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聖道の慈悲と浄土の慈悲とは!? [なぜ生きる]

昨今の“”古典ブームで、仏教書が脚光を集めています。
中でも『歎異抄』は、右翼の活動家から左翼の思想家まで、
最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭。
世界の光といわれる親鸞聖人の肉声が、
国宝と評される名文でつづられています。

しかし、それほど魅了してやまぬ名著に何が説かれているか、
肝心の内容を知る人は少ないようです。
今回はその『歎異抄』の言葉を通して学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●慈悲といっても
       2つある

今春、朝日新聞に「親鸞思想よ もう一度」
という記事が掲載されました。
七百五十回忌を前に、
聖人の教えが再び注目されていると報じたもので、
記事に紹介された学者は、
「戦争や紛争などが大きな問題になるなか、
親鸞の思想はますます重要になる」
と聖人の教えの魅力を述べています。

(平成20年のとどろきより載せています)
その聖人の思想を知ろうとすれば、
一般にまず思い当たるのが『歎異抄』でしょう。

そこで大事なのは、珠玉のお言葉に込められた真意を
正しく知ることです。
最近でも『歎異抄』の一節を想起する
事故や事件が相次いで起きています。

五月、中国・四川地方を襲った大地震で、
深山に囲まれた村々は壊滅状態に陥りました。
崩壊した学校のガレキの下から子供たちが救い出される一方で、
多数の生き埋めのまま救助が打ち切られたと報じられ、
だれもが心痛めたことでしょう。

その少し前、サイクロンがミャンマーを襲い、
十万人余りが被害に遭ったのも記憶に新しいところです。
何とか立ち直ってもらいたいと、
いずれの被災地にも世界中からお金や物資が送られ、
現地へ赴いての救援活動もなされました。
苦しみにあえぐ人を何とか救いたい。
だれもが抱く思いです。

このような災害の報に接する時、
『歎異抄』第四章のお言葉が思い出されます。

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり
「慈悲」に「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の2つがある

ここで「聖道の慈悲」「浄土の慈悲」といわれる「慈悲」
とはどういうことでしょうか。

親鸞聖人は次のように仰せられています。
苦を抜くを『慈』と曰う、
楽を与うるを『悲』と曰う
」(教行信証

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苦を抜き、楽(幸せ)を与える。
慈悲には「抜苦与楽」の意味があり、
これが仏教の目的です。

「慈悲には2つある」と聖人がおっしゃっているのは、
その苦しみと幸せに2つあることを教えられているのです。

●せっかく
   助かったのに・・・

ではまず「聖道の慈悲」で教えられる苦しみ、
幸せとは何でしょう。

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生活の不便や困難(苦)を取り除き、
命を守り育む(楽)ことで、
一刻も早い復興を願って、被災地に義援金や物資を
送ったりするのはことに当たります。

被害を乗り越えるには、
とても大事な働きかけで、
人助けと聞けばほとんどの人がこれを実行します。
しかし生活物資や医療だけで、
私たちは変わらぬ本当の幸福になれるでしょうか。

平成7年の阪神大震災では、
国や自治体、多くの人に善意によって、
仮設住宅や最低限の生活が維持されてきましたが、
レスキュー隊などの活躍で命を救われたのに、
自ら命を絶つ人が数多くありました。

「せっかく助かったのに、どうして?」
「なんのための救助だったのか」
救援活動の意味を問う声が上がりました。

(平成20年のとどろきより載せています)
家族や財産を失い、打ちひしがれている人の、
心のケアはどうでしょう。
苦難を乗り越えて生きるのは何のためなのか。
「生きる意味」「命の価値」こそ
最も訴えねばならないことだと分かります。
そしてそれは、災害時に限らず、
万人に、絶えず問われていることではないでしょうか。

●でも、生きる意味が
       分からない

5月下旬、元TBSのアナウンサー、川田亜子さんが、
車内で練炭自殺を図りました。
「母の日に、私は悪魔になってしまいました」
「生んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました」
自身のブログにこうつづった彼女は、
少し前から不調を訴え、周囲からは心配や励ましが
寄せられていました。
具体的に相談を受けた知人や医師もあり、
その中、“なぜ止められなかったのか”
と悔やむ人もあるようです。
私たちの日常には、
「なぜか満たされない」
「何となく不安だ」
と絶えず小さな不安や不満があります。
それを解消するため「金があればなぁ」
「家族さえいれば」「有名になりたい」「出世したい」
「家を持ちたらいい」「恋人が欲しい」など、
欲望の赴くままに、あくせく求めています。
もし金や物、名誉や地位のないのが苦しみの根元ならば、
それらに恵まれた人生は、喜びに輝いているに違いありません。
しかし、望み通りの仕事に恵まれ、
悩みながらも、それを支えてくれる人が周囲にあった川田さんが
「生きる意味」が分からないと命を絶っています。
表面上は恵まれていても、なぜか持て余し、
幸福感を持てずにいる人が、
世の中には実に多くあるようです。

