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「南無阿弥陀仏」は幸せの特効薬 [南無阿弥陀仏]

「南無阿弥陀仏」は

     幸せの特効薬

  

          光り輝く人生に

             ガラリと変える力とは

 

葬式や法事では、必ずといっていいほどお経が読まれます。

参列者には意味が理解できず、

死者を供養する呪文かまじないのように

思われるかもしれませんが、そうではありません。

お経は、2600年前のインドでお釈迦さまが説かれた教えを

記録したもの。

すべての人が本当の幸福になれる道を説かれた方が

お釈迦さまであり、その教えが仏教です。

葬式や法事で読経がなされるのは、

あくまで参列者のためですから、

そのあとの説法で、お経の内容をよく知ることが大切です。

 

では、お経には何が説かれているのでしょうか。

「お経」という言葉自体、「難解なもの」の

代名詞のように使われていますから、

〝仏教は難しい〟というイメージが定着しています。

しかし、昔から「物に本末あり、事に始終あり」と

いわれるように、どんなことにも必ず本末・始終があって、

本から末、始めから終わりまで、全体を知ることが

物事を理解するうえで大事だと教えられます。

仏教もしかり。

一部分だけ聞いて、「何の事だかサッパリ分からない」と

思うのは当然のこと。

そこで今回は、仏教の全体像を身近な例え話で

お話したいと思います。

 

ここに病で苦しむ人がいる。

放置すれば死んでしまうので、

その病人を助けようという医師が現れた。

医師は病を完治させる薬をつくった。

その薬を病人に与えるとたちまち病気が全快。

苦しみから救われたその人は、

医師に心からお礼を言った。

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ここで「病人」とは私たちすべての人間です。

「医師」とは阿弥陀仏のことです。

その阿弥陀仏が完成なされた「薬」が南無阿弥陀仏。

病の特効薬を私たちが頂くと、

立ちどころに「全快」します。

これを信心決定(しんじんけつじょう)といいます。

全快して医師へ言う「お礼」が念仏です。

この順番で、説明いたしましょう。


①病人 どうして心が満たされないの

 

仏教では、なぜすべての人を「病人」というのでしょうか。

それは心に本当の喜びがないからです。

仏さまの眼に映る古今東西のすべての人は、

何のために生まれてきたのか分からず、

常に不安を抱えて生きる苦悩の衆生です。

今月の巻頭特集に「有無同然」とあったとおり、

どれだけ欲しいものを手に入れても、

心からの幸せ、喜びにはならないのです。

しかし、私たちは決して苦しむために

生まれてきたのではありません。

では、何のために生きているのでしょうか。

「なぜ生きる」の答えが分からない真っ暗な心を仏教で

「無明の闇」と教えられ、

これが人生を苦に染める根元であり、

病の本当の原因であると説かれているのです。


 

②医師 〝一人立ち上がられた〟とは

 

そんな病(無明の闇)に苦しむすべての人を哀れに思われ、

何とかして助けてやりたいと、

一人立ち上がられた名医が阿弥陀如来という仏さまです。

本師本仏と仰がれ、「大医王」とたたえられています。

大宇宙にまします数え切れないほどの仏が、

異口同音に「われらが師匠の仏」と尊敬するのが阿弥陀仏です。

だから釈迦も一切経の中で、「諸仏の中の王なり」とか、

「最尊第一」の阿弥陀如来とか、

言葉を尽くして称賛されているのです。

 

阿弥陀仏は、どうすればすべての人の病(無明の闇)を

完治させることができるか、

五劫という長期間、考えられました。

これを「五劫の思惟」といいます。

弥陀は五劫もの間、病を徹底研究され、

兆載永劫のご苦労の末、ついに病を完治させる働きのある

「南無阿弥陀仏」という妙薬を完成なされたのです。

 

③薬 「南無阿弥陀仏」の効能

 

「南無阿弥陀仏」とは何か。

親鸞聖人は「功徳の大宝海」「真如一実の功徳宝海なり

と仰り、南無阿弥陀仏は善根功徳の大きな宝の海である、

と仰せです。

蓮如上人は「南無阿弥陀仏の名号の中には、無上甚深の

功徳利益の広大なること、更にその極まりなし」、

大宇宙最高の功徳がおさまっているのだよと

教えてくださっています。

 

