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仏教の教えは自利利他である!

南無阿弥陀仏の
  大慈悲心をいただいて
自利利他の
  無上道を進む

仏教は「自利利他」の教えです。
「自利」とは、自分が幸せになること、
「利他」は、人を幸せにすることです。
私一人が得して周囲は損する、
あるいは他人だけが幸せになって自分は不幸では、
自利利他ではありません。
自分の幸せが、そのまま他人の幸せとなり、
他を幸福にするがまま、自分が幸福になる、
それが「自利利他」です。
自分も周りの人も皆、幸せになれるなんて、
何と素晴らしいことでしょう。
では、私たちの実態はどうでしょうか。

●欲に手足のついた私

江戸時代の浮世草子の作家・井原西鶴は、
「人間は、欲に手足のついたる物ぞかし」
と言っています。
お金や物、名誉・地位、人気が欲しい。
恋人が欲しい、才能も欲しい、おいしいものが食べたい、
もっと楽ができたらいいのに。
私たちの日常は、そればかり考えているのではないでしょうか。
そんな私たち人間が集まってできたのが
この世の中ですから、互いの欲がぶつかり合い、
この金はオレのもの、この人は私のもの、
奪わないでと、いがみ合い、波乱の日々になるのです。
欲の本性を仏教では「我利我利」といい、
自分の利益や得になること、楽になることばかり追い求めます。
それでは敵を多く作ったり、堕落するばかりで、
自分も他人も幸せになれません。
我利我利亡者では幸せになれない。
誰もがそう気づいているようですが、
自分が利益を得たいという心は、どうにも止まらない。
一体、幸せはどこにあるのでしょうか。

●地獄と極楽

仏教にこんな話があります。
もの好きな男が、地獄とはどんなところか見物したい、
と出掛けた。
たまたま地獄は昼時で、食卓の両側に骨と皮にやせ衰えた罪人が
ずらりと並んでいる。
どうせ粗末な食べ物しかないのだろう、
とテーブルを見ると、山海の珍味の山である。
「おかしいな」とよく見ると、
皆1メートル以上もある長い箸を持っている。
これでは、いくらおいしいご馳走が目の前にあっても、
自分の口へは入れられない。
地獄とは何とひどいところだと思った男は、
次に極楽へ行ってみた。
ちょうど夕食時で、テーブルの両側には、
極楽の往生人たちが笑顔で座っている。
ごちそうは山海の珍味。
さすがに皆、ふくよかだなぁと思いながら、
ふと箸に目をやると、何とその箸も地獄と同じように、
1メートル以上もあるではないか。
じゃあ、地獄と極楽は一体、どこが違うのかと見てみると、
皆、箸で挟んだごちそうを自分が食べず、
お互いに向かいの人の口に運んでいた。
「なるほど、極楽の人は心がけが違うなぁ」
と、横手を打ったという。

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●愛は地球を救う?

お互い相手を優先して考えれば、
双方とも幸せになれるのですが、
これが、口で言うほど簡単ではありません。
「愛は地球を救う」というフレーズをよく耳にします。
見返りを求めない無償の愛こそが、
すべての人を幸せにするという人もあるでしょう。
「愛」をテーマにした小説や歌は、
確かに多くの人を感動させますが、
私たちは本当に無償の愛を貫けるのでしょうか。
本当に愛していれば、自分はどうなろうと、
相手の幸せだけを考えるはずですが、
現実には、好きな男性(女性)が他の女性(男性)と
談笑していると面白くない。
自分は捨てられても、あの人が幸せなら、
とは毛頭思えません。
他の人に奪われるくらいなら、いっそ殺してしまいたい。
そんな本音を、作家・有島武郎は「惜しみなく愛は奪う」
と言いました。
無条件で子供に愛情を注げるのは、
言葉を覚える前まで、と言った人もあります。
子供が思ったことを口にするようになると、
ちょっとした一言に親は腹を立て、
複雑な思いになります。
東京へ就職した娘が、成人式に帰省した。
友人と食事、二次会へ行き、夜10時過ぎに帰宅すると父親が、
「こんな遅くまで、どこ行っていた!」
とどなった。娘は、
「私、もう20歳よ。彼氏とデートで“お泊まり”もするし、
友達と食事して夜10時なんて早いほうでしょ」
と猛反論。母親も、
「もう子供じゃないんだから」
と冷ややかで、父は絶句したという話が、
ラジオから流れてきました。
愛するほどに、相手の自由を奪い、
自分の思うようにしたい欲求が強くなるのではないでしょうか。
“地球を救う”はずの愛が、皮肉なことに、
自分も周囲も苦しめている例があふれています。
また、愛は人を盲目にし、かわいさのあまり、
欲しがるものを何でも与えてしまいがち。
そこに落とし穴があり、
「溺愛し 子供をダメに 育ておる」
と言われます。
入院している子供に、医師が許可しないおやつを食べさせて、
病気を悪化させ、より苦しめた親があった、
とテレビで警告していました。
求めるまま、何でも与えてもらえる温室育ちの子では、
人生の苦しみに耐えきれず、折れやすくなってしまいます。
理想の愛と、現実とは随分違うようです。

