

かかる大枚の財宝を横領するとは、許せぬ大罪。

死刑に処するが3日間猶予を与える、と、一応帰宅させた。

次第を聞いて家族は、嘆き悲しんだ。

ああ、お釈迦さまは偉い。間違いなく毒蛇だった。

オレがかみ殺されるだけでなく、妻子にまで毒が回り、

大変なことになった。

家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。

財宝が、かえって身を責める道具になった

男は心から懺悔した。

翌日、呼び出しがかかった。

死刑が早まったのかと、青ざめて法廷に出ると、

「おまえの罪は許す」

との大恩赦。理由は、

「おまえが帰る前に床下に家来を忍ばせて、

全てを聞いた。お釈迦さまのお言葉から、おまえの懺悔。

考えてみると、おまえばかりが毒蛇にかまれるのではなかった。

取り上げるオレも、酒食に溺れ、国を破滅させるところだった。

財宝はお釈迦さまに使ってもらおう」

とのことだった。

一部始終を聞かれたお釈迦さまは、微笑されながら、

「この世の宝は身を苦しめる道具になることが多い。

早速、みんなが絶対の幸福になる仏法を伝えるために使おう」

と、お預かりになったという。

 

●無謀に始まり、後悔に終わる怒り

 

次の瞋恚(しんに)」とは怒りのこと。

欲が満たされなければ、「怒り」と爆発します。

「心」の上に「奴」と書くように、「怒り」は、

心のまないたで気に食わぬヤツをこれでもかと刻みつける。

怒ると顔が真っ赤になりますから、

仏教では赤鬼で表される心です。

「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」

「怒り」の炎がグワーッと燃え上がれば、

理性は吹っ飛び、恐ろしい言動で、あっという間に

築き上げた全てを焼き尽くしてしまう。

 

昔、上野動物園でカバが妊娠したので飼育係が、

育てやすいようにと計らったのかオリを移動させようとした。

ところが嫌がったカバは激しく抵抗し、

おなかの子供は死産したという。

怒りはカッと身を焼き、サッと頭に血が上るから一般にも、

いつも怒っている人は短命といわれます。

 

●道理に暗いねたみ、そねみの心

 

いくら腹が立っても、ほとんどの場合、怒りをストレートに

ぶつけることはできませんから、

妬みそねみの醜い「愚痴」となります。

「愚」もおろか、「痴」も知恵がやまいだれで入院中ですから、

「愚痴」とはバカのこと。

お釈迦さまは、大宇宙の真理である、自業自得の因果の道理の

分からぬ心をバカと言われたのです。

道理に暗い「愚痴」は黒で表されます。

他人の恵まれた結果は本人の努力や苦労によるもの。

因果の道理を忘れ、相手を呪うだけでは、

やがて身の破滅を招く。

こんな愚かなことはありませんよと、

お釈迦さまは戒められているのです。

 

「嫉妬」は「妬み、そねみ」。ともに「女へん」ですが、

男は特にプライドが高いから

一層質(たち)が悪い、という人もある。

醜いジェラシーに身を焦がしている自分を、

誰にも気づかれたくない。

ましてや、昨日昇格した同期のアイツにだけは絶対知られたくない。

だから、笑顔で〝やったな。おめでとう〟と

肩をたたいて酒を酌み交わしつつ、

腹の中では〝コンチクショー〟と虎視眈々、権謀術数を謀る。

仲の良い2人の間を二枚舌で切り裂きながら、

成り行きをニヤニヤ見守ってほくそえむ。

誰しもあきれるこんな自分を、法鏡では、

ありのままに映し出すのです。

 

●親鸞聖人の懺悔と歓喜

 

仏の眼からごらんになると、私は醜い煩悩の塊だ。

弥陀に救い摂られ、自己を信知なさった親鸞聖人は、

死ぬまでやまない悪性を、こう懺悔なさっています。

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

 

