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救われてハッキリする自己の真実 [人間の実相]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

  救われてハッキリする自己の真実

 

悪性さらにやめがたし

こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに

虚仮の行とぞなづけたる (悲嘆述懐和讃)

 

弥陀に救われても悪は少しもやまない。

ヘビやサソリのような恐ろしいイヤらしい心で一杯だ。

こんな心に汚染されている善行だから、

雑毒の善、ウソ偽りの行といわれて当然だ

 

阿弥陀仏に救われて知らされた自己の実相を告白なされている

親鸞聖人のお言葉です。

 

〝少しもやまぬ〟と嘆かれた「悪性」とは、

たちの悪い本性のことで、欲や怒り、妬み、そねみなどの

煩悩をいいます。

 

「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませるもので、

全部で百八つあります。

その百八の煩悩の中で、特に私たちを苦しめるものに、

貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴の3つがあり、

猛毒のように恐ろしいので、「三毒の煩悩」ともいわれます。

 

●底なしの欲望

 

最初の「貪欲」とは、欲の心。

無ければ欲しい、有れば有るでもっと欲しい、

と際限なく求める心です。

願望を実現すれば満たされるように思いますが、

その満足感は一時的で、欲望はますます肥大し、

「もっと、もっと」と底無しに欲しがります。

テレビや冷蔵庫、エアコン、洗濯機など、

今やどの家庭にもある家電製品も、50年ほど前は、

それらを手に入れること自体が庶民の夢でした。

既にその夢は実現され、幸せな暮らしをしているはずの

私たちですが、今度は有るのが当たり前で満足感がなく、

欲しい物は尽きません。

「世の中は 一つかなえば また二つ

三つ四つ五つ 六つかしの世や」

と歌われるように、一つ願いがかなっても、

また次々と欲望が起きてきてキリがない。

この世は、満足ということがありません。

 

イソップ童話に、こんな話があります。

 

ある男が、金の卵を産むニワトリを手に入れた。

「俺は、何て幸運なんだろう。これで貧乏とはおさらばだ!」

と、大喜び。

しかし、贅沢に慣れてくると、欲しいものがどんどん増えてきて、

お金が足りない。次第に、一日一個しか産まないことが、

不満に思えてきた。男は、ニワトリをたたいて、

「さあ、二個でも三個でも続けて産むんだ!」

と責めるが、全く効果がない。とうとう、

「このニワトリの腹の中には、大きな金塊があるはずだ。

小出しにせずに、一度に取り出してやれ」

と言って、殺してしまったのである。

無論、ニワトリの体内には、一かけらの金もなかった。

一日一個の卵さえ手にすることができなくなった男は、

「ああ、全てを失ってしまった。欲を出さねばよかった」

と嘆いたが、後の祭りであった。

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このような欲の本質は「我利我利」で、〝自分さえよければ、

他人はどうなってもかまわない〟というのが本性だから

恐ろしいのです。

 

会社が経営不振で多額の借金を抱え、困り果てた経営者が、

小学4年の実の娘に生命保険を掛け、知人と共謀し、

交通事故に見せかけて殺害したという事件がありました。

こんな悪魔の所業も、我利我利の欲の心の仕業なのです。

 

朝から晩まで、底知れぬ欲に引きずり回され、

苛まれているのが私たちの実態です。

 

親鸞聖人が、主著『教行信証』に、

 

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して

何と情けない親鸞だなぁ。広い海のような愛欲に

沈み切って、名誉欲と利益欲に振り回されている

 

と仰っているのは、全身欲にまみれた己の実態を、

弥陀の光明に照らし出されての告白なのです。

 

●無謀に始まり、後悔に終わる ーーー瞋恚

 

その欲が妨げられると出てくるのが「瞋恚(しんに)」。

怒りの心です。

レストランで、注文した料理がなかなか来ないと、

「まだできないのか!」とイライラする。

夜中、近所の騒音で眠れないと、睡眠欲が邪魔され

「うるさいな!」と腹が立つ。

思うままにならない毎日、いらだち、頭にくる場面は

幾らでもあるでしょう。

しかし、怒りの炎は、こんな程度では済まされません。

別れ話のもつれから、怒りのあまり交際相手の女性を

刺し殺した。

17歳の高校生が、母親と祖母から勉強や生活態度のことで

注意され、カッとなって2人とも殺害した。

そのようなニュースが頻繁に耳に入ってきます。

人を殺せばどうなるか、誰でも分かっていることですが、

怒りの炎は、知識や教養の水ぐらいで消せるものではありません。

「怒りは無謀に始まり後悔に終わる」

怒りの炎でこれまで築き上げてきた立場も人間関係も

焼き尽くし、焼け野原に独り呆然と立ち尽くして、

〝何であんなことを言ってしまったんだろう〟

〝何であんなことをやってしまったんだろう〟と、

死ぬまで悔やみ続けなければなりません。

 

