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これも過去世の業なのか? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
仏教の因果の道理では、善も悪も自分に現れる運命は、
全て過去の自分の種まき(業)の結果であると聞きました。
それならば例えば、無免許少年の運転する車が、
登校中の児童の列を襲い、
10人が死傷するような事件があれば、
これも仏法では、本人の過去世の業の結果と
片付けられるのでしょうか。
このような交通事故や通り魔、無差別殺人などで、
子供の命が失われているのを見ると、
かわいそうでなりません。
それではあまりにムゴイのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
あどけない子供たちが、いわれなき殺され方をすると、
やりきれぬ気持ちになるのは全く同感です。
いつも胸が痛みます。
ですが、
「これも仏法では、前世の業として片付けてよいのか」という、
ご不満に同調できません。
ご承知のように仏法は、釈尊(釈迦)一代の教えです。
その根幹は、三世十方を貫く因果の理法であることは
一切経を見れば明らかです。

因果の理法とは、
「まいたタネは、必ず生える」が、
「まかぬタネは、絶対に生えぬ」ということです。
しかも、因と果の関係は、
善因善果 悪因悪果 自因自果であることは、
いつでもどこでも変わらず、
現在世だけでなく、
過去世、未来世の三世を貫く道理だと
厳然と説き切っています。

それを『経』には、次のように説かれています。

「過去の因を知らんと欲すれば、
現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば、
現在の因を見よ」  (釈尊)
(過去のまいた因を知りたければ、
現在、現れている結果を見れば分かる。
未来の運命を知りたければ、
現在、まいている因を見れば分かる)

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「因」とは「行為」のことであり、
「運命」とは「結果」のことです。
現在世の結果は、
過去世にまいた因によって現れたものであり、
現在世にまいた因によって
未来世の結果(運命)は決まる

ということです。
これを三世因果といい、
仏教を信ずるとは三世因果を信ずることをいいます。

●因縁果の道理

ただここで、ぜひ知って頂かなければならないのは、
通常、因果の道理といいますが、
正しくは、因、縁、果の道理ということです。
仏教は、すべての結果は
因と縁の和合で現れると説かれています。

EPSON044.jpg-2.jpg


一例をあげますと、「米」という結果の因はモミダネです。
温度や空気、土壌は縁です。
米は、モミダネの因だけでもできないし、
温度や湿度、空気や土壌の縁だけでもできません。
それらの因と縁とがそろって、
初めて「米」という結果が生まれるのです。

因果の理法というのは、
あくまでも縁を因にふくめての言い方であることを
忘れないでほしいのです。
かつて、東京の通り魔事件で数人が殺傷されました。
犠牲者には、母にひかれた乳母車の幼児も入っていたことに、
大きなショックを受けました。
「あんな幼児に、なんの罪があって・・・」
と、多くの人は嘆き、
「あれも幼児の過去世の業として、
片付けるのはムゴイ」と、
あなたも思われたのでしょう。
心情はよく分かります。
ですが、その幼児に全く関係のないことが、
幼児の身に起きるはずがありません。

事実、そこに居合わせたほかの多くの幼児に、
そんな結果が起きなかったのに、
なぜ、その幼児だけに、
そんなことが起きたのでしょう。
幼児の結果は、その時その場へ通り合わせたところに
原因があったのです。
それは、幼児自身の過去の業因にちがいありません。

そのような「因」に、通り魔という「縁」が加わって起きた、
悲しい「結果」なのです。
同じ時、同じ所を通っていても、
悲運に遭わなかった人はたくさんありました。

それは通り魔という悪い「縁」はあったのですが
「因」がなかったからです。

●悪縁は根絶すべき

当然、このような通り魔という悪縁は、
厳しく処罰されなければなりませんし、
一切の悪縁の根絶に、
私たちは全力を尽くさなければなりません。
「こんなことも、前世の業として片付けるのか。
ムゴイ。無慈悲だ。アキラメ主義だ」
と仏法を誤解されるのは、
因と縁とをゴッチャにしていられるところに
あるのではないでしょうか。
仏教は、このような反省と同時に、
無慈悲にツッパネルのでもなく、
アキラメよというのでもなく、
早く弥陀の絶対の救いに値って(あって)、
苦悩の人生を歓喜法悦の人生になって頂くために
説かれているということも、
ぜひ知って頂きたいと思います。


タグ:因果の道理
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阿弥陀仏の本願とは、どんなことですか? [Q&Aシリーズ]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
私は、これまで仏教を聞いたことがない者ですが、
病気になり、今死ぬとどうなるのかと思うと、
大変恐ろしく思います。
仏教では、阿弥陀仏の本願(救い)一つが説かれていると
聞きましたが、
阿弥陀仏の本願とは、どんなことでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
阿弥陀仏といわれる仏は、
釈尊(釈迦)が本師本仏と言われている
宇宙最尊の仏です。

原子物理学者でなければ、
原子の小さい世界は分からないように、
仏の境界(きょうがい)のことは、
仏智を諦得(たいとく)された
仏でなければ分かりません。
この地球上で、仏の悟りを得られた方は
釈尊のほかにありません。
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なしです。

●諸仏の王・阿弥陀仏

約2600年前、釈尊が35歳の12月8日に
仏の悟りを開かれて、
80歳の2月15日、涅槃の雲にかくれられるまでの、
45年間に説かれた一切経には、
大宇宙にまします多くの仏さまの名前が出ていますが、
その中で一番多いのが阿弥陀仏のお名前です。
「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と天台宗の荊渓(けいけい)でさえ、
驚嘆しているほどです。

「諸仏の中の王なり」
とか、
「最尊第一の仏」
「諸仏の中の極尊なり」
などと、十方諸仏の中の無上の仏であることが
説かれています。
大日や薬師や釈迦など大宇宙の仏方が、
本師本仏と仰ぐ仏が阿弥陀仏なのです。

蓮如上人は『御文章』に、

弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり
」(御文章二帖)
阿弥陀如来とは、
大宇宙の無数の仏方の師であり先生である

と言われています。

●すべての人を
     必ず絶対の幸福に

その阿弥陀仏の本願とは、
どんなことかといいますと、
本願とは誓願ともいいまして、
お約束ということです。
では、阿弥陀仏は、
どんなお約束をなされているのかといいますと、
すべての人は、煩悩具足で苦しみ続けている。
有れば有るで苦しみ、無ければ無いで苦しむ。
所詮、苦より離れ切れない私たちを見て、
何とか絶対の幸福に助けてやりたいという、
大慈悲心を起こされたのです。
そして誓われたのが、
「どんな人も 我を信じよ
必ず 絶対の幸福に救う。
もし救うことができなければ
命を捨てる」
とまで断言されているお約束です。

こんな、とてつもない本願ですから、
親鸞聖人は『正信偈』に、

無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発せり
」(正信偈)
阿弥陀仏は、十方世界に類のない、
無上の大本願を建てられた

とおっしゃっているのです。
どんな人も、この弥陀の本願を信ずる一念に、
(本願を信ずるとは、弥陀の本願にツユチリほどの疑いがなくなり、
弥陀より南無阿弥陀仏をいただいて
救われたという意味です。)
お約束通りに絶対の幸福に救われ、
死ねば弥陀の浄土へ
往生することができるのです。

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タグ:阿弥陀仏
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