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善いことをすると腹が立つ [人間の実相]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

         善いことをすると腹が立つ

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる

      (悲嘆述懐和讃)

弥陀に救われても悪は少しもやまない。

ヘビやサソリのような恐ろしいイヤらしい心で一杯だ。

こんな心に汚染されている善行だから、

雑毒の善、ウソ偽りの行といわれて当然だ

 

このご和讃は、阿弥陀仏の救いにあって知らされた自己の実相を

告白なされた親鸞聖人のお言葉です。

前号は、前半の意味をお話ししましたので、

今回は後半を学びましょう。

 

親鸞聖人は、「修行も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」

と仰っています。

「修善も雑毒」とは、本当の自己の姿を知らされられた聖人が、

「親鸞のやる善には毒が雑(ま)じっている」と懺悔なさっている

お言葉です。

ここで「毒の雑じった善」と聖人が言われているのは、

どんなことなのでしょうか。

 

●毒の雑じった施しは頂くまい

 

こんな話があります。

 

お釈迦さまが、ある家へ乞食(こじき)の姿で現れ、

一飯を乞われた。

「私の家には、夫婦の食べるものしか炊いていない」

出てきた主婦は冷たくあしらう。

「それでは、お茶を一杯、恵んでくださいませんか」

「乞食が、お茶などもったいない。水で上等だ」

「それでは私は動けないので、水を一杯、くんでくださいませんか」

「乞食の分際で、他人を使うとは何事だ。

前の川に水はいくらでも流れているから自分で飲め」

 

釈迦は、忽然と姿を現し、

「何と無慈悲な人だろう。一飯を恵んでくれたら、

この鉄鉢(てつぱつ)に金を一杯上げるはずだった。

お茶を恵んでくれたら、銀を一杯上げるはずだった。

水をくんでくれる親切があったら、

錫を一杯上げるつもりであったが、何の親切心もない。

それでは幸福は報うてはきませんよ」。

「ああ、あなたはお釈迦さまでしたか。

差し上げます、差し上げます」

「いやいや、利益を目当てにする施しには、

毒が雑じっているから頂かない」

と、仰って帰られた。

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帰宅して、一部始終を聞いた主人は、

「おまえはばかなやつだ。なぜ一杯のメシをやらなかったのだ。

金が一杯もらえたのに」

「それが分かっていれば、十杯でもやりますよ」

「よしそれなら、俺が金と換えてもらおう」

と、お釈迦さまの後を追った。

へとへとになったところで、道が左右に分かれている。

ちょうど、道端にうずくまっている乞食がいるので、

「乞食、ここをお釈迦さまが、お通りにならなかったか」。

「ちっとも知りませんが・・・私は空腹で動けません。

何か食べ物を恵んでくださいませんか」

「俺は、おまえに恵みに来たのではない。

金を得るために来たのだ」

その時、釈迦は変身なされ、

「妻も妻なら夫も夫、憐れむ心のない者は恵まれないのだ」。

「あなたがお釈迦さまでしたか。あなたに差し上げるために

来たのです」

「いいえ、名誉や利益のための施しには、毒が雑じっているから

頂くまい」

厳然と仰って、釈迦は立ち去られた。

施しは尊い布施行ではあり善ですが、名誉や利益が目当ての施しは、

「これだけの物をあなたに上げますから、代金を下さい」

と言っている〝商売〟と同じです。

このようなあさましい心でやる善に「毒が雑じっている」と

言われれば、誰でも納得が行くでしょう。

では、「何の代価も要りません」と、無償の親切であれば、

善に毒が雑じることはないのでしょうか。

 

●三つのことを忘れるようにしよう

 

この疑問に答える前に、仏教で本当の親切とはどういうものか、

知っていただかねばなりません。

仏教では、三輪空(さんりんくう)ができなければ、

本当の親切とはいえない、と教えられます。

三輪空とは、

 

○私が(施者)

○誰々に(受者)

○何々を(施物)

 

この三つを忘れる、ということです。

「私が与えてやった」「あの人にしてやった」

「こんないい物を上げたのだ」という心は、

「だから、きっとあの人から、私に、

これくらいのものが返ってくるだろう」と

見返りを期待する心となって表れます。

 

「一休の再来」と騒がれた九州博多の禅僧・仙がいが、

ある冬の日、橋の上を通ると、河原で乞食が

ブルブル震えていた。

かわいそうに思った仙がいは自分の着衣を脱いで投げ与えた。

それを着た乞食、ジロッと一目見ただけで何の言葉もない。

仙がい、たまりかねて、思わず声をかける。

「どうだ、少しは暖かくなったかな」

聞いた乞食、仙がいに

「着れば暖かくなるに決まっている。

分かり切ったことをなぜ聞くか。

オレは見てのとおり乞食の身、

施したくても施す物がない。

おまえは施しのできる身分を喜べよ」。

即座の返答に、見返りを待つ心を見透かされ、

仙がいは深く恥じ入ったという。

 