怒りやねたみ、そねみを、蛇や蠍(さそり)に例えて、

親鸞の心は蛇や蠍のようにゾーッとするほど恐ろしく、

醜い、との述懐です。

煩悩具足で死ぬまで悪を造り続ける。

そんな私の後生は、悪因悪果、自因自果の因果の道理に狂いはなく、

永く苦患に沈む。

仏教ではこれ以上の一大事はないから、

後生の一大事といわれ、その解決を急げと説かれるのです。

歎異抄』にはこうも告白されています。

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

 

「いずれの行も及び難き身なれば」とは、

一つの善もできない親鸞だ、との懺悔です。

「地獄」と聞けば、この世の受験地獄や借金地獄を思い出す。

もちろんこれも大変ですが、ここで聖人の言われる地獄とは、

後生、無限の苦悩を受けることだから、

とても比較になりません。

 

幼くして両親を亡くされ、次に死ぬのは自分の番だと、

後生に驚かれた親鸞聖人が、比叡山で天台宗の僧侶になられたのは

9歳のこと。

そこで20年間、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まれず、

青春の全てをささげて身も心も修行に打ち込まれたのは、

後生の一大事を解決したい一心でした。

しかし、どうにも解決ができず、泣く泣く山を下りられ、

吉水の法然上人から、真実の仏教、阿弥陀如来の本願を聞かれる。

そして29歳、弥陀の本願力によって

絶対の幸福に救い摂られた一念に、

「地獄は一定すみかの親鸞」とハッキリ知らされたのです。

「一定」とは間違いなく、ハッキリしたこと。

「すみか」とは家のこと。

家を離れて生きることはできません。

「地獄は一定住み家」とは、この親鸞の行き場は

地獄以外になかったとハッキリ知らされた、との確言です。

同時に、こんな親鸞一人を目当てに助けてくださった

弥陀の本願を喜ばずにおれないと、『歎異抄』にまた、

こう歓喜なさっています。

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人が為なりけり、

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思(おぼ)し召したちける本願のかたじけなさよ

 

「弥陀の五劫思惟の願」とは、弥陀が五劫の長きにわたって

考え抜かれて、十方衆生(すべての人)を助けんと

奮い立ってくだされたお約束のこと。

「五劫」は、はるか想像も及ばぬ長期間です。

ここで「すべての人を助ける」弥陀の本願を、

なぜ聖人は「親鸞一人がため」と仰ったのか。

「祭りには 皆とは言えど 気は娘」

さあ今度の夏祭り、ぜひ皆さんで、いらしてくださいね、

と実家の母が、娘の嫁ぎ先の一家を誘うのは、

ひとえに「ただ娘一人かわいい」の親心から。

弥陀はすべての人が相手と誓われてはいるが、

罪悪深重の親鸞一人がかわいい。

何としてもおまえを助けずばおかぬ、

と五劫の長きに悩まれ苦しんでくだされたのか。

「若干の業」とは、無限の悪業のこと。

本師弥陀の五劫思惟のご苦労は、

ひとえに地獄一定の親鸞ゆえ、と悲嘆なされ、

そのまま極楽一定に救い摂ってくだされた大恩を

喜ばずにおれないと、不思議な本願力に

感佩(かんぱい)なさっています。

(感佩・・・感謝)

 

あまりにも深きご恩に親鸞聖人は、90歳で浄土に還帰なされるまで、

この弥陀の本願一つ、叫び続けていかれたのでありました。

その不惜身命のご布教はまさに波瀾万丈。

弊社発行のアニメーションでもごらんいただけるとおり、

今日に語り継がれているのです。

 

このように、弥陀に救い摂られた時、

「真実の自己」と「弥陀の本願まこと」が

同時にハッキリ知らされます。

自己の真実を知らねば、本当の幸福にはもうなれませんから、

法鏡に映し出された自己を徹見し、絶対の幸福に摂取されるまで、

真剣に仏法を聞かせていただきましょう。

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