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阿弥陀仏の救いは、だんだんではなく、即時に決する [阿弥陀仏]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時に必定に入る)

(親鸞聖人の書かれた正信偈のご文です。 )

 

「弥陀仏」とは、本師本仏の「阿弥陀仏」のことです。
大宇宙にまします無数の仏方(十方諸仏)の師であり、
平たく言えば、一番偉い仏さまです。
「阿弥陀如来」とも「弥陀」とも言われます。
大宇宙最高の仏さまですから、
親鸞聖人は「無上仏」とも仰って、
広大なご威徳を讃仰なされています。
「本願」は「誓願」とも言われるように、
「誓い」であり「約束」のこと。
「弥陀仏の本願」とは、大宇宙の仏方の師である阿弥陀仏が、
「どんな人も われをたのめ 必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているお約束をいうのです。

『歎異抄』冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
とある「弥陀の誓願」も、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。

●阿弥陀仏は、なぜ本願を建てられたのか

私たちは毎日、何を求めて生きているのでしょうか。
“夢を実現するため”“まずは就職”“家族を養う”
“晩酌だけが明かりだ”“健康が一番”など
答えは十人十色ですが、
いずれも「幸福」を求めてのことでしょう。
少しでも不安を無くして明るく生きたい。
充実感が欲しい。
つまらない人生より楽しいほうがいい。
すべての人は、幸せになりたくて生きているのです。
これに異論を唱える人はないでしょう。
政治も経済も、科学も医学も、
芸術もスポーツも、法律も倫理も道徳も、
あらゆる人間の営みは、「どうすれば幸せになれるか」
の追求以外にありません。

ところが、現実はどうでしょう。
政権交代や内閣改造によって
私たちの人生の何が変わったでしょうか。
科学の進歩に比例して、
「幸せ感」もアップしているでしょうか。

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1950年代、日本でテレビ放送の始まった当初は、
一台20万という価格が
平均サラリーマンの年収に匹敵したため、
街頭テレビに多くの人が群がっていました。
テレビのある裕福な家庭には、
プロレス中継など人気番組に
近所中が寄り合い、歓声をあげていたそうです。
やがて量産され低価格になると爆発的に普及し
「一家に一台」、電気冷蔵庫・洗濯機と合わせて
“三種の神器(じんぎ)”と言われるようになりました。

放送開始から半世紀を経た今、
手元のパソコンや携帯電話、
また浴室や移動の車中でも
見ることができる、「一人に一台」の時代です。
画面は白黒からカラーへ、
ブラウン管から薄型液晶へ。
より精細な画質をとフルハイビジョンへ。
地デジ化の推進も、きれいな画像だけでなく、
データ通信によって視聴者が番組に参加できる、
通販を見ながらリモコン・ショッピングなど、
さまざまなメリットが訴えられています。
さらに現在、メーカー各社が鎬を削っているのが
“飛び出す映像”3D。
(平生23年の記事を載せています)
手で触った感覚まで再現しようとしているのですから、
驚きです。
そのうち、料理番組ではテレビから香りが漂い、
画面のゲストたちと一緒に試食できる時代が
来るかもしれません。
物が豊かになり、暮らしが快適になれば
「幸せ」になれる。
「便利」イコール「幸福」と信じて私たちは、
常に“ワンランク上の生活”を目指してきました。

では、それで真の満足を得られたでしょうか。
“世の中は 一つかなえば また二つ
    三つ四つ五つ 六つかしの世や”
と歌われるように、どこまでいっても満足できない、
何を手に入れても安心がない。
結局どこにもたどり着けないまま、
ゴールのない円周をグルグル回り続けているような感覚に
苛(さいな)まれてはいないでしょうか。

阿弥陀仏は、このように本当の安心も満足もなく、
苦から苦、闇から闇へとさまよい続けている私たちを
ご覧になられて、
「何のために生まれ、生きているのか、
分からないではないか。何としても助けたい。
人間に生まれてよかったと生命の大歓喜を与えてやりたい。
一人残らず、必ず本当の幸福に救ってみせる」
と、ただお一人立ち上がってくだされたのです。

この熱い誓いが「阿弥陀仏の本願」であり、
親鸞聖人は“苦海に人生を明るく渡す船”
に例えて、こう宣言されています。

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
        (高僧和讃)

“苦しみの波の果てしない海に、
永らくさまよい続けてきた我らを、
弥陀大悲に願船だけが、
必ず乗せて渡してくださるのだ”