連休中、旅先で買ってきた土産のお菓子を、

会社の同僚数名に配る。

「わぁ、ありがとう!おいしいね」

と言われれば、〝買ってきた甲斐があった〟と喜べるが、

一言の礼もなく食べる同僚は、面白くない心が噴き上がる。

「人気のお菓子で、けっこう並んで買ったんだ」

と苦労話をしてみせるが、それでも何もないと

〝二度と買ってきてやるか!〟と憤慨する。

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親切したのに、お礼や感謝の言葉がないと、途端に腹が立つ。

善に努めながら「オレはこれだけやっている」と自負し、

評価や見返りを期待する、その心こそが毒であり、

仏眼からは鼻持ちならぬ臭気が漂っていると説かれるのです。

 

しかも見返りを期待する心は、大きな善になればなるほど

膨らみます。

友人に100円を上げて、次に会った時、礼がなくても

「ああ、忘れているな」で済むでしょう。

ところが、困っている相手を見かねて100万円を施し、

次に顔を合わせて一言の礼もなかったらどうでしょう。

心穏やかでいられるでしょうか。

 

大善ほど猛毒を含む人間の善の実態を、

龍樹菩薩はこのように喝破されています。

 

四十里四方の池に張り詰めた氷の上に、

二升や三升の熱湯をかけても、

翌日はそこは、膨れ上がっている (大智度論)

 

親鸞聖人が、阿弥陀仏に救い摂られ、知らされたのは、

どこどこまでいっても真実の善のできない

雑毒虚仮の人間の実相でした。

 

●弥陀の光明に照らされ、知らされる私の姿

 

聖人ご自身が、9歳から29歳までの20年間、

比叡山で猛烈な修行に打ち込まれたのは、

仏教の善の実践にほかなりませんでした。

そんな聖人が、29歳で法然上人にお会いし、

阿弥陀仏の本願に救い摂られて知らされた自己の真実が、

主著『教行信証』に次のように記されています。

 

一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、

瞋憎(しんぞう)の心常に能く法財を焼く。

急作・急修して頭燃を灸(はら)うが如くすれども、

衆(すべ)て「雑毒・雑修の善」と名け、

また「虚仮・諂偽(てんぎ)の行」と名く。

「真実の業」と名けざるなり    (教行信証

 

いつも己の損得ばかりを考えて欲や怒り憎しみに果てしがない。

こんな欲や怒り妬みそねみに染まり切っている心で、

頭の火をもみ消すように善に励んでも、皆、

偽善であり、うそっぱちであるから、「雑毒・雑修の善」

「虚仮・諂偽の行」といわれ、

「真実の善」とはいわれないのである

 

「一切凡小」とありますから、

これは親鸞聖人だけのことではありません。

阿弥陀仏がとうの昔に見抜かれた十方衆生(すべての人)の実態を、

聖人は同じく『教行信証』に次のようにも仰っています。

 

一切の群生海、無始より已来(このかた)、

乃至(ないし)今日・今時に至るまで、

穢悪(えあく)汚染にして清浄の心無く、

虚仮諂偽にして真実の心無し

 

すべての人間は、遠い過去から今日まで、

邪悪に汚染されて清らかな心はなく、

そらごとたわごとで、真実の心は全くない

 

欲や怒り、愚痴などの煩悩に汚染されて真実の心の

全くない十方衆生(すべての人)の善は、

真実の善ではないから、「雑毒の善」とか

「虚仮の行」と言われるのです。

 

親鸞聖人が冒頭のご和讃で、

「悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる」

と仰っているのは、一人親鸞聖人のみならず、

十方衆生(すべての人)の実態なのです。

 

しかしここで、

「どうせ人間には雑毒の善しかできないのなら、

やっても意味がない。やらないほうがいい」

と誤解しては大変。

 

仏眼からは人間の行う善は虚仮雑毒ですが、

行為そのものは善行ですから、「善因善果 悪因悪果 自因自果」

の因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が必ず現れます。

どうせ雑毒だからと開き直って自堕落な生活をしていたら、

悲惨な人生になるのは当然のことです。

 

親鸞聖人が自己の全てを「雑毒虚仮」と嘆かれたのは、

阿弥陀仏の光明に照らされ知らされた真実の自己(実機)なのです。

 

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ

               (悲嘆述懐和讃)

少しぐらいは、他人を哀れみ、悲しみ、

助ける心があるように思っていたが、

とんでもない錯覚だった。

親鸞は、慈悲のカケラもなかったのだ

 

弥陀に救われ、自己の真実に徹底しなければ、

決して分からぬ痛み嘆きに違いありません。

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