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本当の幸福になれる「宝」  南無阿弥陀仏とは! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)

        本当の幸福になれる「宝」

             〝南無阿弥陀仏とは

                       何でしょう?〟

 

あなたの宝物は何ですか?

こう聞かれて皆さんは何と答えるでしょう。

宝とは、幸せになるための金や財、

名誉や地位、家族や健康、信念など。

どんな宝を得れば人生が素晴らしくなるか、

皆、探し求めています。

 

親鸞聖人は、すべての人が

必ず絶対の幸福になれる「宝」があり、

生きている今、それは獲られるのだと

教えられています。

今月は、その聖人ご生誕を祝し、

「人生最高の宝」についてお聞きしましょう。

(2016年5月のとどろきです)

 

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名声や家族

    ・・・世の「宝」の現実は?

 

世はグルメブーム。世界中、どこへ行っても、

観光の中心に「食」があります。

特に有名な美食指南の権威「ミシュラン」発行のガイドブックで、

三ツ星の最高評価を受けたスイス人シェフ、

ブノワ・ヴィオリエさんが、今年初め、自ら命を絶ちました。

昨年、フランス政府公認のランキングで、

彼の店は「世界一」になったばかり。

そんな絶頂にある料理人がなぜ?と誰もが思うでしょう。

彼は死の4日前に行われた最後のインタビューで、

〝自分の成功は長続きしないかもしれない〟と語り、

レストランの経営維持に頭を悩ませていたといいます。

〝最高評価に恥じぬ料理を〟。

一皿一皿にかかるプレッシャーは、

他人には分からぬ苦悩だったに違いありません。


「ただ見れば

何の苦もなき 水鳥の

足にひまなき わが思いかな」

水面を軽やかに滑っていく水鳥も、

水面下ではせわしく足を掻き続けているのです。

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「とんでもない過ちを犯してしまいました。

こんな形でテニスのキャリアを終えたくない。

もう一度、試合の場に戻ってきたい」

女子テニスのマリア・シャラポア選手がドーピング検査で

禁止薬物に反応し、自ら会見したのは今年3月。

(2016年5月のとどろきです)

四大大会すべてを制覇し、「生涯グランドスラム」を

成し遂げた一流選手の告白に、世界中が驚きました。

男子世界ランキング6位の錦織圭選手も

〝トップテンに入ってからドーピング検査の量はすごく増えた〟

と述べているように、プロテニスのドーピング検査は

大変厳しいといいます。

抜き打ち検査官は、どこにでもやってくるため、

選手には毎日の予定や滞在先を報告する義務があります。

困るのはトイレを済ませたあとに検査官が来ることで、

クルム伊達公子選手は、就寝直後の午後10時過ぎに訪問を受け、

なかなか規定の量が取れず、

尿検査が午前2時まで続いたといいます。

睡眠不足で、次の日は十分な練習ができなかったと

ブログで憤慨していました。

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身近な宝といえば、何といっても「子宝」でしょう。

〝世界一とか日本一とか、そんな大きな幸せは、

私には必要ないよ。ささやかでも家族が宝〟と皆、

大切にしています。

ところが昨今、その子供が持てない夫婦が多くあり、

不妊を心配するカップルは、

初婚同士の夫婦の約3割ともいわれます。

幸いわが子に恵まれても、今度は育て方に思い煩い、

蝶よ花よと育てた子も、〝嫁をもらうと息子はあなたに

尻を向ける〟。

やがて親離れして巣立っていってしまいます。

「大きな希望の子育てが終わり、子供が疎遠になりつつあります。

子供にとって必要な対象は親ではなくなってきました。

私がさらに年を取って介護が必要になると

迷惑な存在になります。

お金があれば近寄ってきますが、お金だけが必要であって、

だんだんと用事はなくなります」

とは、ある女性の述懐です。

考えてみると人生は、あれも欲しい、これも欲しいと

努力して手に入れ、心の支えにしていた宝が

年を取るごとに一つ、また一つと、私から離れていく。

やがて死ぬ時には全部置いて、独りぼっちで後生に

旅立たねばなりません。

「夢の中

集めた宝 みな置いて

業を荷なうて 独り出て行く」

この世の宝はよりよく生きるのに必要で、

大切なものですが、あくまでもそれは生き甲斐。

真の生きる目的は、死に直面しても変わらぬ無上の宝を得て、

永遠の幸福になることだと、仏教では教示されているのです。

 

 生きる目的は「絶対の幸福」

 

「永遠の幸福」とはどんな幸福なのでしょう。

親鸞聖人は、

「摂取不捨の利益(りやく)」(歎異抄1章)

と教えられています。

「摂取不捨」とは、〝摂(おさ)め取って捨てない〟こと。

「利益(りやく)」とは幸福ですから、〝ガチッと一念で

摂め取って、永遠に捨てられぬ絶対の幸福〟をいわれます。

必死にかき集めた宝を全て手離す死が来ても、

大安心、大満足の命を全うし、

光明の浄土に往くことができるのです。

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そんな身に救われるのは、「どんな人も絶対の幸福に救う」と

