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極楽浄土とは、どんなところ? [なぜ生きる]



寺参りに熱心な祖母に、なぜ仏教を聞くのかと

尋ねたところ「死んだら極楽へ往きたい」と言っていましたが、

極楽とはどんな所なのでしょうか。


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仏教を聞く究極の目的は、

阿弥陀仏の浄土へ往き仏に成ることですから、

その極楽浄土のことを知りたいのは

至極ごもっともなことです。

仏教では、私たち人間の住む世界を「穢土(えど)」といい、

阿弥陀仏のまします世界を「浄土」といいます。

また「極楽浄土」ともいわれます。

親鸞聖人は、平生(へいぜい)に、弥陀に救われた人は、

死ねば、必ず極楽浄土へ往って弥陀同体の

仏に成れると教えられています。

その極楽浄土とは、どんな世界なのか、

釈尊は『仏説阿弥陀経』に、

こう説かれています。


その国の衆生は、もろもろの苦あることなく、

ただ諸(もろもろ)の楽のみを受く。

かるがゆえに極楽と名づく

         (阿弥陀経)


阿弥陀仏の極楽浄土に生まれた人には、

一切、苦しみはなく、ただ、色々の楽しみだけがある。

だから極楽というのである


続いて、その楽しさを、次のように言われています。

至る所に「七宝の池」がある。

池には八功徳水(はっくどくすい)が満々と湛えられ、

池の底には金の砂が敷き詰められている。

池の中には、車輪のような大きな蓮華が咲き、

華の色は、青・黄・赤・白、色々あって、

それぞれが、青光・黄光・赤光・白光を放って、

まことに絶妙で、香りも芳醇である。

周囲には、金・銀・財宝で飾られた階段があり、

登った上にそびえたつ宮殿楼閣は、金や銀、

水晶や瑪瑙(めのう)などの宝玉で荘厳され、

天空からは、常に心地よい音楽が流れ、

ときどき妙華が降ってくる。

絶えず涼しい風が、そよそよと吹いて、

宝石で彩られた並木や網飾りが揺れて、

それらが奏でる音色は、

幾千かの楽器を同時に演奏するようである。

また、オウムやカリョウビンガなどの色々な鳥がいて、

和やかな美しい声で尊い法を説き、

聞いたものはみな、心に歓喜が起きるのである。

日々、応法の妙服を着て、百味の飲食を食べて楽しむのであると、

言葉を尽くして極楽浄土の素晴らしさが表現されています。

これをそのまま鵜呑みにして、

「おとぎ話だ」と嘲ったり疑ったりするのは、

余りにも仏意に遠い愚かさを知らねばなりません。

大体、私たちの知っている楽しみは、

おいしい料理に舌鼓を打つとか、

儲かった、褒められた、恋人ができた、

結婚した、大学合格、マイホームを手に入れたというような、

一時的な喜びであり、やがては、

苦しみや悲しみに変質してしまうものです。

地震や津波、台風や火災に遭えば、

一夜のうちに失う、今日あって明日なき楽しみであり、

たとえ、しばらく続いても、臨終には100パーセント

消滅する幸福です。

こんな楽しみしか知らない私たちに、

極楽浄土の楽しみを分からせようとすることは、

ちょうど、私たちが、魚に火や煙があることを分からせたり、

犬や猫に、テレビや携帯電話のことを話すよりも

絶望的なことなのです。

あの釈尊の大雄弁をもってしても、

不可能だったので、時には「説くべからず」とおっしゃっています。

しかし話しても分からないのに、

絶望しているだけでは、十方衆生を弥陀の浄土へ導く、

釈尊の使命は果たされません。

そこで釈尊は、私たちが見たり聞いたり体験したり、

想像できる範囲の楽しみを挙げて、

極楽浄土の素晴らしさを知らせようとなされているのです。

「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、

ネコも呆れて、ニャムアミダブツ」と、

風刺されるように、猫には、適当な説き方といえましょう。

2600年前の釈尊が、暑いインドで説かれた教えですから、

その時代や地域にあわせた比喩で説かれているのも当然でしょう。

この釈尊の仏意を酌んで親鸞聖人は、

弥陀の「極楽浄土」を「無量光明土」とおっしゃっています。

限りなく明るい所ということです。

確実な未来が、限りなく明るい無量光明土となれば、

われ生きるしるしありと現在が輝き、

「無碍の一道」に生かされるのです。

これこそが、人生の目的なのです。

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