●「与えるだけ」の大慈悲

欲しい欲しいと求め、手に入れても、
真の喜び満足は得られない。
愛する人に尽くし与えてささげても、
相手を束縛して、ともに苦しみに堕ちていく。
しかし、そんな、この世も未来も真っ暗がりの、
我利我利の本性の私に「仏の慈悲」はかかってくださるのです。
お釈迦さまが、
「私の師であり、大宇宙で最も尊い仏だ」
と仰る阿弥陀仏という仏さまは、
「苦しみ悩むすべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
と約束なされました。
そのお約束を阿弥陀仏の本願といいます。
衆生苦悩 我苦悩
衆生安楽 我安楽
  (人々の苦悩は、私の苦しみである。
   人々の幸せは私の喜びだ)
これが阿弥陀仏の大慈悲心です。
阿弥陀仏は、なぜ「すべての人を絶対の幸福に救う」
という本願を建てられたのか、
その御心を親鸞聖人はご和讃に、
こう教えられています。

如来の作願をたずねれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり
     (正像末和讃

まず最初の2行で、
「なぜ、どんな人も絶対の幸福に助けるという本願を、
阿弥陀仏は建てられたのか」
それは、苦しみ悩む私たちを見捨てることができなかったからだ」
と仰っています。
「どんな人も」ですから、この約束の相手に入らない人は
1人もありません。
老いも若きも、善人も悪人も、男女、貧富、学歴、
経験の違いなど、一切差別のないお約束です。
「絶対の幸福」とは、
「人間に生まれてよかった」
と心から喜べる、永遠に変わらぬ幸せのことです。
10年や100年で薄れたり、崩れたりする、
ちっぽけなものではありません。
3行目の
「廻向を首としたまいて」
の「廻向」とは、与えるということ。
与えるだけを目的として、と言われているのです。

イギリスの医師・エドワード・ジェンナーは、
多くの人が犠牲になった天然痘から人々を救いたいと、
大きな悲願を起こしました。
ジェンナーは、まず天然痘に感染して一旦癒えた人は
二度とかからない事実を確認。
名医ハンターに励まされ周到な考察と実験を重ね、
わが子に予防法を試みました。
また牛痘に感染した乳しぼりの女性の手からうみを採取し、
8歳の児童の腕に植えもしました。
ところが“牛痘を植えると角が生える”などの
反対運動や非難中傷が巻き起こります。
それでも、彼はくじけず研究を続けました。
その結果、1979年、世界保健機構(WHO)は、
天然痘の根絶宣言に至ったのです。
ジェンナーの「天然痘で苦しむ人を無くしたい」という悲願が
「種痘法」を生みだし、19世紀だけでも数千万の人々が
このいまわしい病苦から救われました。
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いくら病気を治す原理が存在しても、
それを発見し、のっとって薬を作る医師が
いなければ患者は救われません。
宇宙の真理を体得した阿弥陀仏は、
すべての人の苦悩を抜き取り、
絶対の幸福に救いたいという大慈悲心から、
南無阿弥陀仏という薬を完成されました。
この南無阿弥陀仏は、すべての人の苦悩を除き、
永遠の幸福にする素晴らしい妙薬です。
阿弥陀仏が、「万人を救いたい」という本願を建て、
南無阿弥陀仏の大功徳を完成されたのは、
ひとえに、苦しむ人々を見捨てることができなかったからです。
ゆえに阿弥陀仏の願いはただ一つ、
この名号・南無阿弥陀仏を、すべてに人に与える以外にありません。
「南無阿弥陀仏」を完成されたことを、
「大悲心をば成就せり」
と言われているのです。
しかし、医者が、患者の苦しみを救いたいと
薬を与えようとしているのに、患者が疑いいっぱいで、
“ホントに効くんですか?”
と、のもうとしなければ医師の苦労は踏みにじられます。
阿弥陀仏の本願を聞いても
「そんな幸せあるはずないよ」
「絶対の幸福なんて本当になれるの?」
と疑い謗るばかりで、逃げ回っているのが、
私たちの実態です。
ところが阿弥陀仏は、そんな者とご承知のうえで、
“どんなに困難でも、あなたを決して見捨てない”
と誓われ、南無阿弥陀仏の妙薬を与えて助けようと、
力を尽くされているのです。
この南無阿弥陀仏は、「聞く一つ」で受け取れるように
創られています。
仏法を聞く目的は、この南無阿弥陀仏の妙薬を受け取って、
絶対の幸福(往生一定)になるためなのです。
●自利利他の無上道
親鸞聖人は29歳の時、この南無阿弥陀仏の大慈悲心を頂かれ、
阿弥陀仏のお約束どおり絶対の幸福に救い摂られました。
そして、「ああ、この幸せになるために生まれてきたのか」
と大歓喜されたのです。
その時の表明が次のお言葉です。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
                 (教行信証)
(絶対の幸福に救う弥陀の本願、まことだった、
まことだった)


ところが、この弥陀の本願のまことを知らない人が
あまりにも多いのです。
それは、今も昔も変わりません。
親鸞聖人は90歳でお亡くなりになるまで、
常に誤解され、中傷、非難攻撃の的となられながらも、
阿弥陀仏の本願が真実であることを伝え抜かれました。
それは全て、弥陀の大慈悲心(南無阿弥陀仏)に
動かされてのことだったのです。
南無阿弥陀仏の大功徳を頂き、仏凡一体となった幸せは、
とても自分だけのものにしておけない、
必ず人にも伝えずにおれなくなります。
それが本当の自利利他の大活動です。
利他のために身命を惜しまれなかった親鸞聖人のみ教え、
阿弥陀仏の本願を聞きひらき、私たちも、
自利利他の無上道を進ませていただきましょう。

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