●他人の不幸を喜ぶ

 

次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、恨み、

憎しみの心をいいます。

他人の幸福が面白くない。反対に、他人の不幸を喜ぶ。

そんな醜い心です。

一緒に夢を追いかけていた友人が、

先にチャンスをつかむ。

「よかったね。頑張って!」と応援する言葉とは裏腹に、

〝どうしてこの人が先なの?私だって努力してるのに!〟

という心が噴き上がる。

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高収入の男性と結婚し、退社した女性社員が、

半年もたたないうちに離婚。お気の毒と言いながら、

社内はそんな彼女のうわさ話で持ち切り。

あれこれ尾ひれまでつく始末。

「隣の貧乏雁(がん)の味」のことわざどおり、

他人の不幸が面白くてどうにも止まらない。

〝こんな時にこんなことを思うなんて〟と、

あまりの不謹慎さに、我ながらイヤになる心を

何とか抑えつけようとしても、愉快な心が出てくるのです。

 

●煩悩あるがままの弥陀の救い

 

親鸞聖人は、そんな心を弥陀の光明によってハッキリと

照らし出され、

「こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」

と告白されています。

「蛇」はヘビ、「蝎」はサソリのことです。

ヘビを見ると、気持ち悪くて背筋がゾクッとします。

サソリを見ると、恐怖に戦慄します。

「親鸞の心は、ヘビやサソリのような、醜い恐ろしい心だ」

と懺悔なされているお言葉なのです。

 

このような聖人のお言葉を聞くと、

「え?阿弥陀仏に救われたら、少しは欲も減って、

腹立つこともなくなって、人間が穏やかになるんじゃないの?」

と思われる方もありましょう。

それは、弥陀の救いを知れば、自ずと解消される疑問です。

 

阿弥陀仏は、

「どんな人も 煩悩あるがままで 必ず絶対の幸福に救う」

と誓われています。これを阿弥陀仏の本願といいます。

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〝煩悩あるがままで〟ということは、弥陀の救いにあい、

絶対の幸福になっても、欲や怒り、妬みそねみの煩悩は

少しも変わらない、ということです。

親鸞聖人は、煩悩は死ぬまで変わるものではないことを

次のように仰っています。

 

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、いかり腹立ち、そねみねたみ心多く間なくして、

臨終の一念に至るまで、止まらず、消えず、絶えず

                (一念多念証文)

 

人間(凡夫)とは、欲や怒り、腹立つ心、妬み、

そねみなどの塊であり、これらは死ぬまで、

静まりもしなければ減りもしない。

もちろん、断ち切れるものでは絶対ないことを

教えられた聖人のお言葉です。

このような人間の実相を「煩悩具足の凡夫」とか

煩悩熾盛(しじょう)の衆生」ともいわれます。

 

親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、

煩悩をなくそうと比叡山で猛烈な仏道修行に

取り組まれましたが、

 

自力聖道の菩提心

こころもことばもおよばれず

常没流転の凡愚は

いかでか発起せしむべき   (正像末和讃)

 

どうにもならぬ煩悩に、泣く泣く下山されています。

そして、「煩悩具足の者を、そのまま助ける」という

阿弥陀仏の本願によって救い摂られたのです。

 

●弥陀に救われ 初めて知らされる姿

 

阿弥陀仏は、煩悩のあるがまま助けてくだされると聞いて、

「私も欲いっぱいで、すぐに腹を立てるし、愚痴ばかりだから、

この身このままで助かっているのだ」と思う人がありますが、

それは大変な誤解です。

 

「悪性さらにやめがたし」の聖人のお言葉は、

自己反省して仰ったものでもなければ、

〝私ほど悪い者はおりません〟と卑下されたものでも

ありません。

弥陀の摂取の光明に照破されて初めて知らされた

自己の真実を告白なされたお言葉なのです。

 

阿弥陀仏に救い摂られた人は誰でも、

昿劫流転してきた煩悩具足の自己がハッキリと知らされます。

これを「機の深信(きのじんしん)」といわれます。

「機」とは「自己」のこと、

「深信」とは「露チリほどの疑いもなく、

明らかに知らされたこと」です。

有名な『歎異抄』の「いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」も、

『正信偈』の「一生造悪」「極重悪人」も、

いずれも弥陀が見抜かれた自己の姿を信知させられ、

やまらぬ悪性を懺悔なされた聖人のお言葉です。

(信知・・・明らかに知ること)

 

煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、

清浄の心なし、濁悪邪見の故なり

             (尊号真像銘文)

本来、人間には邪悪の心しかなく、まことの心もなければ、

清らかな心も、まったくない

 

阿弥陀仏の救いにあわねば、決して知らされることのない

私たちの実相なのです。


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