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あなたも仏さまに褒められる身になれる!! [救われるとどうなる]

一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)


『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
と叫ばれた聖人は、続いてその「弥陀の救い」を
懇ろに明らかにされ、最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
“すべての人よ、この親鸞と同じように、
早く阿弥陀如来に救われてもらいたい”
と結んでおられます。
『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが
「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。
今回お話する4行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったのです。
このことを確認した上で、解説を進めましょう。


まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。
男も女も老いも若きも、善人も悪人も、私もあなたも、
この中に入らない人は一人もありません。
「どんな人も」ということです。
次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、
「阿弥陀如来の本願」のこと。
本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」
と言われているのです。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、
大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など
無数の仏方がましまして、
それぞれに本願を持っておられます。
「本願を持つ」とは「約束をされている」ことですが、
中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われているのは阿弥陀如来だけ
ですから、
その「弥陀の本願」を「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。
善人も悪人も、相手を選ばず、「絶対の幸福に必ず助ける」とは、
なんと偉大な誓願ではありませんか。
だからこそ阿弥陀仏は本師本仏、無上仏と仰がれているのです。


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「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と、本願に疑い晴れたことです。
絶対の幸福とは、いつ死んでも浄土往生間違いない
「往生一定」の身になったこと。
これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、
また「獲信」と言われます。
これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
と言われているお言葉です。


●阿弥陀仏に救われたら、
      どんないいことがあるの?


では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。
信心決定すると、何かいいことがあるの?
私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
と明言され、
“凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、
この幸せよろこぶ身になってもらいたい”
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。
先述の釈迦如来はじめ、薬師如来、大日如来やビルシャナ如来など、
大宇宙にまします無数の仏方のことで、
『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、
インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、
具体的な名前を挙げて紹介されています。
それらの無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」

と言われているお言葉です。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、
「分陀利華」は希にしか咲かない白蓮華のことで、
滅多にない素晴らしいことを表されています。
親鸞聖人はこの4行で、
どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、
大宇宙の無数の仏方から、
『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』
と称讃される身になれるのだよ」
と言われているのです。


●ほめられると、うれしい


私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。
頑張って生きようとするモチベーション(動機)は、
何でしょう。
人それぞれ、いろいろありましょうが、
中でも「褒められたい」、
これが大変強いのではないでしょうか。

評価されたい。実力を認められたい。
若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。
朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか、
何から何までその行動基準は、
「どうしたら他人からよく見られるか」
が大きいのではないでしょうか。


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そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。
子供に褒められてさえ、気分がよくなります。
「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」
と思っている相手からでも、
またお世辞だとは百も承知でも、
やはり褒められると嫌な気がしないのが、
私たちですね。
まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。
「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。
「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、
勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることは
凄い元気と勇気の出ることなのですが、
親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」

と、とてつもないことを仰っている。
「仏さまから褒められるって?どういうこと?」
あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、
という人もあるでしょう。
このことは『教行信証信巻』にも、


金剛の真心を獲得する者は、横に五趣・八難を超え、
必ず現生に十種の益を獲。何者をか十と為る


阿弥陀仏に救われた人は、現在生きている時に、
十種の幸せを頂けるのだ

と仰っている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂ける
と言われています。
その褒め言葉は、『正信偈』の「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、
お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまで仰ってくださり

また「上上人だ」「無上人(最高の人)だ」
「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(最高の人)だ」
「最勝人(最もすぐれた人)だ」など、
仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、
勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。


弥陀に救い摂られてからの、
あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、どうでしょう。
あの強く生きる力と勇気は、
一体どこから出てくるのか、
と首をかしげる人も少なくありませんが、
迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。
大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ
」と、
この「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からに違いありません。


●たくましき生きざま


親鸞聖人の生涯は、波瀾万丈の激しいものでした。
「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、
どんなことがあったのか。
弊社のアニメ「世界の光・親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、
一例を挙げれば、31歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、
中でも大きな2つが「肉食」と「妻帯」でした。
「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、
「妻帯」は結婚することです。
出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。
「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。
これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を、聖人は公然と破られ、
肉食妻帯を断行されました。


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当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と
非難の嵐が巻き起ころう。
だが、肉食妻帯っが十方衆生(全人類)の姿ではないか。
仏の慈悲は苦あるものにおいて偏えに重し。
欲や怒りの煩悩にまみれ、
罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。
まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、
どうして差別があろうか。
肉食妻帯の者が助からない仏教が、
本当の仏教といえるか、
それでは誰も助からないではないか。
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばす」、
男も女も、在家も出家の者も、
あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。

この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、
どんな嘲笑罵倒も物の数ではないと、
身をもって示された破天荒の言動が、
親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。

案の定、聖人には、仏教界は無論、
一般大衆からも「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」
「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」
と非難中傷が浴びせられ、
八方総攻撃の的となられたのでした。
肉食妻帯だけでなく、34歳の三大諍論も、35歳の越後流刑も、
40過ぎから20年間の関東ご布教も、
84には長子善鸞の勘当も、
疑謗の嵐の中たったお一人突き進まれた方が、
親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができたのでしょうか。
普通は、周囲から非難されれば意気消沈して、
(最近の言葉でいえば)へこんだり、
閉じこもったりするはずのところ、
その勇ましいお姿は、どこから出ているのか。
本師本仏の阿弥陀如来の救いにあずかって、
大宇宙の諸仏方から、
「親鸞、あなたは広大勝解者だ」
「滅多にない白蓮華のような方だ」
と称賛されている自覚から、
迷った人間のどんな罵倒も嘲笑も、
聖人には牛の角を蚊が刺したほどにも思われなかったでしょう。


●弥陀の本願、聞き開けよ


地獄より行き場のない極悪の私が、
弥陀に救い摂られたならば、
どうして大宇宙の仏方からかくも褒められるのでしょうか。

釈迦も諸仏も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、
三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせ、
その後生の一大事解決してくださる方は
本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
“阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ”と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありません。

そのお勧めどおりに、阿弥陀仏に救われた人は、
“弥陀の弟子になった”ともいえる、
さすれば大宇宙の仏方にとっては、
まさに「我が親しき友」となるのです。
また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、
それは滅多にない人(分陀利華)だと、
褒め讃えてくだされるのです。


褒められたい一杯の私たちが、
「仏さまから褒められる身になれるのだよ」
と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的になかった聖人が、
「誰でも弥陀に救われたならば、
仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。
この親鸞と同じく、諸仏称賛の益を頂ける身に早くなってくれよ。
それには、『如来の弘誓願を聞信すれば』なれるのだから、
弥陀のご本願を聞いて聞いて聞き抜いて、
ハッキリ救い摂られるところまで進んでもらいたい」

と、必死の聞法を勧めておられるのが、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
の4行なのです。


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