SSブログ

運命を決めるものは何?釈迦が説き明かす因果の道理 [因果の道理]

運命を決めるものは何か、
       
釈迦が説き明かす、因果の道理

「因果の道理」を読んだ時、今の苦しみは、
自分の種まきが生み出したものと知りました。
結婚したのは自分であり、妻は縁、
“そうか、自分の種まきの結果なら、
受けていかなければ”
と思ったら、心が楽になったのです。


静岡県の寺井肇(仮名)さんの手記です。
寺井さんは、昨年二月に亡くなった妻・道子さの介護を
七年間続けました。
当初は、認知症の夫人の世話にすっかり疲れ切り、
“いっそ、一緒に死のうか”などと
恐ろしい考えもよぎったとか。
そんな寺井さんの心が、「因果の道理」を知り、
大きく変わったというのです。

この体験手記に、多くの読者から反響が寄せられました。
いくつかを紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「介護とまではいかないが、入院した妻を、
毎日見に行き元気づけている。
『とどろき』を読み、なお一層、因果の道理が身にしみる」
            (兵庫県・60代男性)

「因果の道理がよく分かりました。
今の生活は過去にまいた種が生えてきたと思って、
つらい時は自分が刈り取って、
これから少しでもよい行いをして、
人生を送りたいと思います」
            (島根県・80代女性)

寺井さんの心を変えた「因果の道理」とは、
どんな教えなのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いつでもどこでも変わらぬ真理

因果の道理は「仏教の根幹」です。
仏教とは、仏の説かれたみ教えをいいます。
2600年前にインドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳の12月8日に大宇宙最高の仏というさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
説いていかれたみ教えを、
今日、仏教といわれます。

その根幹とは、仏教を一本の木とすれば、
根や幹にあたる教えです。
根や幹が枯れれば、木は倒れてしまう。
因果の道理が分からなければ、
仏教は全く分からなくなる

ということです。

EPSON121.jpg-1

まず、「道理」とは、三世を貫き、
十方を遍く(あまねく)真理をいいます。
「三世」は、過去世、現在世、未来世のこと。
「いつでも」という意味です。
2600年前のお釈迦さまの時代も、現代も、千年後も、
いつでも変わらないことを「三世を貫く」といわれます。
「十方」とは、東西南北上下四唯のことで、
「どこでも」ということです。
インドでも、中国でも、日本でも通用する。
たとえほかの星や宇宙の果てに行っても変わらないことを、
「十方を遍く」といいます。
このように、いつでも、どこでも変わらない真理を
「道理」といわれるのです。


EPSON122.jpg-1


次に「因果」は、原因と結果のことで、
すべての結果には必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
仏教では教えられています。

大海原に飛行機が墜落し、
機体が回収不能になった場合でも、
“この事故には原因がなかった”ということはありえません。
乱気流の影響や操縦ミスなど、
必ず原因があったのですが、
究明できないので、原因不明となっただけ。
「原因が分からなかった」ということと、
「原因がなかった」ということとは、
全く違うのです。

すべてのことには、
必ず原因があって結果があるという、
いつの世、いかなる所でも変わらぬ真理が
「因果の道理」なのです。


EPSON122.jpg-2

●原因と結果の関係

科学をはじめ、あらゆる学問は、
この因果の法則に立脚している
のですが、
特に仏教では、私たちの最も知りたい
幸福や不幸の原因と結果の関係を教えられています。
その原因と結果の関係について、
お釈迦さまは次のように教えられています。


善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果、悪因悪果」とは、
善い種をまけば善い結果。
悪い種をまけば、悪い結果が現れる、
ということです。


分かりやすく植物のことで例えれば、
畑にダイコンの種をまけばダイコンが、
キュウリの種をまけばキュウリが出てくる。
ダイコンの種をまいてキュウリが生えることも、
キュウリの種をまいてダイコンが出ることもありません。

まいた種と同じものしか生えてはこないのです。
ダイコンの種をまきながら、
“何が生えてくるのかな”という農家の人もないし、
キュウリが出たのを見て、“あの時、何をまいたかな?”
と迷う人もないでしょう。
まいたものを知れば、何が出てくるか分かるし、
出てきたものを見れば、まいた種が分かるからです。

