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清浄光の働き [阿弥陀仏]

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

 

ここで親鸞聖人は、阿弥陀仏のもの凄いお力を
絶賛なされています。
阿弥陀仏は大宇宙くまなく、無量光・無辺光
・無碍光・無対光・光炎王光・清浄光・歓喜光
・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光
という十二の光明を放って

無数にある地球のような世界のすべての人々を、
照らしてくだされる。

その絶大なご念力に照育されて親鸞、
救い摂られることができたのだ。
なんという幸せ者なのか。
深重なる弥陀のご恩徳に、感泣せずにおれない」
弥陀に救われた聖人の慶びが、
一言一句にみなぎっています。

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では「弥陀の救い」とは、どんなことでしょうか。
それを知るために、まず『正信偈』とはどんなお聖教か、
お話ししましょう。
親鸞聖人が『正信偈』を書かれたお気持ちは、
「どうか皆さんに、知ってもらいたいことがある。
私亡き後の世の人々にも、なんとかして伝えたいことがある」、
これ以外にありませんでした。

「そのためにはどう書いたらよいのか、
どう表現したら分かってもらえるだろうか」
と、一字一涙の思いで筆を執られたのが
『正信偈』です。

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その「知ってもらいたいこと」とは、
何であったのか。
『正信偈(しょうしんげ)』という名前に明らかです。
「正信」は「正しい信心」、「偈」は「うた」ということですから、
『正信偈』は「正しい信心を表された偈」ということ。
親鸞聖人が、私たちに「なんとしても伝えたかったこと」
とは、「正しい信心」一つであったのです。

●「正しい信心を獲得せよ」
       聖人90年のメッセージ

せっかく聖人が「伝えたい」と言われても、
中には「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと
思われる人もあるかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけないのです。

例えば、明日も生きておれると、命を信じて生きています。
いつまでも達者でおれると健康を信じております。
夫は妻を、妻は夫を信じ、
子供は親を、親は子供を信じて生きております。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。
宗教を否定する共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。
神や仏を信ずるだけが信心ではありません。
何かを信じておれば、それはその人の信心です。

何を命として信ずるかは一人一人違ってましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きているのです。
生きるということは、イコール信ずることだということです。

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ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時に
苦しみ悩みます。

病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
子供に老人ホームに入れられて泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからです。
しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。
こんな事件がありました。

米ロサンゼルス郊外の住宅で、
元ファンド投資家の男(45)が妻子ら5人を殺して
自殺する無理心中事件があった。
妻(39)と義母(69)のほか、19歳、12歳、7歳の息子3人の
計5人を自宅で射殺。
自殺した男を含めて6人の遺体が発見された。
遺書には、家計悪化が無理心中の理由だと説明。
捜査当局は、株価急落を目の当たりにして
家族殺害を決意したとみている。
男は過去に企業ファンド投資家として巨額の利益をあげ、
英紙に「勝ち組」として取り上げられたこともあったという。
急激な米経済の悪化を背景にした悲劇に衝撃が広がっている。
(平成20年12月のとどろきです。)

信じていたものに裏切られた懊悩(おうのう)は、
人を自殺や心中にまで走らせるのです。

●本当の幸福になりたければ

私たちは決して、苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではないし、生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
私たちは最後、死なねばなりません。
いよいよ死ぬ時には、信じていた家族や、お金や財産、
名誉にも裏切られ、この肉体さえも焼いていかねばなりません。
蓮如上人はこう訓戒されます。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
                   (御文章)
“病にかかれば妻子が介抱してくれよう。
財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、
日頃、あて力にしている妻子も財宝も、
いざ死ぬ時には何ひとつ頼りになるものはない。

一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、
一体、どこへゆくのだろうか

やがて必ず裏切られるものを信じて生きているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない
正しい信心を獲なさいよと、親鸞聖人は教えているのです。

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正信偈の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは「一つしかない」ということです。
二つも三つもあるものではありません。
そのただ一つの正しい信心を、
親鸞聖人が明らかになされたのが、
この『正信偈』です。冒頭の、
「帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました。
不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている2行は、「正しい信心」を阿弥陀如来から賜って、
永遠に変わらぬ無上の幸せに救い摂られた聖人が、
その自身の実体験を、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!」
と絶叫されているお言葉なのです。

