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死んだら仏でしょ? [釈迦]

(親鸞聖人)

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浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、約八百年ほど前、
日本の京都にお生まれになり、九十歳まで長生きされました。
今日、世界の光と仰がれ、尊敬されています。
九十年のご生涯、聖人はどんなことを教えていかれたのでしょうか。

親鸞聖人の教えといいましても、仏教以外にはありません。
仏教は文字通り、仏の説かれた教えということです。
そこで仏とは何かが分からなければ、仏教は始まりません。
親鸞聖人の教えも分からないということになりますね。



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『死んだら仏』と思っている日本人は多いと思います。
葬式などでよく、亡くなった人を「仏さま」と言われています。
以前公開された『おくりびと』という映画がありましたね。
主人公が納棺師という、亡くなった人を棺に納める仕事に就くところから
物語が始まります。そんな職種があるんですね。
どうも東北地方に多いようですが、
東北出身の知人が、
「納棺師が仏さまをきれいに棺に入れて、葬式のあと、みんなで火葬場に行ってね、
『この仏さまは骨格がしっかりしとる』とか言いながらお骨拾って。
のどぼとけが見つかると、『仏さまが出たぞ!』と叫ぶんや・・・」

やはりその知人も亡くなった人のことを仏、仏と言ってました。
しかも「のどぼとけ」まで。
このように、多くの日本人は漠然と、亡くなった人を「仏」というと思っています。
では、仏さまとは、死んだ人のことなのでしょうか。
もしそうなら、仏教は死んだ人の教えということになります。
死んだ人が教えを説けるはずがありませんから、
仏=死人ではないことは明かです。




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●仏とは「さとり」の名前です。
一口にさとりといっても、仏教では五十二の位があると説かれています。
では、仏さまとはどんな方をいわれるのでしょうか。
ここからが大切です。

仏とは、「最高のさとりを開かれた方」をいいます。
一口に「さとり」といいましても、低いさとりから高いさとりまで、
五十二の位があり、これを「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから、上は大関、横綱まで、
いろいろありますように、さとりにも、ピンからキリまで全部で五十二の位があり、
それぞれ名前がついています。
その五十二のさとりの最高のさとりの位を「仏覚」といわれるのです。
これ以上のさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。
この最高無上の仏というさとりを開かれた方を「仏」とか「仏さま」といわれるのです。


ちなみに、このさとりの位は、一段違えば人間と虫けらほど境界(きょうがい)の差がある
といわれます。
ハエやゴキブリに、パソコンの使い方を教える気になれるでしょうか。
電源の入れ方一つマスターするのに、何年かかることか。
いや、何十年かけても無理でしょう。
人間とそれらのものとでは、生きている知恵の世界が全く違うからです。

えーっ、たった一段でそんなに違うの、と驚かれるかもしれませんが、
まして十段、二十段と、修行によってさとりを開いていくことはいかに難しいか。
一例をあげましょう。

選挙になると必ず登場するダルマさん。
あのモデルとなった達磨という人は、インドに生まれ、晩年中国に渡り、
禅宗の祖となりました。
面壁九年といって、壁に向かって九年間、座禅に打ち込み、
手足が腐って切断したといわれています。
だからダルマさんには手足がない、あんな姿をしているんですね。
両目はギロッとにらんでいますが、怖い感じがしないのは、
こちらをにらんでいる目ではなく、自己の心を凝視しているからです。
しかし、そんな手足腐るほどまでに厳しい修行をした達磨でも、
三十段ぐらいまでしかさとれなかったといわれます。

また中国天台宗を開いた天台という人は、
「師は、いずれの位までさとられたか」
と臨終に弟子に問われて、
「ただの五品弟子位(九段目)あるのみ」
と告白しています。

一宗一派を開いたほどの人でも、十段に至らなかったのです。
まして五十二段目の仏のさとりに達するのは、
いかに大変なことか分かるでしょう。

●さとりとは、本当の幸福になれる真理をさとること

それでは、さとりとはどんなことをさとるのでしょうか?
それは、大宇宙の真理です。

真理といいましても、数学的真理、科学的真理などありますが、
ここでいう真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のことです。

「人生は苦なり」と言われますように、科学や医学は随分進歩しましたが、
人間の苦しみ悩みは少しも減っていません。
昔の電話は一家に一台、外出したら不便でした。
今は一人一台、携帯電話を持ち歩いています。
いつでもどこでも連絡できて便利になったと思う反面、
ご承知のように、携帯が新たないじめや犯罪の温床にもなって規制や対策が迫られています。
子供が事件に巻き込まれはしないかと心配な親も多いでしょう。

「有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことに苦しむ」
と仏教では説かれています。
金や物の有無に関係なく皆、苦しんでいるということです。
その解決の糸口さえ見つからぬまま、もっともイヤな死へと向かっているのが、
すべての人ではないでしょうか。
死ねば後生です。
私たちもいつか必ずこの世と別れる時がきます。