誓われた大宇宙最高の仏さま・阿弥陀仏の本願があるからです。

阿弥陀仏とは、2600年前、インドに登場された釈迦が、

「私の本師・師匠である」

と紹介された仏さま。

その阿弥陀仏の本願とは、本師本仏の阿弥陀如来の本当の願い、

本心からの熱い願いのことで、

「すべての人に

無上宝珠の名号を与えて

必ず絶対の幸福に救ってみせる」

という誓願です。

阿弥陀仏はどんな決意でこの本願を建て、

南無阿弥陀仏の「名号」を創られたのか。

経典にはこう説かれています。

 

たとい身を、諸(もろもろ)の苦毒の中に止(おわ)るとも、

我が行は精進にして、忍びて終に悔いじ」 (大無量寿経

たとえどんな苦難にあおうとも、

決して後悔はしないであろう

 

たとい身を諸の苦毒の中に止るとも

とは、阿弥陀仏は、苦しみ悩める群生海(すべての人)を

救うためならば、たとえご自身がどんな苦難にあっても

構わない。

いかなる苦毒も耐え抜いて、必ずわが願いを果たす力のある名号、

南無阿弥陀仏を創り、与えて助けてみせると仰っています。

我が行は精進して」とは、

万人を絶対の幸福にする力のある南無阿弥陀仏を

完成するために、全身全霊、目的に向かってまっしぐらに

精進するぞ、ということ。

忍びて終に悔いじ」とは、

どんなにつらくとも耐えて南無阿弥陀仏を成就し、

すべての人を助け切るまでは努力を怠らぬ、

決して後悔はしないということです。

こんな崇高な願いによって創られた名号だから、

「南無阿弥陀仏」には万人を救う絶大な力、功徳、

働きがあるのです。

名号六字が、どんな病気も治す万能薬に例えられるゆえんです。

この南無阿弥陀仏の宝は、遠い昔すでに弥陀のお手元に

完成しています。

そして今、現に私に与えようと、

阿弥陀仏は力尽くされているのです。

 

わずか100年ほどの人生しか知らぬ者に、

未来永劫変わらぬ最高の幸せに生かす大宝は

想像も及ばない。

しかしそんなすごい宝を阿弥陀仏は、

「おまえのために創ったのだ。どうか、

そのまま受け取ってくれ、絶対の幸福になってくれ」

と惜しげもなく差し出していらっしゃるのです。

 

  名号によって救われる

 

では「南無阿弥陀仏」の宝はどうすれば頂けるのでしょう。

お釈迦さまは、

 

聞其名号 信心歓喜

(その名号を聞いて、信心歓喜する)

 

と阿弥陀仏の御心を解説なさっています。

「聞信」ともいいますが、名号は、

聞く一念に弥陀より賜るのです。

これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」ともいいます。

弥陀の本願(第18願)に救われることであり、

その本願によって成就した南無阿弥陀仏を賜ることだと、

蓮如上人は『御文章』に教示なさっています。

 

信心獲得すというは、第18の願を心得るなり。

この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり

                 (5帖目5通)

当流の安心(あんじん)の一義というは、

ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり

                 (5帖目9通)

色も形もない名号の大功徳を、私の心に頂くので、

これを「仏凡一体」(仏心〈名号〉と凡心〈私の心〉が

一体になったこと)ともいわれます。

 

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。

南無阿弥陀仏の主になるというは、信心をうることなり。

また当流の真実の宝と言うは南無阿弥陀仏、

これ一念の信心なり」    (御一代記聞書)

 

弥陀に救われれば、南無阿弥陀仏の主になるのだ。

南無阿弥陀仏の主になるとは、信心を獲ることである。

浄土真宗で真実の宝とは南無阿弥陀仏だ。

これは弥陀より賜る一念の信心である

 

真実の宝である南無阿弥陀仏の名号を賜って、

絶対の幸福に救われることこそが、

万人の生きる目的であります。

だから私たちが、日々、親近し礼拝する御本尊は

「名号」でなければならないと、親鸞、蓮如上人両聖人は

教えられています。

「本尊」とは字のごとく、根本に尊ぶべきもの。

蓮師(蓮如上人)はこう教えられています。

 

「他流には『名号より絵像、絵像よりは木像』というなり。

当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」

                  (御一代記聞書)

(浄土真宗以外の教えでは、本尊は名号よりも絵像、

絵像よりは金ぴかの木像が有り難く拝めるから最もよいと言う。

しかし、浄土真宗の正しい御本尊は名号である、

と親鸞聖人はおしえられている)

 

しかし果たして現今の浄土真宗は、

この教導どおりでしょうか。

「名号」よりも「絵像」や「木像」が圧倒的に多いのが

現状ではありませんか。

「名号を与えて救いたもう」阿弥陀仏の御心を

正しく知らねばなりません。

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