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法然上人、仏教とは弥陀の本願であることを明らかにする! [聖道仏教と浄土仏教]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。

本師源空明仏教(本師源空は仏教を明らかにして、)
憐愍善悪凡夫人(善悪の凡夫人を憐愍し、)
真宗教証興片州(真宗の教証を片州に興し)
選択本願弘悪世(選択本願を悪世に弘めたまう)
                               (正信偈)

「源空」とは、法然上人のことですが、
親鸞聖人にとっては、
先生ですから「本師」といわれているのです。
当時、法然上人は、「智慧第一の法然房」とか
「勢至菩薩の化身」といわれ、
日本一の仏教の大学者でした。
それは京都の大原で、
各宗派のトップの学者たち380余人を相手に、
たったお一人で7000余巻の一切経を
縦横無尽に引用して、
完膚なきまでに論破なされた有名な大原問答や、
法然上人のお書きなされた『選択本願念仏集』は、
当時の仏教界に水爆級の衝撃を
与えたことによっても明らかなことでした。

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●大原問答・・・・日本中の学者と大法論

親鸞聖人の師・法然上人は、
わが国始まって以来の大法論をなされています。

場所は京都大原の勝林院。
世に名高い「大原問答」です。
どのような法論であったのか。
法然上人の伝記には、
聖道門と浄土門、いすれが真実か。
日本国中の学者が集まり、火花を散らしての問答

とあります。
釈迦一代の仏教を、大きく分けると、
聖道門の仏教と、浄土門の仏教の2つになります。
聖道仏教は自力の修行で仏になろうとする教えで、
天台宗、真言宗、禅宗などを指します。
これに対し、阿弥陀如来の本願以外に
我々の救われる道はない、
と教えるのが浄土仏教です。

聖道門側は、比叡山、高野山、京都、奈良の
名立たる僧侶2000余人
勝林院を埋め尽くしたといいます。

対する浄土門側は、法然上人ただお一人
身の回りのお世話をする弟子が、
わずかに同行しただけでした。

「もし、お師匠さまが一言でも詰まられたら・・・」
と、ガタガタ震える弟子たちに、
上人はニッコリほほえまれ、

「この法然は幸せ者じゃ。
今日一日の問答で、
天下の学者たちを弟子にできるとは。
弥陀の本願を明らかにする、
またとない好機だ」
とおっしゃったといいます。
43歳の時に、
他力金剛の信心を獲得された法然上人は、
(阿弥陀仏に救われていたということ)
大自信にあふれていられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず、聖道門側から切りだす。
浄土門が、聖道門より優れているとは、
どういうことか

釈尊(釈迦)の教えに優劣はないが、
法は何のために説かれたものか。
衆生の迷いを転じて、仏覚に至らすためである。
衆生を救う点において、浄土門のほうが優れておる


2000余の学僧がどよめく。
「これは聞き捨てならぬことを」

法然上人は、静かに答えられた。
聖道門は、人を選ぶではないか。
経典を学ぶ知恵のない者、
修行に耐える精神力のない者は求められない。
欲や怒りのおさまらぬ者は、救われないということだ


「いかにも・・・」

さらに、厳しい戒律がある。
完全に実行できる人はどれだけあるのか。
大衆のほとんどは救われないではないか


「・・・・・」

しかし、浄土の法門は違う。
欲のやまぬ者も来い、愚者でも智者でも、
善人悪人、男も女も、全く差別がない。
平等に救われるのだ。
なぜならば、阿弥陀如来が、すべての人を、
必ず救い摂ると、本願を建てておられるからじゃ。
しかも、末法の今日、
聖道の諸教で救われる者は一人もないのだ


「何を、たわけたことを」

末法の今日、自力の修行では
一人もさとりを得る者はないと、
釈尊は説かれている。
これに対し、『大無量寿経』に説かれている
弥陀の本願は、
いつの時代になっても、始終変わらず、
一切の人々を救うと説かれている。
されば、すべての人の救われる道はただ一つ、
浄土の一門のみであることが明らかではないか


「・・・・しかし、阿弥陀如来以外の仏や菩薩に向くなとは、
言い過ぎではないか」


釈尊は、『大無量寿経』に、
一向専念無量寿仏と説かれている。
これは、あらゆる諸仏、菩薩、諸神を捨てて、
一向に専ら、阿弥陀仏を念ぜよ、ということである


「ううむ・・・」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問答は一昼夜に及びましたが、
法然上人は、いかなる難問にも、
よどみなく答えられ、
すべての学者を論破されたのです。

