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仏教で最も重要なご文は何か

 

仏教で最も重要な釈尊のお言葉を知るには、

一切経を幾度も読んでみなければなりません。

一切経を幾たびも読破なされた親鸞聖人は、

それは『大無量寿経』の中にあると喝破なされています。

 

それ真実の教を顕さば、

すなわち『大無量寿経』これなり

         (教行信証

 

がそのお言葉です。

『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれていますから、

『正信偈』には、

「如来、世に興出したまう所以は、

唯弥陀の本願海を説かんとなり」

と、おっしゃっています。

阿弥陀仏の本願とは、

弥陀の誓願ともいわれますように、

阿弥陀仏が、一切の人々を必ず救い摂ると、

固くお約束なされた誓いのお言葉です。


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●「本願成就文」の教え

 

この阿弥陀仏の本願を教えることが、

釈迦出世の本懐中の本懐であったと教えられながら、

また親鸞聖人は、釈尊の最も重要で大切なお言葉は

本願成就文」といわれる教えだともおっしゃっておられます。

「『横超』とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり」

               (教行信証)

と道破なされ、この本願成就文を開顕するために

『教行信証信巻』上下二巻にわたって、

詳細に説明なされています。


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●「これこそが仏教」

 

親鸞聖人より如信上人(聖人のお孫さん)、

その如信上人より面授口決(めんじょくけつ)された

覚如上人は、「それについて三経の安心(あんじん)あり。

その中に『大経』をもって真実とせらる。

『大経』の中には第十八の願をもって本とす。

十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」。

                 (改邪鈔)

(面授口決とは、直接教えてもらうこと)

弥陀の本願は本ではあるが、

至極ではない、と説破なされています。

同じく『改邪鈔』には、

「かの心行を獲得せんこと、

念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって

依憑(えひょう)とす、このほか未だ聞かず」

と、あります。

この覚如は、願成就文に示されている教え以外に、

聞いたことがない、とまで断言なされています。

この願成就文の教え以外に、

仏教もなければ、浄土真宗もないということが分かります。

これこそが仏教だといわれるのは、

願成就文の釈尊の教えです。

 

仏教の至極(しごく)、
真宗の依憑(えひょう)といわれる願成就文は

『大無量寿経』下巻に、

漢字四十字で示された釈尊のお言葉です。

 

諸有(しょう)の衆生、其の名号を聞きて、

信心歓喜せんこと乃至一念せん。

至心に廻向せしめたまえり。

彼の国に生まれんと願ずれば、

即ち往生を得、不退転に住す。

唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん

 

と、あります。

今は詳しい説明はできませんが、

弥陀の本願よりも釈尊の説かれたこの願成就文

依憑とせよ、とおおせられた理由を、

二、三挙げておきましょう。


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●信心一つで救われる

 

阿弥陀仏の本願では、信心一つで助かるのか、

念仏称えて助かるのか、ハッキリ分かりませんが、

この願成就文の釈迦の教えでは、

「信心歓喜乃至一念」

の信心一つが説かれて、念仏は説かれてありませんから、

阿弥陀仏の救いは、

一念の信心一つでなされるのだということが、

ハッキリいたします。

これによって親鸞聖人は、

唯信独達の法門を樹立されたのです。


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●仏教は聴聞に極まる

 

また、阿弥陀仏の本願では、どうすれば救われるのか

ということがハッキリ分かりませんが、

釈尊の願成就文では、「其の名号を聞きて」

とありますから、聞く一つで助かるのだということが、

ハッキリいたします。

これによって、「仏法は聴聞に極まる」と、

親鸞聖人は教えられました。

 

●この世でハッキリ救われる

 

また、阿弥陀仏の本願では、

必ず助けるとは誓ってありますが、

この世でか、未来世でかハッキリしなかったのです。

しかし、願成就文では、

「即得往生住不退転」と、教えられていますから、

阿弥陀仏の救いは死後ではなくて、

現在ただいまであることが明らかになりました。

 

このように願成就文の釈迦の教えによって

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願は、

唯信独達

であり、

仏法は聴聞に極まる

平生業成

であることを開顕なされたのでありますから、

弥陀の本願は本ではあるが至極ではない、

願成就文をもって至極とする

と喝破なされた理由がここにあるのです。

されば願成就文の教えに反するものは、

浄土真宗でもなければ仏教でもありません。


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●御名号本尊の根拠も

     本願成就文に

 

親鸞聖人や蓮如上人はなぜ名号本尊をもって、

浄土真宗の正しい御本尊とご教示になったのか。

その御本尊と浄土真宗の教義安心(あんじん)との

関係を明らかにしておきましょう。

当然のことながら教義安心と無関係な御本尊は

ありえません。

真宗においては、その関係は特に顕著であります。

浄土真宗の教義安心の至極である願成就文には、

聞其名号 信心歓喜 乃至一念

と教えられ、所信の体は名号であることが、

明らかになっています。

もちろん、所信の体以外に御本尊はありえませんから、

かかる願成就文の教義安心から、

親鸞聖人は名号ばかりを御本尊となされたのであります。

しかも、願成就文を教義安心の至極となされたのは、

親鸞聖人のみの達見でありましたから、

名号を本尊となされたのは、

親鸞聖人が最初であったのです。

ゆえに、蓮如上人は、

浄土真宗においては、木像よりは絵像、

絵像よりは名号を本尊にせよ」

とご教示になったのであります。

かかる浄土真宗の教義安心の至極である願成就の立場からは、

木像でも絵像でも名号でも同じだから、

どれを本尊にしてもよいなどとは断じて言えないのです。


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