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では、すべての人に「正信心」を獲得させ、
絶対不変の幸福に救いたもう弥陀のお力とは、
いかなるものなのか。

聖人が続けて『正信偈』に懇切に説き明かされているのが
「十二光」です。
「光」とは仏教で「仏さまのお力」を表し、
「光明」ともいわれます。
「十二光」とは、本師本仏の阿弥陀仏のお力を、
十二の特長に分けて教えられたもの。

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その中、5番目の「光炎王光」まで述べてきました。
今回は、次の「清浄光」についてお話しいたしましょう。

●清浄光

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「清浄光」とは、貪欲(欲の心)を照らしてくだされる、
弥陀のお力のことです。
「ヘソのない人がいても、欲のない人はない」
といわれるように、
私たちは、「あれが欲しい」「これも欲しい」
という欲の心一杯。
無ければ無いで欲しい。
有れば有るでもっと欲しいと、際限もなく求める心です。
食いたい、飲みたい、金が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、
褒められたい、楽がしたい、眠たい。
満足を知らず、どれだけ手に入れても足りない。
欲深い人のことを、「あいつは汚い人だ」といわれるように、
欲は「汚い心」。
「汚い」というのは外見のことではなく、
欲の心が深いことをいうのです。

道警札幌中央署が25日、札幌市中央区の無職男(71)を
窃盗の疑いで現行犯逮捕した。
男は生活保護を受給しており、
犯行時、財布に約75万円の現金を持っていた。
調べに対し、「自分の金を使いたくなかった」と供述しているといい、
同署は生活費を浮かせて生活保護費を蓄えるために
万引きをしたとみている。
発表によると、男は同日午前11時50分ごろ、
同区内のスーパーでおにぎり、納豆巻き、洋菓子などの
食料品計14点(計約3000円相当)を盗んだ疑い。
男は着ていたジャンパーの中に次々と商品を入れ、
清算せずに店を出たため、気づいた警備員が追いかけて取り押さえた。
同署によると、持っていた現金は、
受給した生活保護費を少しずつためたものとみられ、
2つ折りの財布に入れてポケットの中に所持していた。

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75万円の現金を所持していた人が、3000円の万引き。
自分の金は、一円でも使いたくない。
こんな人のことを「欲深い、汚い人だ」と言いますが、
この人だけのことでしょうか。
自惚れているために分からないだけで、
すべて私たちは欲の塊なのです。

この汚い心を照らし出して、「お前はこんなに汚い心を持っているんだぞ」
と知らせてくだされる阿弥陀仏のお働きを、
清浄光」といわれているのです。

●欲深い私がどうして救われたのか

親鸞聖人は、弥陀の光明に照らし抜かれた自己の姿を、
こう告白されています。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、
名利の大山に迷惑して

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ああ、バカな親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、
大きな山ほどの名利の欲望に、
朝から晩まで振り回されて、
感謝もなければ懺悔もない。
なんと情けないことか

「愛欲」とは、男女の欲や、親子友人との愛情。
その愛したい愛されたい心の多いのを、
広い海に例えられています。
「沈没」とは、「浮かび瀬がなく、完全に沈みきっている」こと。
「愛欲の広い海におぼれ、沈みきっている親鸞だ」
と懺悔されているのです。
次の「名利」とは、「名誉欲」と「利益欲」のことで、
「名誉欲」とは、キレイな人と褒められたい、
能力を評価されたい、悪口言われたくない心。
「利益欲」とは、一円でも多く儲かりたい、
損したくない心。
財産が欲しい、他人の持たぬものを持ちたい。
これらの名誉欲・利益欲が大きな山ほどあって親鸞、
迷惑している」とおっしゃっています。
阿弥陀仏に救われ、ハッキリ照らされ知らされた自己を、
懺悔されているお言葉です。

それまでも、「愛欲、名誉欲、利益欲の深い自分だなあ」
とは思っていますが、
本当の「欲の心」というものがすべて知らされるのは、
弥陀の救いに値(あ)った時。

その汚い心を“汚い心”と照らして懺悔させ、
「こんな欲深い私が、どうして救われたんだろうか」
と喜びに転じてくださるのが、弥陀の「清浄光」の働きです。


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