聖道門の学者たちは、
心から法然上人の高徳に伏し、
「知恵第一の法然房」「勢至菩薩の化身」
とたたえたといいます。
阿弥陀如来の本願の素晴らしさを
知らされた2000余の大衆は、
異口同音に念仏を称え、三日三夜、
その声が山野にこだましたといわれます。

法然上人、54歳の出来事でした。

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●仏教界を震撼させた『選択本願念仏集』

天台や真言など、自力聖道仏教一色の時代、
弥陀の救いを説く浄土仏教を、
堂々開闡(かいせん)されたのが
法然上人でした

上人の『選択本願念仏集』は、仏教史上、
不滅の金字塔です。

その内容は「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」といわれ、
弥陀の本願以外はすべて「捨てよ、閉じよ、
閣け(さしおけ)、抛て(なげうて)」と、
聖道諸宗の教えを、徹底排斥されています。

理路整然、聖道門を打ち破る気魂(きこん)あふれた
選択集』は、
聖道諸師らを心底震え上がらせ、
仏教界に一大波紋を投げかけたのです。

このようなことから親鸞聖人は、
「私の先生の法然上人は、
仏教に精通されている方だった」
と称讃されている
のが、
「本師源空は仏教に明らかにして」です。

●苦しみ悩む人の世に

次に、
「善悪の凡夫人を憐愍して」
とは、善い人も悪い人も、貴い人も賤しい人も、
「すべての人を、哀れに思われて」
ということです。
それまでの仏教は、
「お山の仏教」ともいわれていたように、
家を捨て妻も子供も捨てて、
山に入って修行しなければ助からないという、
一般の人とは無縁の教えが
仏教のように思われていました。

ところが、その「山上の仏教」を山から下ろして、
一般大衆が、ありのままの姿で救われるのが
真実の仏教であることを、
明らかにされたのが法然上人だったのです。

法然上人は自らも比叡山を下りて、
吉水に草庵を結ばれ、
貴族も農民も男も女も差別なく、
すべての人が俗な生活のままで救われる教えこそ、
真の仏教であることを明らかにされました。

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それで親鸞聖人は、法然上人を、
「善悪の凡夫人を憐愍して」
と、その功績をたたえておられるのです。
次に、
「真宗の教証を片州に興し」
とは、「阿弥陀仏の本願」は、
真実の仏教であるから「真宗」と断定なされ、
その弥陀の本願の「教え」と「救い」を
「真宗の教証」といい、
「片州」とは日本のことですから、
「真実の宗教である阿弥陀仏の本願を、
日本に広められた」
ということです。
次の、
「選択本願を悪世に弘めたまう」
といわれている「選択本願」も、
その「阿弥陀仏の本願」のことであり、
苦しみ悩んでいる人の世は、みな「悪世」ですから、
「法然上人は、苦しみ悩みの悪世の日本に、
弥陀の本願を徹底して開顕してくだされたなればこそ、
この親鸞、今こんな幸せな身に
救い摂られることができたのだ」
と、法然上人のご恩に感泣なされている
『正信偈』のお言葉なのです。

 


タグ:法然上人
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曇鸞大師、仙経を焼き捨てて未来永遠の大生命を獲る! [曇鸞大師]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。

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約2600年前に、インドで釈尊が
「阿弥陀仏の本願」を説かれてから、
親鸞聖人に正確に伝えられるまで、
インド・中国・日本の七人の高僧のご活躍がありました。
その七高僧のうち、インドの龍樹・天親の二菩薩に続いて、
三人目に数えられるのが、
約1500年前の中国に登場された曇鸞大師です。
親鸞聖人からは、700年前の方ということになります。

聖人のお名前は、「親」と「鸞」は、
天親、曇鸞のお二人から、
それぞれ一字ずつ頂かれたもの。

また『正信偈』の中で「本師」の敬称を用いておられるのは、
曇鸞大師と、直接の師・法然上人だけであることからも、
いかに親鸞聖人が、曇鸞大師に
尊敬の念を抱いておられたか、うかがえます。

当時の中国においても、
その高潔な人徳と仏教の深い学識は、
民衆だけでなく、梁の天子(天皇)も崇敬すること
一方(ひとかた)ならず、
常に曇鸞大師の住んでおられた方角に向かって、
「鸞菩薩」と礼拝するほどでした。
これを親鸞聖人は、
「本師曇鸞梁天子(本師曇鸞は、梁の天子)
常向鸞処菩薩礼(常に鸞の処に向いて「菩薩」と礼したまえり)」
とおっしゃっています。

