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弥陀の光明は太陽も、月の光も超越する! [阿弥陀仏]

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀仏に親鸞、救われたぞ
阿弥陀仏に親鸞、助けられたぞ」
と、絶対の幸福に救い摂られた親鸞聖人が、
「どうして極悪の親鸞が、
こんな幸せな身に救い摂られたのか。
それは救いたもうた阿弥陀如来が、
もの凄いお力の仏さまであったからなのだ」

と、弥陀のお力を十二の働きに分けて絶賛されているのが、
この六行です。

「十二光」といわれています。
「光」とは仏教で仏さまのお力を表されます。
前号で「智慧光」まで解説しました。
今回は「不断光」「難思光」「無称光」「超日月光」
について述べましょう。

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不断光

不断光」とは、「途切れることのないお力」
ということです。

一念で阿弥陀仏に救い摂られたことを
「信心決定」とか「信心獲得」「信心を獲る」
といわれますが、
阿弥陀仏から賜ったその「他力の信心」が、
死ぬまで変わらずに続くのです。
弥陀に救い摂られるまで(信前)は、
自分で何とか途切れないように、続かせようとしている。
これを自力といわれます。
「仏法のことを思おう」「忘れないようにしよう」
と努力しているのです。

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ところが、弥陀に救われてから(信後)は、
私が忘れないように努めているのではない、
「他力の信心」が私を死ぬまで導いてくだされる。
仏法のことを忘れている時も、
何を思っている時も「信心」が変わらないのは、
阿弥陀仏の「不断光」の働きによるのです。

蚊取り線香に火をつけると、火の力で最後まで進みます。
火を押して「もっと進め、ここを燃やせ」と努力しなくても、
火はそのまま最後まで燃えるでしょう。
一念の信心の火がつくと、その後、
続かせようとしなくても、
全く仏法と別なことを思っている時も、
信心は死ぬまで続いてくだされる。
救われるまで(信前)とは、まるで逆になるのです。
これもまた例えですが、昔はよく、馬子(まご)が馬を引き、
その馬に人や物をのせて運んでいました。

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この場合、主人は馬子であり、
その主人に馬が引かれている、という状態です。
信前はそのように、私が主人となって、
信心を引っ張ろう、引っ張ろうとしている。
「ほかのことを考えないようにしよう」
「仏法のことを思おう、思おう」としているのです。
ところが、他力の信心を獲得してから(信後)は、
その信心が主人となって、
私が引っ張られ生かされる人生に変わってしまう。
蓮如上人はこれを、次のように教えられています。

「『一念の信心を獲て後の相続』というは、
更に別のことに非ず、はじめ発起するところの安心(あんじん)に
相続せられて、
とうとくなる一念の心のとおるを、
『憶念の心つねに』とも、『仏恩報謝』ともいうなり。
いよいよ帰命の一念、発起すること肝要なり」
と仰せ候なり
               (御一代記聞書)

●難思光

「難思光」とは、文字どおり、「想像もできないお力」
ということです。

食いたい、飲みたい、楽がしたい、
金が欲しい、名誉が欲しい、女が欲しい、
男が欲しいと、自分の欲望を満たす「相対の幸福」
しか思っていない私たちには、「絶対の幸福に救い摂る」
という弥陀の本願力は、想像を超えています。

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「この世はどうにもなれない」「絶対の幸福に助かった、
ということなどあるはずがない」「人生に、完成も卒業もない」
と思い込んでいるすべての人にとって、
「平生の一念に、人生の目的を果たさせる」
という弥陀のお力は、人智を超越していますから、
「難思光」と言われるのです。

●無称光

「無称光」は、「言うことができないお力」
ということです。

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親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた世界を、
何とか伝えようとなされたのですが、
不完全な言葉で伝えることはできないと、
絶望への挑戦であったに違いありません。

この、心も言葉も絶えた世界を、「大信海」と高らかに、
次のように讃嘆されています。

大信海を按ずれば、貴賎・緇素(しそ)を簡ばず(えらばず)、
男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、
修行の久近(くごん)を論ぜず
            (教行信証)
“貴いとか賤しいとか、僧侶とか俗人とか、
男女、老少、罪の軽重、善根の多少など、
大信海の拒むものは何もない。
完全自由な世界である”
と明言し、続いて「非ず」を14回も重ねて、
一切の人智を否定されています。
想像も言語も絶えた「真実の信心」の、
ギリギリの表現に違いありません。

行に非ず・善に非ず・頓(とん)に非ず・漸(ぜん)に非ず、
定(じょう)に非ず・散に非ず、正観に非ず・邪観に非ず、
有念(うねん)に非ず・無念に非ず、
尋常に非ず・臨終に非ず、多念に非ず・一念に非ず。
ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり
              (教行信証)