 

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「功成り、名遂げた」は、古くは戦国武将、
今なら政治家や大企業の創業者に使う形容詞。
松下電器の松下幸之助さんは、
その筆頭に挙がる一人でしょう。
そんな幸之助さんが最晩年に人生を振り返り、
自分が最もやりたかったことを何もしなかったような気がする、
という意味のことを述懐したといわれます。
ある作家はこれを評して、
「彼はもう、働かなくてもよくなったのちも、
いつまでも埋まらない心の空洞を埋める作業を
やめられなかったのだろう」
と述べています。
若いころ、300人ほどの従業員とともに
働いていた時分が一番楽しかった、
という幸之助氏の言葉を聞くと、
人間の幸せとは何なのか、だれしも考えさせられます。

●有っても苦・・・
   無くても苦・・・!?

仏教を説かれたお釈迦さまは、
次のように教えられています。

田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、
宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、
また共にこれを憂う。
有無同じく然り

           (大無量寿経

田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
そのほかのものにしても、皆同じである

無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”に
つながれているといってもいいでしょう。
材質が金であろうと鉄であろうと、
苦しんでいることに変わりはありません。
これをお釈迦さまは「有無同然」といわれました。

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どんなにお金を手に入れても、仕事で成功を収めても、
苦悩の根元を知り、取り除かない限り、
ポッカリした心の空洞は満たせない。

苦しみの原因を正しく知らねば、
本当に苦を抜くことはできません。

それがかなわなければ、
本当の幸福が与えられることもできないでしょう。
肉体の病気でも、病因を正しく知らなければ、
全快できません。

例えば「腹痛」といっても、胃か腸か。
腸にも大腸、小腸、十二指腸とさまざまな部位がある。
胃でも、軽い胃炎から潰瘍、末期ガンまで、
症状は幾通りもありましょう。
それらを的確に診断しなければ、
痛みも癒えず、苦しむばかりです。
病因を正しく突き止めることが、
治療の先決問題だと分かります。

人生も同じ。
苦しみの真因が分からねば、
人生苦悩の解決は決してありません。

●苦悩の真因を破り、
    無上の幸福に救う

親鸞聖人は、その苦悩の根元を、
生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す
」(正信偈
と、ズバリ断言されているのです。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを
「生死輪転」といい、家を離れて生きられないように、
離れ切れぬ苦しみを「家」と例えらています。
「人生の終わりなき苦しみ」のことです。

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その根本解決を、「疑情ひとつ」とおっしゃっています。
「疑情」とは、「無明の闇」ともいわれます。
「無明」も「闇」も暗いこと。
暗いとは、分からないことをいいます。
では何に暗い心か。
「後生」に暗いのです。
後生とは死後のこと。
だれもが百パーセント行き着く先です。
それが暗いから、魂の行く先が分からないのです。
自分の未来が分からない、底知れぬ不安を、
人は皆抱えて生きています。
この不安あるままで、何をどんなに手に入れても、
心底楽しむことはできません。

換言すれば、「なぜ生きているのか」が
サッパリ分からない心なのです。

この苦悩の根元・無明の闇を破ると誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師本仏(指導者)である阿弥陀仏です。

阿弥陀仏のなされたお約束どおりの身に救い摂られた時、
「生きる本当の意味」がハッキリする。
必ずその身になれるから、
早くなりなさいよ、との親鸞聖人のお言葉が、
計り知れない重みを持って響いてきます。
浄土の慈悲」とは「無明の闇」(苦)をぶち破って、
無限に明るい、楽しい心に生まれ変わらせる(楽)こと。
この抜苦与楽を「破闇満願」ともいいます。

阿弥陀仏のお力によって「無明の闇」が破られ、
願いが満たされるから、

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「ああ、生まれてよかった」
の生命の歓喜が必ず起こります。
いつ死んでも浄土往生間違いない身に定まりますから、
無碍の一道に出られるのです。

そんな、とてつもない世界を、『歎異抄』に聞いてみましょう。

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、
信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、
魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々

         (第七章)

弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍にならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、
天地の神も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。
犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、
絶対の幸福者である

聖人は仰せになりました。

名著『歎異抄』には、
阿弥陀仏の救いが説かれています。
第四章の浄土の慈悲」は、
阿弥陀仏の絶大な本願力によって自身が救い摂られ、
その教えを一人でも多く伝えること。
この仏教の目的を果たすには、
まず「命」が大事です。
衣食住も必要です。

それら生きる手段を与えるのが
聖道の慈悲」であることを明示されているのです。


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