聖人ご自身は、時の権力者によって、
35歳の御時、越後へ流罪になられました。
そして恩師・法然上人をも流刑に遭わせた彼らに対し、
こう怒りを爆発させています。

主上・臣下、法に背き義に違し、
忿(いかり)を成し、怨(あだ)を結ぶ。
           (教行信証)

「天皇から家臣にいたるまで、
仏法に反逆し正義を踏みにじり、
怒りにまかせて大罪を犯す。
ああ、なんたる暴挙ぞ」

曇鸞大師も、法然上人も、
弥陀の本願一つを説かれたことは同じだが、
中国の天子は曇鸞大師を尊敬し、
日本では法然上人を流刑にした。
なぜ、こうも違うのか。
「日本の権力者たちよ、梁の天子を見習ってはどうだ」
そんな痛烈なお気持ちが、
この2行から伝わってくるようです。

このような梁の天子が礼拝し、
親鸞聖人が尊崇されるような方に、
曇鸞大師がなられたのは、
紆余曲折があってのことでした。
それを聖人は次にこう言われています。

三蔵流支授浄教(三蔵流支、浄教を授けしかば)
焚焼仙教帰楽邦(仙教を焚焼して楽邦に帰したまいき)」


これはどんなことか。
曇鸞大師の半生を見てみましょう。

●曇鸞大師の半生
 
出生地は、中国仏教の聖地として名高い、
五台山(ごだいさん)は、各地から仏教徒の巡拝する、
仏教の中心地でした。
幼い頃から、この仏教の霊地を彼方に
仰ぎながら成長した曇鸞大師は、
まだ15歳にもならぬうちに、この霊山に登り、
その神秘的な感興に、
生涯を仏法に捧げる決意をしたといわれています。
そして、四論宗(しろんしゅう)の学問を中心に、
広く内外の経典に取り組んでいきました。
曇鸞の学んだ四論宗とは、
龍樹菩薩の著された「中論」「十二門論」
「大智度論(だいちどろん)」
などを宗(むね)とする宗派です。
当時の仏教界の主流であったところから、曇鸞も、
この四論の学問に励みました。

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ところが、論の解釈をしている途中で病に倒れ、
中断せざるをえなくなったのです。
療養中に彼は、人間の寿命のはかなさを嘆きます。
一生とは何と短いことか。
まるまる生きて50年、たちまちに過ぎ去ってしまう。
それも天寿を全うできてのこと、
いつ病気やら不慮の事故で死なぬとも限らない。
そうなれば、膨大な経典を学び尽くせるはずがない。
仏法の極意を極めることなどとてもできぬ。
仏道修行するためには、まず長生きしなければならぬ。
それも単なる長生きではせいぜい100年。
7000余巻の経典の前ではあまりに短すぎる。

いっそ、仙人の間に伝えられると聞く、
長生不死の仙術を先に学ぶべきではないか

そう思い立った曇鸞は、そのころ、
仙人として名声の高かった陶隠居(とういんきょ)
をはるばる訪ねました。

人間は弱いもの。
深刻な苦しみに見舞われると、
溺れる者は藁をもつかむで、
何にでもすがってしまう。
占い・迷信・邪教のはびこる素地が、
ここにあるのでしょう。

曇鸞大師のような大変な学者でも、
病の苦しみから、
仙人の教えに迷われたのです。

それほど惑いやすいものが人間、
と知らされます。

陶隠居の元には、多くの弟子が修行をしていましたが、
曇鸞もそれらの人々に加わって長寿の法を学び続けました。
その熱心な修学は、やがて陶隠居の認めるところとなり、
ひそかに自らの後継者として期待するほどでした。
傑出した人材と感じ、
仙術の秘奥を記した仙経十巻を授けて、
曇鸞に教義の流布を命じたのです。
曇鸞は大いに喜び、陶隠居の元を辞し、
神仙(しんせん)の法を伝えんとの気概に燃えて、
仙経とともに帰路に就きます。
意気揚々、本国へ帰らんとしていたその途中、
当代随一の翻訳家・菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)と
出会った。
それが曇鸞の人生を変える、
大きな出来事だったのです。