EPSON123.jpg-1

次に、「自因自果」とは、まかぬ種は生えぬ、
刈り取らなければならぬ一切は、
自分のまいたものばかり、

ということです。

自分が酒を飲めば自分が酔う。
友達が一生懸命、勉強しても、自分の成績は上がりません。
自ら努力して勉強しなければ、成績は上がらない。
まいたその人に結果が現れるのであって、
他人のまいた種の結果が
自分に現れたり(他因自果)、
自分のまいた種の結果が
他人に出る(自因他果)こともありません。


この場合、「原因」とは私たちの「行為」。
「結果」とは、本来、仏教では使わない言葉ですが、
分かりやすく言えば、「運命」のことです。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」。
善い行いは、善い運命(幸福)を、悪い行いは、
悪い運命(不幸)を生み出す
、ということです。
善いことをして、悪い運命が引き起こることもなければ、
悪いことをしたのに、善い運命が現れることもない。
善いのも悪いのも、
自分に現れる運命のすべては、
自分の行いが生み出したものなのだ

と仏教では教えられているのです。

だれもが、知らず知らず、この因果の道理を信じて
生活しているのではないでしょうか。

受験生が勉強に励むのは、志望の大学に合格し、
将来、少しでもいい仕事に就くためでしょう。
望む職を得たら、一生懸命、働く。
仕事のやりがいや、より多くの収入、
ゆとりのある生活を求めてのことです。
まじめに努力することが、よりよい人生を生み出すと
信じているからです。
どんな場合も、行為に応じた結果が現れる因果の道理を、
無意識にでも信じているのです。


EPSON124.jpg-1

自因自果と思えない・・・

ところが一方で、
そう思えないことも世の中には多くあります。
あるところに、家事や育児もよくこなしている
非の打ち所のない周囲も認める奥さんがいた。
ところが主人ときたら、朝から仕事もせずに飲んだくれ、
妻の収入をギャンブルで使い果たし、
果ては暴力まで振るう、とんでもない男。
「気の毒な奥さん、あんなご主人さえいなければ、
これほど苦しまなくてもいいのにねえ・・・」
周囲も口々に言い、奥さん自身も思っている。
だれもが彼女に同情しますが、
これも自因自果なのでしょうか。

仏教ではやはり、奥さん自身が生み出した結果だと
教えられるのです。
どうしてでしょう。
確かに、夫は悪い男で、“彼さえいなければ”
と思うのも無理からぬことです。
しかし落ち着いて考えれば、周囲の人々の中で、
このように苦しんでいるのはこの女性一人。
ほかの人にない原因が、彼女だけにあったのです。
それはこの夫を好きになって、
結婚したということです。
こんな男が存在していても、結婚さえしなければ、
今の苦しみは生じなかったはず。
苦悩の原因を突き詰めれば、
ほかに男性はいくらでもいたのに、
よりによってこの男を好きになり、
結婚した奥さん自身の行為にほかなりません。

では、この夫は何の関係もないのか。
もちろんそうではありません。
ここで知っていただきたいのは、
「因果の道理」とは、正確には、
因縁果の道理」であるということです。


例えば、米という結果の因はモミダネですが、
畳の上にまいたのでは芽は出ません。
モミダネが米になるには、
土や水、日光、空気、肥料などの助けが必要です。
これらを縁といいます。
また逆に、土や水などの縁があっても、
モミダネがなければ米は得られません。
因だけでも、縁だけでも、果は生じない。
因縁が和合して初めて、結果が生じるのです。



EPSON124.jpg-2

この夫は大変な悪縁です。
ですから言動を正すよう、働きかけることが大切なのは
言うまでもありませんが、
あくまでも原因は、彼を好きになって結婚した
奥さん自身にあるのです。



EPSON125.jpg-1

また、こんな場合はどうでしょうか。
広い優先道路を帰宅中のAさんの車に、
交差する狭い道から一時停止もせずに
飛び出してきたBの車が衝突し、
Aさんは大ケガをした。
こんな時、“全面的に悪いのは、Bではないか”
と思う人は多いでしょうが、
これもやはり自因自果なのです。
なぜでしょう。
Aさんの前後には、多くの車がこの道を走っていた。
しかし、Bの車とぶつかったのはAさんのみ。
わずか数秒でもずれていれば衝突は免れたはずなのに、
なぜよりによってAだけが事故に遭わねばならなかったのか。
暴走車が突っ込んでくる瞬間に、
そこにいなければならなかった原因を、
Aさんだけが持っていたからであり、
自身の種まきによって、その時、
その場所に引きずり出されたのです。

