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阿弥陀仏の救いはだれのため? [人間の実相]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた『とどろき』から載せています。)


苦しみの人生を明るく楽しく渡す大船あり

  どんな人を救う、といわれるのでしょう

 

私たちの人生の目的を親鸞聖人は、

主著『教行信証』冒頭に明示されています。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船

苦しみ悩みの波が絶えない人生の難度海で

溺れる私たちを、明るく楽しく渡す大船あり

 

と聖人は断言なされています。

聖人の仰るとおり、人生には苦しみの波が絶えません。

一つの苦しみを乗り越えても、

また煩わしい悩み事がやってくる。

どれだけ乗り越えても、キリもキワもありません。

そんな苦しい人生の苦海を、

明るく楽しく渡す大船がある、

その船こそが阿弥陀仏の本願(お約束)だと

教えられています。

 

では、阿弥陀仏はどんな人を救うと仰せなのでしょうか。

有名な『歎異抄』第一章に、こう書かれています。

 

罪悪深重・煩悩熾盛(しじょう)の衆生を

たすけんがための願にてまします

 

煩悩の激しい、最も罪の重い極悪人を

助けるために建てられたのが、

阿弥陀仏の本願であると言われています。

 

●欲・怒り・愚痴

    煩悩具足の者とは?

 

仏教では、人間のことを「煩悩具足の凡夫」とか

「煩悩熾盛(しじょう)の衆生」といわれます。

「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませ、

罪を造らせるもので、各人に百八つあると教えられます。

毎年、年の瀬に突く百八つの除夜の鐘。

梵鐘の音が聞こえてくると、静かに自身を振り返り、

しばし清らかな心になるような気がしますね。

煩悩で造った罪悪を少しでも消せるように思って

鐘を突いているのでしょう。

罪悪を消し、来年こそは煩い悩んで悪を造らぬようにと、

新たな年の幸せを願います。

その百八つの煩悩の中でも、

特に代表的なものを三毒の煩悩といわれます。

毒とあるように恐ろしいもので、

貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴の三つです。


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●底が知れない欲の心

 

まず「貪欲」とは、欲の心です。

食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲の五欲があります。

食欲とは、食べたい飲みたい心。

豚や牛など肉好きな人は多いでしょう。

彼らは私たち人間に食べられるために生まれてきたと

言う人もありますが、

それは人間の勝手な都合で、動物たちは、

決して私たちに食べられるために

生まれたのでも、生きているのでもありません。

子供の頃、近所に種牛が飼われていた。

時折見に行くと、母牛にくっついて動く

愛らしい子牛の姿が見える。

ところが生まれて三ヶ月ほどたつと子牛は、

母牛から引き離されトラックで市場へ運ばれる。

売られて、食肉となるのです。

引き離される母子が鳴き続ける声が、

耳に響きました。

私たちの食卓には届かぬ痛ましい叫びですが、

生きるためとはいえ、日々、人間は食欲で

罪を造っているのです。

財欲は、一円でもお金が欲しいと思う心です。

勉強をするのも働くのも、貧乏暮らしはイヤ、

少しでもいい生活がしたいと思うからでしょう。

遺産相続で、兄弟や親戚など骨肉相食む争いも

財欲によって引き起こります。

法に従って均等に分けようとしても、

いざ家や土地、宝石や車など、

兄弟や子供が、誰が何をどれだけもらうかという相談になると、

身内を蹴落とす恐ろしい心が頭をもたげてきます。

「兄さんは、実家に住んで家賃が要らないのだから、

私はあの土地をもらってもよいでしょう」

「親の介護をして最後まで面倒を見たのは私たち。

葬儀も出した。

当然それだけのお金もかかっているのだから、

土地は均等に分けるのが筋だろう」

兄弟の伴侶や子供も加わり、

皆少しでも財産が欲しいとケンカをし、

その調停に何年もかかるケースもあります。

そのうちに相続人の兄弟が死ぬと、

悲しむどころか、自分の取り分が幾らか増えるかと

心が動く。

「あらおかし 喧嘩の種を かき集め」

子供を幸せにしたいと、かき集めた財が、

ケンカの種になろうとは。

「児孫のために美田を買わず」(西郷隆盛)

の言葉にうなずくばかりです。


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名誉欲とは、他人からよく思われたい心。

有能だ、きれいだ、若いと言われたい、

バカだと思われたくない、ミスの指摘や欠点・悪口を

言われると面白くない心です。

よく思われるためなら、ウソも平気で、

詐欺の犯罪まで犯すことさえあります。

色欲とは、男女間の欲。

好きな相手を思って煩い悩み、

諦めきれずにストーカー行為に及んで、

トラブルになる事件がよく報じられます。

心の底から突き上がってくる己の欲望に支配され、

相手の迷惑も考えられぬほど、

一方的に舞い上がってしまうのでしょう。

睡眠欲とは、少しでも寝ていたい、楽したい心です。

お金は欲しいが働きたくない。

皆から褒められたいが、努力はイヤ。

どうすれば、楽して豊かになれるかと、

ウの目タカの目で探しているのではないでしょうか。

 

