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一息切れると、なぜ一大事が起きるのか! [後生の一大事]

仏教は「後生の一大事」に始まり、
「後生の一大事」の解決で終わります。
だから、「後生の一大事」とは
どんなことか分からなければ、
仏教は何十年聞いていても、
本を何百冊読んでも、
毛頭、分かるものではありません。

ちょうど、風呂の栓をせずに
お湯を注ぐようなもので、
どれだけ蛇口を全開にしても、
一杯にならないでしょう。
注いだお湯はすべて排水口から流れてしまい、
無駄になります。
「王将」を抜いて将棋を指すようなもの、
といってもいいでしょう。
飛車角金銀、どれだけ駒を動かしても、
勝負はつきませんから、
それでは「将棋」とは呼べません。

同様に、「後生の一大事」を抜きにして、
仏教は始まりません。

仏教学者や僧侶を自認し、
どれだけ著書や講演で
それらしい話をしていても、
肝心の「後生の一大事」を説かねば、
仏教にはならないのです。

そのような話を幾ら聞いても、
曖昧模糊として、仏教はキリに包まれてしまう。
世間には、仏教とは似て非なる「仏教もどき」が
横行しているようです。

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親鸞聖人は、『正信偈』の冒頭2行で、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!”
“阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!”
と叫んでおられます。
「救われた」、「助けられた」と言われているのは、
阿弥陀如来の本願によって、親鸞、
「後生の一大事」の解決できたぞ!

と仰有っているのです。
だから「後生の一大事」が
どんなことか分からなければ、
親鸞聖人がどんなことを言われたのか、
サッパリ分からなくなってしまいます。

そこで、「後生の一大事」とはどんなことか、
一言で、
「人間死んだらどうなるか」。

ということです。
この大事を、お釈迦さま親鸞聖人蓮如上人は、
どのように教えられておられるのでしょうか。

●往き易い浄土だけれど、人がいない?

ほとんどの人が、「死んだら極楽浄土で仏になれる」
と思っているのではないでしょうか。
ラジオ放送で、ある人がこんな説教をしていました。
「お念仏は阿弥陀さまの、必ず救う、
決して捨てることはない、摂取不捨という
お慈悲のはたらきです。
既にこの私を包み込んでいる
阿弥陀さまのはたらきの、
真っ只中にいるのです」
なんだか、もう誰もが
救われているような気にさせる話です。
これが堂々と、公共の電波で
流されているのですから、
多くの人が
「念仏さえ称えておれば、死んだら極楽」
と聞き誤るのも、当然でしょう。

では、お釈迦さまは、どう教えておられるのか。
親鸞聖人蓮如上人の教えは、どうなのか。
まず、
お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、

易往而無人
(いおうにむにん・往き易くして、人無し)

と説かれています。
弥陀の極楽浄土へは、
「往き易いけれども、往っている人が少ない」
という意味ですが、おかしいと思うでしょう。

「往き易い」のならば、「人が多い」はずだし、
「少ない」とすれば、「往き易い」とはいえないからです。
では、お釈迦さまの言葉は、何を意味するのでしょうか。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、
現在ハッキリ、阿弥陀仏に
救い摂られた人だけのことです。

これを親鸞聖人は、

真実の信心をえたる人のみ、
本願の実報土(じっぽうど)に
よく入ると知るべし
           (尊号真像銘文)

“真実の信心をえている人だけが、
浄土へ往けるのだよ”
と教えておられます。

「真実の信心をえた」とは、
弥陀の本願に救われたこと。
「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」とか
「信心決定(しんじんけつじょう)」ともいわれます。
「弥陀の本願」とは、
“必ず浄土へ往ける大満足の身に、
平生の一念で救い摂る”
という阿弥陀仏のお約束。

ですから、
苦しみの海を明るく楽しくわたす、
大きな船に譬えられます。
この本願の船に乗れば、人生が、
浄土への楽しい航海になるのです。
歩行の旅は山あり谷ありで難渋しますが、
船旅は船頭まかせで快適になる。
弥陀の本願の大船に乗れば、
大悲の風にうちまかせて
安楽の浄土に往けますから、
これほど「往き易い」ことはありません。

ではなぜ、
そんな「往き易い」浄土に、
「人が少ない」と言われるのでしょうか。

親鸞聖人の説明は、こうです。

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「易往而無人」というは、
「易往」はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑なければ往き易きなり、
「無人」というは、ひとなしという、
ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に
実報土に生るる人稀なりとなり 
         (尊号真像銘文

「弥陀の浄土へは『往き易い』と、
釈尊が言われているのは、
大悲の願船(弥陀の本願)に
乗った人のことである。
弥陀のひとり働きで往く世界だから、
『易い』という言葉もいらぬ易さだ。
『人なし』と言われるのは、
大悲の願船に乗る人が
稀だからである」

蓮如上人の解説も同じです。
聞いてみましょう。


これによりて『大経』には
「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文の意(こころ)は、
安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども。
信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし

と言えるは、この経文の意なり
         (御文章二帖七通)

「安心を取る」も「信心をとる」も、
“弥陀に救い摂られて、本願の大船に乗ったこと”
ですから、意味はこうなります。
「弥陀に救い摂られ、大悲の願船に乗った人は、
浄土へは『往き易い』けれども、
大悲の願船に乗る人が少ないので
釈尊は、『往き易くして、人なし』
と言われているのである。

