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「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」弥陀の大慈悲 [阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」

       弥陀の大慈悲

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし  (親鸞聖人・恩徳讃)

 

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報い切れない。

その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、

骨を砕いても済みませぬ

 

最高の仏さまが、私たちとなされたお約束

 

今月も親鸞聖人の「恩徳讃」についてお話しいたします。

報恩の情あふれる「恩徳讃」。

身を粉に骨砕いても報い切れぬと、

感泣される感謝法悦の聖人がまぶたに浮かぶ和讃です。

親鸞さまは、一体どなたから、どのようなご恩を

受けられたのでしょう。

最初に親鸞聖人が言われている「如来」とは

「阿弥陀如来」という仏さまのこと。

「大悲」とは「大慈悲心」ですから、

「大慈悲心を持たれた阿弥陀如来から

返し切れぬ洪恩を受けているのだ」と言われています。

阿弥陀如来については、『御文章』に、こう示されています。

 

阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり

               (2帖目8通)

三世十方の諸仏とは、大宇宙にまします数え切れないほどの仏方。

本師本仏とは、先生、師匠のことですから、

阿弥陀如来はすべての仏の師であり、指導者なのです。

その弥陀がなされているお約束がある。

これを「阿弥陀如来の本願」といいます。

『大無量寿経』というお経に漢字36文字で書かれており、

今日の分かりやすい言葉に直しますと、

どんな極悪人も、聞くだけで、必ず絶対の幸福に救い摂る

というお誓いです。

 

一人でケンカはできないように、約束には相手が必要。

弥陀の約束の相手は、すべての人(十方衆生)です。

日本の首相は日本人と、アメリカの大統領はアメリカ人と

約束しますが、阿弥陀如来の約束の相手は、

老若男女一人も漏れぬ「大宇宙のすべての人」ですから

スケールが全く違います。

こんな広い約束はほかにありませんので、

「弥陀の本願」のことを「弘誓」とか「大弘誓」とも

聖人は言われています。

 

約束をするには相手をよく知らねばなりません。

銀行はお金を貸す時、信用できる相手が否か、

勤め先や経歴、資産や担保の有無など、

詳しく調べるでしょう。

百万円より一千万円、一千万円より一億円と、

金額が大きくなるほど調査は綿密になります。

また、医者が病人を「必ず治します」と約束するのは、

どれほどの病なのかをよく診断したうえでのこと。

大事な約束であればあるほど、相手をよく調べるものです。

 

●すべての人は、極悪人!?

 

医師が患者の精密検査をするように、

阿弥陀如来は万人の真実の相(すがた)を、

つぶさに調べられました。

悲観でも楽観でもなく、ありのままの相を

厳密に見て取られたのです。

その間、五劫という気の遠くなるほどの時間をかけられました。

結果はどうであったのか。

『御文章』に、次のように教えられています。

 

十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の

悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

                (2帖目8通)

 

「十悪・五逆の罪人」とは、仏さまは私たち人間を、

罪や悪を造り通しの者と見抜かれたのです。

「十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」とは、

「大宇宙の仏方が何とか救ってやりたいと、

慈悲心をおこしてくだされたが、

私たちの罪業があまりにも深く重く、

とても助けることはできないとさじを投げてしまわれた」

ということです。

肉眼ならば、きれいに思える手のひらも、

微細なものまで映し出す顕微鏡だと、さまざまな雑菌が見える。

人の目からなら「善人」と思われる人も、

顕微鏡のごとき仏眼に映れた相は、「極重悪人」

「一生造悪」であったと親鸞聖人も『正信偈』に

教えておられます。

「そんな悪いことした覚えはない。それどころか人のために

尽くし、近所でも評判だ」

と思われるかもしれません。

では、どのような罪を犯しているのか、

仏さまにお聞きしましょう。

 

阿弥陀仏は、すべての人は「五逆と法謗の者」と

見抜かれています。

「五逆罪」「謗法罪」を造っている者ということです。

まず「五逆罪」から見ていきましょう。

 

●親を殺すという罪

 

五逆罪とは5つの恐ろしい罪のことですが、

中でも最初に挙げているのが親殺しの罪です。

私たちは両親から大変なご恩を受けています。


最近、こんな話がありました。

仕事募集の広告に集まった人たちへ

面接官から説明が行われている。

ところがそれはあまりにも苛酷な条件だった。

「ほぼ全ての時間、立ち作業で、とても体力を必要とする」

「仕事は週に135時間以上、基本的に週7日、毎日24時間」

「休憩時間は実質なし」

「徹夜の日もある」

「プライベートな時間は諦めてもらう」

「ボランティアのような感じで完全無給」等々・・・。

次々に繰り出される条件に応募者たちは〝ありえない!〟

〝非人道的だ!〟と騒ぎ立てた。ところが面接官は

「もし現実に、今この瞬間も、この職に

就いている人がいるとしたら?」

と問いかける。応募者が怪訝そうに

「いったい誰?」

と尋ねると、面接官はにこやかに

「お母さんですよ」

と答えた。この面接は「母の日」にちなんで

行われた企画だったのです。

とても考えられない苛酷な労働を、

母親は無償でやり続けてきたことを、

このキャンペーンで多くの人が知り、

心から感謝したといいます。


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私たちは、赤ん坊の頃に、お乳を飲ませてもらったり、

おむつを取り替えてもらいました。

病気になれば寝ずに看病してもらったり、

離れて暮らせば、いつも心配してもらって成長してきたのです。

そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、

人間の心を持たぬ鬼の仕業ではないかとさえ思われましょう。

仏教では、このような親殺しの大罪は無間地獄へ堕つる

恐ろしい無間業であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、このように手にかけて殺すばかりが

親殺しではないのだよと、

 