●イライラ腹立てる怒りの心

 

これら、欲の心が邪魔されると出てくるのが

怒りの心「瞋恚(しんい)」です。

私たちは、思いどおりに事が運べば機嫌よく過ごせますが、

現実は欲が満たされないことが多いので、

イライラと面白くない。

常に怒りの炎がチラチラ燃えて、

いったんカッと腹が立つと炎上し、

理性も教養も焼き尽くしてしまいます。

6月下旬、大阪西成区でワゴン車を暴走させ

6人をはねた32歳の容疑者は、

離婚したばかりと報じられました。

家庭の中で傷つけ合い、思うようにならぬ現状に、

自暴自棄になったのでしょうか。

一瞬の怒りは、命も殺(あや)める恐ろしい心です。


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●ねたみ、そねみの愚痴

 

愚痴」とは、妬(ねた)み、そねみ、恨み、憎しみの心。

遠方に住む人を見ても起きませんが、

近くに自分より優れた人がいるとしゃくに触る。

勝るを妬む心が起きてくる。

あいつミスしないかな、事故にでも遭ってくれと、

ライバルの不幸を望む恐ろしい心です。

人間は、これら煩悩の塊だから「煩悩具足の凡夫」

といわれます。

凡夫とは人間のことで、煩悩百パーセント、

煩悩に目鼻をつけたものが私だ

ということです。

先の『歎異抄』に「煩悩熾盛の衆生」とあるように、

煩悩の炎が常に燃え盛っているのが私の姿なのです。

 

●煩悩100パーセントと思えるか

 

ここまで読まれれば、なるほど、

自分にも欲や怒り愚痴の心があるなぁと

自覚されるでしょうが、

煩悩百パーセントとか、常に燃え盛っているとは、

毛頭思えないでしょう。

しかし聖人は、全ての人の「煩悩具足」の姿を、

こうも仰っています。

 

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、瞋(いか)り腹立ち、

そねみねたむ心多く間(ひま)なくして、

臨終の一念に至るまで止(とど)まらず消えず絶えず

              (一念多念証文

 

無明・煩悩で、煩悩のこと。

人間には、欲や怒り、妬みそねみの心がみちみちている。

百パーセント煩悩で、死ぬまで静まりもしなければ

減りもしない。

もちろん断ち切れるものでは絶対にない

と仰せです。

こんな煩悩の塊ですから、生まれてから死ぬまで

煩い悩み、罪を造って苦しんでいるのです。

 

●「われ一人助けん」

  立ち上がられた仏は?

 

そんな私たちを、慈悲の塊である仏さま方は、

何とか救ってやりたいと、願いを起こされましたが、

煩悩具足、罪悪生死の凡夫の私たちを救うことは、

とてもできないと、見捨てて逃げられた。

しかし、ただ一仏、

「われ一人助けん」

と立ち上がってくだされたのが、

大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏なのだと、

お釈迦さまは説かれています。

阿弥陀仏は、

「煩悩百パーセント、罪悪の塊の悪人を、

必ず絶対の幸福に救ってみせる」

と命を懸けて約束なされています。

これを阿弥陀仏の本願といいます。

蓮如上人は、この弥陀の誓いを『御文章(御文)』に、

次のように教えられています。

 

「弥陀仏の誓いましますようは、

『一心一向にわれをたのまん衆生をば、

如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』

といえる大願なり」

 

阿弥陀仏を信ずれば、

どんな悪人も必ず救われるのだと断言されているのです。


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親鸞聖人は、弥陀の救いにあわれて知らされた

ご自身の姿をこのように仰っています。

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄

 

この地獄しか行き場のない私を、

必ず往生浄土の身、今死んでも間違いなく

極楽浄土に往生できる身にしてみせるというのが

弥陀の本願です。

阿弥陀仏が「そのまま救う」と約束された私たちの、

欲・怒り・愚痴の煩悩具足の実態は、

仏法を聞かねば、絶対に知ることはできません。

近すぎる自分を見るには、鏡を使うように、

真実の自己を知るには、真実の私を映す鏡、

法鏡によらねばならないのです。

法(真実)の鏡である仏法を真剣に聞くよりほかに

道はありません。

「仏法は聴聞に極まる」蓮如上人

よくよく聞法し、本当の自分の姿を知らされ、

弥陀の救いにあわせていただきましょう。

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