この「信心決定」している人が極めて少ないことを、
蓮如上人は悲嘆なされて、
『御文章』の至るところで、

「この一流のうちに於て、
確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、
いかでか報土の往生をば
容易く(たやすく)遂ぐべきや。
一大事というはこれなり」
             (一帖五通)
「近年、仏法は人みな聴聞すとはいえども、
一往(いちおう)の義を聞きて、
真実に信心決定の人これなき間、
安心も疎々(うとうと)しきが故なり」
         (四帖七通)
「おおよそ心中を見及ぶに、
とりつめて信心決定のすがた是(これ)なし
と思いはんべり。
大に(おおきに)歎き思うところなり」
           (四帖十三通)
と教戒され、
信心決定しなければ一大事だから、

この信心を獲得せずば、
極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

           (二帖二通)
とご勧化なさっていられるのです。
仏教は、この地獄必定の一大事に驚き、
この一大事の解決で終わるものですから、
この後生の一大事が分からなければ、
仏教は金輪際、分かるものではないのです。

では、
どうして、私たちの死んだ後に、
このような一大事が起きるのでしょう。
その理由を、
仏教はどう教えているのでしょうか。


●仏教の根本教理は、因果の理法

仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えです。
約2600年前、インドに現れられたお釈迦さまが、
35歳で仏のさとりを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまで45年間、
説いていかれた教えを今日、
仏教とも仏法ともいわれます。

仏教は因縁を宗とす。
仏の聖教は浅より深に至る。
一切法を説くに因縁の二字を出でざるを
以てなり

          (維摩経・ゆいまきょう

と説かれているように、
釈迦一代の教えを貫いている根本教理は、
「因果の道理」であることは、
何人(なにびと)も疑う余地はありません。

いわゆる、「まかぬタネは生えぬ」で、
原因なしの結果は絶対に認めないし、
「まいたタネは必ず生える」と教えます。
しかも、因と果の関係は常に
「善因善果 悪因悪果 自因自果」であることが
説き切られています。

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このように、「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の理法を離れて仏教はあり得ませんが、
それは単に現在一世にとどまらず、
過去・現在・未来の三世を貫いて
説かれているところに、
仏教の因果律の精粋(せいすい)があるのです。

これを三世因果といい、
仏教の旗印となっています。

だから「仏教を深信する」ということは、
「三世因果を深信する」ということです。

では、過去、現在、未来の三世は、
どのような因果関係によって成立しているのか。
因果経』には、
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。

と鮮明に説かれています。
過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因によって発現するのだから、
現在の自己の上に、
無限の過去と永遠の未来を知見できることを
教えているのが、
三世因果の理法です。

ゆえに仏教は、
現在の自己を徹見(てっけん)すれば、
自己の後生は分かる

と教えます。
現在の自己は、いかなる後生を生み出す因を
造っているのでしょうか。

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●現在の私は、いかなるものか

私たちは動物を食べるのを
当たり前だと思っています。

しかし食べられる動物たちは決して、
人間に食べられるのが当然だとは
思っていないでしょう。

どんな生き物でも、死にたくないのは、
私たちと変わらないはずです。

船に上げられた魚がピチピチ跳ねるのも、
鶏が首を絞められてパタパタもがくのも、
苦しいからでしょう。
人間とは何と残酷なものかと、
強く呪って死んでいるに違いありません。


ちょうど私たちが無実の罪で殺され、
肉体を食べられる恨みと
少しも変わりはしないでしょう。
お釈迦様は、全ての生命は平等であり、
上下はないと教えられています。

人間の命だけ尊いと考えるのは、
人間の勝手な言い分。
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。


一言で殺生といっても、
殺し方によって仏法では
三通りに分けられています。

自殺他殺随喜同業」の三つです。

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○自殺

自分で生き物を殺すことを言います。
世間で言う、首をつって死ぬような、
自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、
蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で
動物を殺すことを「自殺」といいます。
「生きるためには仕方がない」
「害を与えるから」
と私たちはどれだけの生き物を
殺しているでしょうか。

○他殺

他人に依頼して
生き物を殺させる罪を言います。
自分は直接殺さなくても、
自分が殺したのと同罪だと教えられています。

魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、
肉屋さんに頼んで
牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
自分で殺さなくても、「他殺」の罪を
犯していることになります。

○随喜同業(ずいきどうごう)

他人が生き物を殺しているのを見て
楽しむ罪をいいます。

ある家で、仕掛けたカゴにネズミがかかったので
さてどう処分するか困っているところに
近所のおじさんが来たので、
「あんた、殺してよ」と奥さんが頼みました。
頼まれたおじさんは、
「よっしゃ」と引き受けて川へ行き、
カゴを水に沈めてネズミを殺しました。
水中でもがき苦しんでいくネズミを見て、
一緒に喜んでいます。
実際にネズミを殺したのは近所のおじさんですから、
近所のおじさんは「自殺」の罪を造っていますが、
頼んだ奥さんは「他殺」の罪、
見て喜んでいる者は、
「随喜同業」の罪を造っています。

また、殺されていった魚や牛の肉に
舌鼓を打って喜んでいるのも、
仏様の眼からすれば、
「随喜同業」の殺生罪です。

このように私たちは、
おびただしい殺生をせずしては生きられない、
深い業を持っているのです。

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ところが、この「殺生罪」も「十悪」の一つ。
「十悪」とは、私たちの犯す罪悪を
十にまとめて教えられたものですが、
その「十悪」より重いのが「五逆罪」であり、
「五逆」よりも恐ろしい罪が「謗法罪」であると、
仏教では教えられています。

「無間業(無間地獄へ堕つる罪)」といわれる、
「五逆罪」と「謗法罪」については、
次回載せたいと思います。


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