●まことなるかなや、弥陀の本願

次に「憶念」とは、「憶」も「念」も「おもう」ということです。
「念」は“明記不忘”とも言われ、
手帳にハッキリ記して忘れないように、
途切れることなく思い続けること。
弥陀の誓いに疑い晴れて、
大安心大満足に救い摂られた心が
途切れることなく続くのが「念」です。
この「念」から、縁にふれ折にふれ、
弥陀のご恩が時々思い出され喜ばれ、
合掌感泣させられるのが「憶」です。
例えると、「念」は地下水、
「憶」はその地下水から湧き出る井戸の水のようなもの、
といえるでしょう。
井戸から水が出るのは、地下水脈があってのこと。
地下水がなければ、どれだけ深く井戸を掘っても、
水は出てきません。
豊かな地下水があるからこそ、
所々に掘った井戸から、水が湧き出るのです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、
超世希有の正法」(教行信証)
“まことだった!本当だった!
絶対の幸福に救う弥陀の本願、ウソではなかった”
と救い摂られた人は、
必ず「どうしたらこのご恩に報いることができるのか」
という心がおきることを聖人は、
「憶念の心つねにして仏恩報ずるおもいあり」
と和讃されているのです。
無論、弥陀の本願に救われなければ「憶」も「念」も
ありませんから、
「憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば)」
とは、
「阿弥陀仏の誓いどおり、
絶対の幸福に救い摂られたならば」
と言われている一行です。

●「他力」の正しい意味は

続いて「自然」とは、「しぜん」と書いて、
仏教では「じねん」と読みます。
「他力」のことです。
世間では「他力」というと、他人の力や、
天地自然の力と思われています。
常識的に解釈して、
自分の力以外をすべて他力と思い、
太陽の働きや、雨や風や空気、その他自然の働きや、
自分以外の人間の力などすべてを
他力だと思っているのですが、
とんでもない他力間違いです。
なぜなら、もし太陽やその他の自然現象を
すべて「他力」としますと、
阿弥陀仏が、時には干ばつで人間を
苦しませることになります。
地震によって我々の生命を奪ったり、
台風で人命をおびやかしたり、
財産を失わせたりする、呪いニクムべき、
悪魔になることがあるということになります。
これらすべて他力、阿弥陀仏のお力とすることは、
大慈大悲の阿弥陀仏に対する
どんでもない濡れ衣であり、
大変な冒涜といわねばなりません。
勿論、自然の力や人々の協力の恵みに対して
感謝の気持ちを持つことは
結構なことではありますが、
これらは自然の力であり、
人間の力と言うべきもので、
絶対に他力といってはならないのです。

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「他力」の語源は仏教ですから、
仏教の意味に従わなければなりません。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「『他力』と言うは如来の本願力なり」
と仰っています。
私たちをこの世から
未来永遠の「絶対の幸福」に救い摂る、
阿弥陀如来の本願力のみを
「他力」といわれるのです。

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この弥陀のお力(他力)を、
『正信偈』のここでは「自然(じねん)」
と仰っているのであって、
決して山や川や天候、
大地・宇宙の運行のことではありません。
無論「自然食品」などという時の“
有機・無農薬”のことでないことも、
お分かりになるでしょう。
(ある新聞で実際、そんな解釈をしている記事に
引っくり返ってしまいました)
さらには、「自然に」を「いつとはなしに」「気がつかないうちに」
「なんとなく」という意味で理解し、
「弥陀に救われるのは、いつとはなしだ」
「救われても自覚がないことを
『自然に』といわれている」
などと嘯く(うそぶく)人も少なくないのですが、
これもまたとんでもない誤解であることは、
次の「即時」の意味を知れば鮮明になるでしょう。

●弥陀の救いはだんだんではない

「即の時」とは「一念」のことです。
「一念」とは、親鸞聖人が
「時剋の極促」と仰っているように、
アッともスッとも言う間もない瞬間、
何兆分の一秒より短い時間の極まりをいい、
弥陀の救いの極めて速いことです。
「必定(ひつじょう)」は、「
必ず仏になれる身」のことで、
五十二位あるさとりの中でも、
下から数えて五十一段目、
あと一段で仏という位をいいます。
「正定聚(しょうじょうじゅ)」ともいわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえることも、
繰り返し述べてきました。
今日あって明日どうなるか分からない、
薄氷を踏むような儚い幸せではなく、
地震・洪水・病気・事故、どんなことがあっても
絶対に裏切られない大安心大満足の身になったことを、
「必定(ひつじょう)に入(い)る」
と言われているのです。
その「絶対の幸福」に救われるのは、
「だんだん」でもなければ
「いつとはなしに」でもない、
本願に疑い晴れた一念で
救い摂られるのだよ
と、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「自然(じねん)に即の時に必定に入る」
“弥陀の本願力によって、
一念で絶対の幸福(必定)になる”
と朝晩の勤行(おつとめ)で教えられ、
同じく蓮如上人は「聖人一流の章」に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
“弥陀に救い摂られた一念に、
絶対の幸福(正定聚)になるのである”
と教示されているのです。

まとめますと、
「憶念弥陀仏本願
自然即時入必定」
の二行は、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、
弥陀のお力によって、一念で絶対の幸福、
“いつ死んでも浄土で仏になれる身”になるのだ」

と教えられているお言葉であり、
早くその身になってもらいたい、
真剣に仏法を聞きぬけよと、
勧めておられるお言葉です。

では、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と
口に称える「念仏」とは何なのか。
厄除けか、何かのまじないか。
世間では、「念仏称えれば
救われると教えたのが親鸞聖人」と、
教科書にまで記述され、
それが常識になっているのですが、
聖人は「念仏」について、
どう教えられているのでしょうか。

「弥陀に救い摂られた感謝報恩である」
と言われ、あくまでもお礼であり、
称えて救われるものでは断じてないのです。


 


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