では、私たちは行く先がはっきりしているでしょうか。
皆、まだまだ死なんと死を遠くに眺めていますが、吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が後生です。
それは今晩かもしれません。
だから一息一息が取り返しのつかない価値を持ち、吸う息、吐く息が、
後生と密着しているのだと仏教では教えられます。

ところが迷いの深い私たちは、この厳粛な事実を忘れて、金を求めて、
名誉を追って走り、財産を得ようと争い、愛欲におぼれて喜び、
酒に飲まれて騒いでいます。
当てにならぬシャボン玉のような楽しみに希望をつなぎ、
執着して罪悪を積み重ね、確実な未来に気がつきません。

経典には、
苦より苦に入り、冥(やみ)より冥に入る
と説かれています。
今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける、
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」

とおっしゃったお言葉です。

「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、日本の言葉で言いますと
「苦しみの世界」ということです。
この世のジゴクというのは、何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗い日暮らしをしていることをいいます。
「人間に生まれてきてよかった」という飛び立つ生命の歓喜がなく、
ため息をつきながらぼんやりと日々を過ごし、
「こんな人生ならいっそ死んだほうが」と心で泣いているのが、
この世のジゴクです。


このような、現在が心の暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇のジゴクへ堕ちて苦しまなければならないことを

従苦入苦 従冥入冥
(苦より苦に入り、やみよりやみに入る)
と説かれたのです。
これを「後生の一大事」といわれます。
すべての人が、この後生の一大事を持っていることと、
その解決をして本当の幸福になれる道をさとられた方が、
仏さまなのです。



●釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
この地球上で仏のさとりを開かれたのは、お釈迦さまお一人です。

さとりを開くことを山登りに例えますと、
一合目よりも二合目、二合目よりも三合目と、登れば登るほど、
見える景色は広がっていきます。
そして最後、頂上まで登り詰めた時、辺り一面を見渡すことができるようになるように、
最高無上のさとりである仏覚まで到達した方だけが、
大宇宙の真理すべてを体得することができるのです。


この仏覚を開かれた方を、仏といわれるのであって、
死人を仏というのは大間違いであると、お分かりでしょう。

今日まで、仏のさとりを開かれた方は、
この地球上ではお釈迦さまただお一人です。

これを、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
約二千六百年前、インドに現れられたお釈迦さまが、
三十五歳十二月八日にお亡くなりになられるまでの四十五年間、
仏として説いていかれたみ教えを、今日、仏教といわれるのです。
その仏教の真髄を明らかにされた方が、浄土真宗の祖師、親鸞聖人です。

●仏になれる身になる
阿弥陀仏に救われた人は、この世は正定聚(仏になれる身)、
死ぬと同時に弥陀の浄土に往生して、仏になることができる。


さて、「仏=死人」ではない。
誰でも死んで簡単に仏になれるものではないことはお分かりになったと思います。

お釈迦さまが生涯説かれたのは「阿弥陀仏の本願」一つでした。
親鸞聖人は二十九歳の時、その阿弥陀仏の本願によって救われ、
「正定聚」(正しく仏になることに定まった人たち)の位に入ったと、
すごいことをおっしゃっています。

正定聚とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏という位です。
一度この身になったら二度と退転する(崩れる)ことはありませんから、
正定聚不退転といわれます。
今日の言葉でいえば絶対の幸福といえるでしょう。
このように、阿弥陀仏のお力によって五十一段高飛びさせられた体験を、
信心決定(しんじんけつじょう)」といいます。

親鸞聖人は、こうおっしゃっています。

「真実信心うるひとは
すなわち定聚(じょうじゅう)のかずにいる
不退の位に入りぬれば
かならず滅度(仏のさとり)にいたらしむ」

信心決定した人は、生きている間は五十一段の正定聚、
死ぬと同時に弥陀の浄土に往生できる。
その時、あと一段上がって仏のさとりを開かせていただくのだ、
と教えられているのが親鸞聖人のみ教えです。
この世で正定聚(仏になれる身)になった人だけが、
死んで仏になれるのです。
だれでも死んだら仏になれるのではありません。

私たちが真剣な聞法求道により、
悪しかできない自己を知らされ、
自力がすたれた時、阿弥陀仏のお力によって正定聚の身に救われるのは、
「一念」という極めて短い時間です。


有名な「聖人一流の章」に、
「その位を『一念発起・入正定之聚(いちねんぽっき・にゅうしょうじょうしじゅ)』とも釈し」
とありますね。
あっという間もない一念で正定聚の位に入ると教えられています。
達磨や天台が大変な修行をしながら、
なかなか高いさとりが得られなかったのと比べると、
まさに仏のさとりを開く最短の道であることがお分かりになるでしょう。

死んで仏になれるかどうかは、
平生の一念に阿弥陀仏の本願に救われているかどうかで決まるのだ。
早く「仏になれる身」になれよと生涯、教えていかれたのが親鸞聖人なのです。


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