親をそしる者をば五逆の者と申すなり (末灯鈔)

 

と言われています。親をそしるのも五逆の罪なのです。

「早く死んでしまえ」などと言うのは無論、

「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも

親を殺しているのです。

また、仏教では、

「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」

と言われるように、体や口よりも心を最も重く見られます。

「殺る」とは体で殺すことですが、もっと恐ろしいのは

心で殺す罪だと言われます。

一つ屋根の下で暮らしておりながら、

ろくに口もきかず、食事も別々に取り、

呼ばれても聞こえないふりして親を邪魔者扱いしているのは、

心で親を殺しているのです。

親が病気にでもなり寝たきりになったらどうでしょう。

世話を嫌って、「邪魔だなあ」「いい加減に死んでくれたら」

という心が噴き上がってきます。

とても他人には言えない心が出てはこないでしょうか。

 

かつて、女手一つで、4人の男の子を大学まで出させ、

一流企業に入社、結婚させたお母さんの悲劇が報道されていた。

その4人の兄弟夫婦が集まり、年老いた母の面倒を

誰が見るか、ということで深夜まで激論したが、

誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。

その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、

翌朝、電車に飛び込み、自殺した。

手にかけて殺してはいなくとも私たちは、

心でどれだけ親を殺しているか分かりません。

誰しも今まで一度や二度は

「こんなに苦しいのなら死んだほうがましだ」

と思ったことがあるでしょう。

「死んだほうがましだ」と思うのは、生みさえしなかったら

こんな苦しまなくてもよかったのにと、

心で親を殺しているのです。

親鸞聖人が、「私は五逆の者だ」と懺悔されているのは、

このような心からなのです。

しかも

縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だ

(さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし)

と聖人は『歎異抄』に告白なされています。

何をしでかすか分からない業因を、私たちは持っている。

そんな者だから、諸仏方から捨てられてしまったのです。

 

●極悪を 捨てず裁かず 摂め取る

 

では私たちは助からないのか。

そうではありません。こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、

なお救わずにはおれないと立ち上がられた

仏さまがお一人まします。

それが本師本仏の阿弥陀仏です。

「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」

大慈大悲の阿弥陀如来は、どんな極悪人も無条件で救うお誓いを

建ててくださいました。

この、底無しの弥陀の大慈悲によらなければ、

金輪際助からないのが私たちであります。

先に掲げた『御文章』は、こう続きます。

 

弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を

発(おこ)して             (2帖目8通)

 

「超世の大願」とは、罪業深重の私たちを、

現在ただ今から、永久に変わらぬ絶対の幸福に救うと

誓われた弥陀の本願のこと。

それは、諸仏も到底なしえない優れた誓いですから、

「世を超えた偉大な願(超世の大願)」

と言われています。そういう大変なお力を持たれた阿弥陀如来を、

「本師本仏だ。われらの尊い先生だ」

と十方・三世の諸仏(すべての仏)が

褒めたたえられているのです。

その弥陀の本願どおりに救い摂られた聖人は、

「弥陀が五劫という長い間、熟慮に熟慮を重ねて

お誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、

全く親鸞一人のためだった。

こんな計り知れぬ悪業をもった親鸞を、

助けんと奮い立ってくだされた本願の、

なんと有り難くかたじけないことなのか」

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

                (歎異抄)

 

と感嘆されています。

親鸞聖人が「恩徳讃」に言われる「如来大悲の恩徳」とは

このような大恩なのです。

「こんな五逆の悪人を、そのまま絶対の幸福に

救い摂ってくだされた弥陀の本願。

その大恩に報いずにおれない」

と立ち上がられた親鸞聖人のご一生は、

「報恩」の二文字に貫かれていました。

谷深ければ山高し。罪の深さが知らされるほど、

救われた歓喜もまた大きい。

それはそのまま報恩感謝の大きさになる。

恨みと呪いの人生が、感謝法悦の人生に転じるのです。

 

●弥陀が喜ばれること

 

すべての仏に捨てられた私たち、しかも捨てられたと聞いても

ピンともカンとも感じません。

そんな箸にも棒にもかからないものだからこそ

見捨てておけぬと阿弥陀仏のほうが、

「どうか助けさせてくれ」と頭を下げておられます。

「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ

助くる弥陀が手を下げて

任せてくれよの仰せとは

ほんに今まで知らなんだ」

と歌われるように、どこどこまでもお慈悲な仏さまが

阿弥陀仏なのです。

その阿弥陀如来が最もお喜びになることは、

私たちが弥陀の本願どおりに救われて絶対の幸福になることです。

絶対の幸福のことを仏教で「信心決定」といいます。

「信心の智慧に入りてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」

                (正像末和讃)

信心決定(信心の智慧に入ったこと)してこそ、

阿弥陀如来のご恩に報いる身となれるのだと聖人は仰っています。

私たちが絶対の幸福に救われることを

いちばん望んでいらっしゃるのが

ほかならぬ阿弥陀仏だからです。

それは子供の幸せを願う親心の比ではありません。

「任せてくれよ。必ず絶対の幸福に救う。

そして、我が浄土に生まれさせてみせる」

と今も立ち上がって、声を限りにお叫びづめなのです。

信心決定するには、「聴聞に極まる」。

聴もキクなら、聞もキク。

聞いて聞いて聞き抜けよと教えられます。

落語や漫才を聞くのではない。

阿弥陀如来の御心を聞かせていただく。

「〝極悪の者を、聞くだけで、必ず絶対の幸福に救い摂る〟

と誓われた弥陀の本願まことだった」

とハッキリする時が必ず来ます。

真剣に聞かせていただきましょう。

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