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法蔵菩薩のご苦労とは [阿弥陀仏]


●釈尊の師 阿弥陀如来

次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、無数の惑星があり、
我々と同じような生命が存在すると説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの
仏がましまして、真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来など、
仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。

本師本仏の阿弥陀仏は、
悪因悪果で必堕無間の十方衆生(私たち)を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。

●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
               (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感泣なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3千2百万年の5倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。


親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる

と仰せられたという。
阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
ご恩に報いようと恩徳讃の心になる。


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「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
       (親鸞聖人)

インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、
中国では曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、
日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も
親鸞聖人と同じく「弥陀思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた
歴史の生き証人である。




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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず

では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べられておられる。

「十悪五逆の罪人も、五障三従(ごしょうさんしょう)の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて(もれて)、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)

「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我々十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩にあえぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら
生きている衆生が限りなくいる。
これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。


そんな我々を大宇宙にまします
無数の諸仏が
大慈悲心を起こして
何とか助けてやりたいと立ち上がって下された。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では
到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、
十方衆生である。


諸仏は我々の「屍の心」にアキレてしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かっては
ウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。

●法蔵菩薩の願い

ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置しておけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。

「しかれば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
 
阿弥陀如来は、
十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、
弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
大慈悲を起こして、十方衆生救済に
立ち上がってくだされたのである。


そのために、仏の位から、
菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に
自らの願いを申し出られた。

「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む
十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、無常を無常とも思わず、
悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走(はいそう)を見せて逃げているのだ。
そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、十方衆生は、
永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんな苦難に身を沈めても後悔いたしません。
どうか、助けさせてください」
「法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人で人間が升(ます)でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を体を濡らさずに
取ってくるほどに難しいのだ。
しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まねば、
必ず、その目的を果たし遂げ、
如何なる願いでも成就せぬものはないであろう。」

大海の水をくみ干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べておられる。
助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。


ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。


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●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳

世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、
助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3千200万年、五劫思惟とは、その5倍の年月、
考え抜かれたということだ。


「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさず手に入れる」
それを実行するには、どうしたらよいか。
聞いただけで、「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。

五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、
苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。


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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を
完成してくだされたのである。


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それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、
それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
        (正信偈)
と仰せられる。
さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。


29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
       (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称・不可説・不可思議の大功徳」
とは勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。

「功徳の大宝界に帰入すれば」
        (正信偈)
「功徳の大宝界」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫(そうそん)・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
               (執持鈔)
と、本願の名号と、
行者が一体になった喜びを記しておられる。
妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
(※妙好人とは、弥陀に救われた人のことです。)

「頭叩いても南無阿弥陀仏、手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏なら立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。

釈尊一代の仏教は、
畢竟(ひっきょう)この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。


「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
        (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんとなり)

●万人の終帰、弥陀の本願海

ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。

深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。

終帰・・・山の頂上に降った雨水は、
渓流を下り、湖に流されても、
やがて川を下って大海に流れ込む。



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苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに
救いを求めるが、真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。

弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。

法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それにはどうすればよいか。

「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」

       (親鸞聖人)

真剣な聞法あるのみである。





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ヨシタカ

去年、インターネットで生きる意味とは何なのかをトンネルの出口を探すような心境の中探し求めて、ご縁あって真実のぶにたどり着く事が出来ました。
まだ本願を聞けていないとはいえ、こうして人間として生まれた本当の意味を知る事が出来ただけでも何と尊いご縁に出会えたのだろうと心から思うばかりです。

三位の臨終の内容は教学解説にも書かれていない内容でしたので大変ありがたいお話でした。
今週も富山へ聞法に参詣させていただきます。
聞く一念まできかせていただきたいと思います。
by ヨシタカ (2018-01-18 00:43) 

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