●未来永遠の生命を与える、仏教の眼目

得意満々の曇鸞は、
陶隠居から授かった仙経十巻を取り出し、
「これこそ、中国に伝わる長生不死の仙術を
記したものである」
と、誇らしげに言う。
それを聞いた菩提流支、
「何と情けない」
軽蔑に満ちた表情で、
パッと大地につばを吐きつけた。
「なぜ、そのように言われるのか」
不審を問うと、菩提流支は、
「諸行無常のこの世界、
どこに長生不死の法などありましょうや。
多少の長寿を誇れたとしても、
やがては死ぬ時が来る。
死ねば必ず無間地獄に堕在し、
八万劫中大苦悩を受けなければならぬ。
この後生の一大事を忘れて
仙人の法に迷うなど、笑止の限りです」

曇鸞、憤然として、
「ならば仏教の中に、仙人の法に勝る長生不死の法が
あるとでも言うのですか」
と尋ねると、
「ありますとも」

菩提流支の差し出した経典こそ、
『観無量寿経』であったのです。
「これをごらんなさい。
無量寿を観る法とあるではないか。
ここにこそ、まさしく長生不死の神方が
説かれているのです」

金が欲しい、地位が欲しい、
名誉が欲しい、異性が欲しいと、
いろいろ欲しいものはありますが、最後、

人間の究極の願いは、
「永遠不滅の生命が欲しい」
これに尽きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

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「まだやりたいことがあるので、今しばらく、
長命の祈祷をお願いしたい」
80歳の人が高徳のうわさを聞いて
良寛の所へやってきた。
「長命といっても一体、何歳くらいまでお望みかな。
それが分からぬと祈祷のしようがない」
「90では10年しかない、100までお願いしましょうか」
「あとたった20年。
101になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願いできましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ150歳までいかがでしょうか」
「150歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても・・・」
「そんな遠慮は無用じゃ」
それでは200歳、300歳、500歳と、
次第に寿命をせり上げてくるおかしさに耐えながら良寛、
「どうせお願いするならついでだ。本心を言ってみなされ」
と促すと、
それじゃ、いっそのこと、
死なぬ祈祷をお頼みします

とうとう本音を吐いたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その究極の願いを、
真に満足させる教えが仏法である
ことを、
菩提流支は喝破なされたのです。
「50年や100年の肉体の延命どころではない、
後生の一大事を解決して、
未来永遠の大生命を与えることが、
仏法の目的なのだ」

聞いて曇鸞、迷夢が覚めた。
菩提流支の手元にある『観無量寿経』を注視するや、
翻然(はんぜん)としてさとるところがあり、
苦心の末に手に入れた仙経を、菩提流支の面前で、
ことごとく焼き捨ててしまわれた。

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これを親鸞聖人は、
「三蔵流支、浄教を授けしかば、
仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき」
と『正信偈』に言われています。
区切りながら説明しましょう。
まず「三蔵」とは、「三つの蔵」に深く通じた翻訳者。
三つとは、「経」と「律」と「論」のことで、
これらは真実の納まっている蔵のようなものだから
「経蔵」「律蔵」「論蔵」といわれます。
「経蔵」は仏の説法、「律蔵」は仏弟子の戒律を記したもの、
「論蔵」は経典を解釈された本のこと。
この経・律・論の三つに通暁(つうぎょう)した翻訳家を
「三蔵」といわれ、
有名な人では、「西遊記」のモデルになった
玄奘(げんじょう)三蔵や、
芸術的な筆致で知られる
鳩摩羅什(くまらじゅう)などがいます。
「三蔵流支」とは、
そのような優れた翻訳者の一人・菩提流支のことです。
つぎに「浄教」とは、
弥陀の救いが説かれている『観無量寿経』。
「仙経」は、曇鸞大師が陶隠居から授かった仙人の教え。
「焚焼」とは焼き捨てること。
「楽邦に帰す」とは、弥陀の本願に帰依された、
ということです。

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二行の意味は、こうなります。
「菩提流支より『観無量寿経』を示された曇鸞大師は、
直ちに仙経を焼き捨てて、
弥陀の本願に帰依されたのである」
かくして曇鸞大師は、
浄土仏教の真精神を体得され、
弥陀の本願の宣布に、
生涯をかけられました。

間違いを間違いと知らされたら、
直ちに捨てる。
仏法者のあるべき姿勢を、
曇鸞大師は私たちに示しておられるといえましょう。

 



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