言葉の絶える笑話があります。
炭火を運ぶ小僧がつまずいて、思わず火の粉が足の上にこぼれた。
アチチ!と飛び跳ねる小僧を面白がって、
いじわる和尚が問答しかける。
「こりゃ小僧。アチチ!とは、いかなることか言うてみよ」
「はぁ、はぁ」
と返事はするが、なんとも言いようがない。
「それぐらい説明できぬようでは、和尚にはなれぬぞ」
と大喝すると、窮した小僧、とっさに残り火を
和尚のツルツル頭めがけてふりかけた。

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「アチチ!アチチ!なにをするか、バカもん!」
和尚たまらず怒鳴りつける。
すかさず小僧、
「和尚さま。アチチ!ということを説明してみなされ。
それぐらい講釈できぬようでは、和尚とはいえませぬ」
と打ち返したという。
月並みの体験でも、その表現に困惑するのがよく分かります。
ましてや言葉にもかからず、文字にも表せず、
思い浮かべることさえできぬ大信海を、
懸命に伝えようとされる聖人ですが、とどのつまりは、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)」
としか言いようがなかったのです。

●超日月光

「超日月光」とは、「日月を超えた光」ということで、
阿弥陀仏の光明は、昼間いちばん明るい太陽の光も、
夜最も明るい月の光も、はるかに超越していることを
讃嘆されているお言葉です。

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「日も月も 蛍の光さながらに
   行く手に弥陀の光かがやく」

これは、先の大戦後、A級戦犯として刑場の露と消えた東条英機が、
死の直前に歌ったものといわれます。

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エリート軍人として駆け上がり、
抜群の記憶力から「カミソリ東条」
と呼ばれていた彼は、独裁内閣を築きました。
戦争を主導し、赫々(かっかく)たる戦果を上げていた時は
騎虎(きこ)の勢いでしたが、
敗戦するや犯罪人として巣鴨刑務所の独房に収監されます。
板敷きの上にワラ布団を置き、毛布5枚のほか、
何も持ち込めない。
そこには、かつての総理大臣、陸相、参謀総長、内務、
文部、軍需、外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もありませんでした。
孤影悄然(こえいしょうぜん)たる姿は、
人間本来の実相を見せつけられた思いであったでしょう。
世人のつけた一切の虚飾をそぎ落とされたそこにあるものは、
か弱き葦のような、罪悪にまみれた自己でしかありませんでした。

戦犯の9割が仏教徒だったことから、
刑務所では浄土真宗の布教使が教誡師として
法話をすることになりました。
東京は30度を越える暑さの中、
風も入らぬ蒸し風呂のような仏間で東条は、
扇子も使わず、身動き一つせずに聴聞していたといいます。
顔からダラダラ流れ落ちる汗を、ぬぐおうともしない東条の真剣さに打たれ、
布教使も汗まみれで法話を続けました。
獄中で親鸞聖人の教えを聞法し、
多生にもあい難い弥陀の本願を喜ぶ身となった東条
は、
よく『正信偈』を拝読し、人にも勧めていたといいます。
(※弥陀の本願喜ぶ身とは、弥陀に救われたこと)
それで、弥陀のお力を「超日月光」とも
言われることを知っていたのでしょう。

絞首台の階段を上る前に、残した辞世が先の
「日も月も蛍の光さながらに」の歌です。
この世で最も明るい日の光も、はるかに超え勝れている弥陀の光明を、
親鸞聖人は「超日月光」と言われているのです。

●すべての人が救われる

阿弥陀仏は、これら十二の光を大宇宙に普く放って、
塵刹を照らしてくだされているのだよ

と言われているのが、

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
の5行です。
「塵刹」とは、「チリのような世界」ということ。
大宇宙の中では、この地球も塵芥(ちりあくた)の一つに過ぎません。
宇宙はちょうど、大きな部屋にたくさんの塵が
浮かんでいるようなものです。
カーテンのすき間から陽光が差し込んで、見えることがありますね。
地球は、浮かんでいる塵の一つ。
そこに70億人の人が住んでいるのです。
「塵刹を照らす」とは、その大宇宙のすべての世界を
照らしてくだされている、ということです。そして、
「すべての人が、このような弥陀の光明のお育てにあずかって、
必ず無碍の世界へ出させて頂くことができるのだ。

皆人よ、どうか親鸞と同じように、
『帰命無量寿仏如来 南無不可思議光』と叫ばずにおれない身に、
早くなってもらいたい」
と、阿弥陀仏の偉大なお力を讃えられている、
『正信偈』のお言葉です。


 


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