「お経は長いほうが功徳がある」と思われている方も

少なくありませんから、「南無阿弥陀仏」のわずか六字に

無限の功徳があると言われても、

疑わしく思うに違いありません。

しかし、お釈迦さまご自身が、南無阿弥陀仏の大功徳について、

「私は生涯、この大功徳を説き続けてきたが、

とても説き尽くすことができなかった」

と説かれ、蓮如上人は『御文章』に、

一切の聖教というも、

ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

と仰り、お釈迦さまが一生涯、説かれたことは

この南無阿弥陀仏の功徳一つであり、

一切経は南無阿弥陀仏を私たちに受け取らせるためだったと

言われています。

 

ならば、いかなる効能が「南無阿弥陀仏」にあるのか。

それを教えてくだされている親鸞聖人のお言葉が、

次のご和讃です。

 

無碍光如来(むげこうにょらい)の名号と

かの光明智相(こうみょうちそう)とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃

 

「無碍光如来の名号」とは、

阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏のことです。

「かの光明智相」とは、阿弥陀仏の光明のお力、

お働きをいいます。

「無明長夜の闇を破し」とは、

「苦悩の根元である無明の闇を破り」ということ。

「衆生の志願をみてたまう」の「衆生」は私たち、

「志願」とは、望み、願いのことです。

私たちの願望をかなえてくださるかのように思いがちですが、

私たちの願いは「食べたい、儲けたい、楽したい、

認められたい」ばかり。

阿弥陀仏は、私たちの小さな欲望を満たすと仰っているのではなく、

「人間に生まれてよかった、という絶対の幸福に救う」という

弥陀の願いを私たちの身に満たしてくだされる、

といわれているのです。

このようにすべての人の心の闇を破り、

歓喜あふれる輝く人生にガラリと変えてくだされる

南無阿弥陀仏のお働きを「破闇満願」といいます。


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④全快 どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの?

 

この南無阿弥陀仏の名号を、私たちが弥陀より賜った一念に、

無明の闇が破られ、絶対の幸福に救い摂られるのです。

これを「信心決定(しんじんけつじょう)」とか

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

いくら阿弥陀仏のお手元に薬ができ上がっていても、

私たちがのまねば効きめは表れず、病は全快しません。

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号を創られたのは、

私たちに与えて病を全快させるため。

では、どうすれば頂けるのでしょうか。

このことについて、お釈迦さまは「聞く一つ(聞其名号)」と

教えてくだされています。

聞く一つで名号を与えて絶対の幸福に救うというのが、

阿弥陀仏の御心ですから、最も大事なことは、

真剣によくよく、仏法を聞くことである、と

親鸞聖人も蓮如上人も教え勧められているのです。

 

⑤お礼 救われてからの念仏

 

弥陀より賜った南無阿弥陀仏の特効薬で病が全快し、

絶対の幸福に救い摂られたならば、言わずにおれないのが

お礼の念仏です。

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることですが、

親鸞聖人は最も勧められた念仏は、弥陀に救い摂られたうれしさに、

称えずにおれない「お礼」の念仏です。

世間でも、人から物を頂くと、お礼を言わずにおれませんが、

その言葉は相手によって変わるでしょう。

日本人なら「ありがとう」、アメリカ人なら「サンキュー」、

中国人なら「謝謝」と言います。

阿弥陀仏に対しては、「南無阿弥陀仏」が、

救われたお礼の言葉なのです。

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蓮如上人は、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし

御恩報尽の念仏と、心得べきなり」(聖人一流の章)

と、分かりやすく教えられています。

 

このようにお話すると、

「では、念仏を称えているのは、

もう救われているということなのですね」

と思われる方もありましょうが、

それは大変な誤解です。

念仏を称えるのは大変尊いことですが、

念仏を称えている人なら誰でも南無阿弥陀仏の

名号を受け取っているのではありません。

このことを親鸞聖人は、

 

「称名憶念すること有れども、

無明なお存して所願を満てざる者あり」(教行信証信巻)

 

と仰り、念仏を一生懸命に称えてはいても、

無明の闇がいまだなくならず、大安心・大満足に

救われていない人がいる、と言われています。

 

名号を頂いたかどうかは、称える念仏で決まるのではなく、

無明の闇が破られ、往生一定の身になったかどうかで

決まるのです。

 

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、

私たちに南無阿弥陀仏の名号を受け取らせる一つのため。

一日も早く、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏の名号を頂き、

絶対の幸福に救われるまで、

仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

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