SSブログ

人間死んだら無になるのか? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
「死んだらおしまい」とも言うように、
私は死んだら無になると思っています。
「死んだらどうなるか分からない心」は、
人生の中でほとんど重要性を持たない心だと
思いますが、いかがですか。
           (茨城県・60代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
日々生きることに精一杯で、死んだらどうなるか、
考えたこともないという人がほとんどでしょう。
また死ねば無になるだけ、
死んだ後のことなど考えてもしかたない、
と思う人もあるでしょう。

ところが親鸞聖人は「死ねばどうなるか」の答えを、
わずか9歳で仏門に入られたことが、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』第1巻に描かれています。
4歳で父君を、8歳で母君を亡くされた
松若丸(親鸞聖人)は、野辺送りのあと、
伯父の藤原範綱卿(ふじわらのりつなきょう)と
夕焼け空を見ておられました。

EPSON064.jpg-1.jpg

範綱 「とうとう一人になられたなあ」

松若丸は黙ってうなずき、
飛んでいく雁の群れを見ながら、
問いかけられます。

松若丸 「どこへ行くんでしょう」

範綱 「雁も、うちに帰るんだろう」

松若丸 「いいえ伯父さま。
    人は死ねばどこへ行くのでしょうか」


範綱 「ん?うーん、どこか遠い所、だろうなぁ」

松若丸 「どんな所でしょうか。遠い所、とは」

範綱 「どんな所かと言われてもなあ」

松若丸 「死ねばどうなるんだろう」

答えに窮した範綱卿は
「ともかく松若丸は藤原家の跡取りとして、
しっかりとやっていかなければ」
と話題をそらすのでした。

EPSON064.jpg-2.jpg

養和元年(聖人9歳)。
範綱卿に手を引かれ、
青蓮院の石段を上っていかれる
松若丸の姿がありました。

範綱 「どうしても出家したいのか」

問う範綱に、松若丸はこう答えられます。

松若丸 はい。次は私が死んでいかなければならない
      と思うと、不安なんです。
      
何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです。
      どうか、お許しください

かくて聖人は、即日出家なされたのでした。

果たして死の問題は、
私たちの人生にほとんど影響のない
小さなことなのでしょうか。
こんな話があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・
抹香くさいことが、大嫌いな男がいた。
「坊主の顔を見るのがイヤだ。
オレが死んだら葬式など、
ムダなことは一切やるな。
遺体はどこかで焼いて、
空からパーッとばらまくか、
それも面倒なら、川かなんかへ流してくれ」
これがいつもの公言だった。

ところが、この世は老少不定。
不幸にも、その男より先に、
かわいがっていた一人息子が急死したのだ。

悲しみにうちひしがれたその男は、
遺体をきれいに拭いて着飾らせ、
大嫌いだった寺へ行き、
「住職さん。最愛の息子の供養に、
ひとつ盛大な葬式をしてやってください」
と頭を下げた。
葬式も済ませ、遺骨は寺の墓地に納めた。
その日は雪だった。
墓にやってきた男は、墓石に積もった雪を、
手できれいに払いのけ、
持参したミカンやお菓子を供えて手を合わせ、
「息子よ、さぞかし寒かろう。さあ、おあがり」
と、生きている者に話しかけるように言って、
いつまでも墓前を去ろうとしなかったという。

この人は、にわかに死後の世界を
認めるようになったわけではないでしょう。
ただ、そうせずにおれなかった。
悲しみに狂わんばかりの自分を、
盛大な葬式や墓参で、
支えずにおれなかったのです。
ここに私たちは、いかんともしがたい
感情の動物性を見るのです。

「死んだ後が有るか無いかは知識の問題、
死んだ後助かりたいかどうかは人間の問題である」

といわれます。

ふだんは「死んだら死んだ時さ」と言っている人も、
ある日、健康診断で黒い影が
見つかったらどうでしょう。

「念のため精密検査を」
と大病院を指定され、
「ご家族はおられますか」と聞かれたら。
もしかしたら死に直結する病ではなかろうか・・・。
医師の一挙手一投足に一喜一憂し、
今まで楽しんでいたゴルフや晩酌も、
一瞬で色あせ、
光を失ってしまうのではないでしょうか。

EPSON065.jpg-1.jpg


ガンと10年闘って世を去った、
岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は
こう言っています。

「人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、
傷つきやすい、みかけの幸福であるかどうかは、
それを、死に直面した場合にたたせてみると、
はっきりいたします。(中略)
今まで、輝かしくみえたものが、
急に光を失って、
色あせたものになってしまいます。
お金では、命は、買えない。
社会的地位は、死後の問題に、
答えてはくれないのであります

              (『死を見つめる心』)
そして、大問題になるのは「死後どうなるか」だけだと、
次のように述べています。

「生命を断ち切られるということは、
もっとくわしく考えると、どういうことであるか。
それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、
たしかである。
呼吸はとまり、心臓は停止する。(中略)
しかし、生命体としての人間を構成しているものは、
単に、生理的な肉体だけではない。
すくなくとも、生きている間は、
人間は、精神的な個と考えるのが常識である。
生きている現在においては、
自分というものの意識がある。
『この自分』というものがあるのである。
そこで問題は、『この自分』は、
死後どうなるかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる」
(同)

これはただ、末期のガン患者に
限ったことではありません。
どんな生き方をしようと、
誰にでも死は確実に訪れます。
それは万人が直面しなければならない問題であり、
何人(なんびと)もこの問題から
逃げ切ることはできません。
病気が怖い、老いが怖い、
災害や原発が恐ろしいと騒ぐのも、
根底には死があるからでしょう。
死という核心に触れることを避け、
それらに衣を着せて
対面しようとしているにすぎません。
意識しようとしまいと、
人生の全体はこの死の不安に
覆われているのです。

そのままで本当に、
真の生の充実を味わうことができるでしょうか。


仏教に「生死一如」という言葉があります。
一如とは、紙の表と裏のように
切っても切り離せないこと。
生きている我々の100パーセントの行く先が
死ですから、
その未来が暗くして、今
を心から楽しめる道理がありません。

飛行機でいえば、機内で映画や音楽、
食事など空の旅を楽しめるのは、
「5時間後にはホノルル空港だ」
「あと8時間でロサンゼルスに到着する」
と、行く先がはっきりしているからこそです。
もし機長から、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
「皆さん、当機はただ今、
順調に航行しておりますが、
降りるところがありません。
燃料はあと5時間ほどでございます。
その間どうぞ、空の旅をゆっくりとお楽しみください」
皆、不安で狼狽し、

何はさておき無事降りる場所はないかと、
必死に求めるのではないでしょうか。


EPSON066.jpg-1.jpg


死後がハッキリしないのは、
行く先分からぬ飛行機の乗客と同じ。
これほどの大事は人生にありませんから、
仏教では、「生死の一大事」とも「後生の一大事」とも
いわれるのです。

この確実な未来を「往生一定」と
明らかにするのが仏法の目的です。
弥陀に救われ、いつ死んでも
無量光明土間違いなしとハッキリすれば、
この世から光明の広海に浮かぶ
素晴らしい人生となりますから、
そこまで聞いてください。
(無量光明土とは、阿弥陀仏の極楽浄土のこと)


nice!(19)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 19

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。