狭い道から、一時停止せずに飛び出してきたBは悪い縁。
そのような悪縁をなくすよう、
厳重な取り締まりが必要なのは、
言うまでもありません。
しかし、事故に遭った直接の原因は、
あくまでもAさん自身にあった、ということです。


EPSON125.jpg-2

●ナワをうらむ泥棒

私たちは、思わぬお金が儲かったり、
人から褒められたりと、
善い運命が訪れた時は、
「そうそう、オレが頑張ったからさ」
と因果の道理を素直に認めることができます。
ところが不幸な目に遭ったらどうでしょう。
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」
と怒り、周囲を恨んだり、のろったりしないでしょうか。

あまりにも不幸な時は、
「自因自果」とは思えずに、
「他因自果」と思う心が噴きあがります。

昔からそれを、
ナワをうらむ泥棒
といわれます。
御用となった泥棒がナワで縛られ苦しんでいる。
彼は、“オレを苦しめているのは、このナワだ”と考え、
恨んでいる。
果たしてその考えは正当か。
愚かで滑稽だとだれでも思うでしょう。
泥棒を苦しめているのは、
彼自身の犯した悪事にほかならないからです。
ところが、目先のことしか分からぬ泥棒は、
自分を苦しめているのはナワだと思い、
過去に犯した悪の行為の結果とは、
夢にも気づかない。
世の中にナワがどれだけあっても、
縛られるような悪事を働かなければよかったのに、
そうとは思えないのです。
しかし、この泥棒を笑える人はどれだけあるでしょうか。

今年2月、滋賀県の34歳の女性が、
娘の友人である幼稚園児2人を刺殺するという
衝撃的な事件がありました。
(平成18年のことです。)
「自分の子供が周囲になじめないのは、
ほかの子供のせい」
女性は動機をこう語ったそうです。
自身の苦しみの原因を、いたいけな子供に転嫁して、
殺してしまうとは、
まさに「ナワをうらむ泥棒」の姿そのものです。
「こんなところに嫁に来たから苦しいのだ。
隣の家ならよかった。仲人が悪い」
「あの時、あの人があんなことを言ったから、
今こんなふうに苦しんでいるんだ」
などと運命をのろい、他人を憎んでいる心はないか。
とんでもないものを恨んだり、
腹を立てたりしていないでしょうか。
因果の大道理を知らぬ愚か者はだれか。
振り返らずにおれません。


EPSON126.jpg-1

●いつの時代でも

時代や立場が変わっても、
これは変わらぬ人間の姿でしょう。
お釈迦さまの時代にも、
こんなことがありました。

当時、四隣(しりん)に覇をふるった
マガダ国のビンバシャラ王は、
釈尊から教えを受けていたが、
ある時、あろうことか生んだ我が子・アジャセ太子によって
牢屋に入れられ、大変な苦しみを受けていた。
苦しむ王の心の声を察知なされ、
お釈迦さまは弟子のフルナと目蓮を遣わされる。

王は彼らに切々と訴えた。
「フルナ様。わが子のために、
なぜこんな仕打ちを受けねばならぬのか。
私、分かりませぬ。
あれほどあの子のことを案じ続けてきたのに。
今は憎しみばかりわいてくる。
どうしてこんなことになったのか。分かりませぬ。
私には、どうしても・・・」
「ビンバシャラ王殿、静かに、
お釈迦さまのご説法を、思い出してくだされ。
お釈迦さまは常にお説きくださいました。
『善因善果 悪因悪果 自因自果』。
まかぬ種は生えぬ。
刈り取らねばならぬすべては、
自分のまいたものばかり。
私たちの身に起きる一切は、
私たちのやった行為の結果であると。
深く、過去の行いを振り返ってみようではありませんか」
フルナ尊者の言葉に、王は思い出してみるが、
どうしても分からない。
フルナは言った。
「ビンバシャラ王殿。
よくよく思い起こしてくだされ。
子供欲しさに、韋提希夫人と修行者を
殺害したのはだれか。」
「ああ・・・」
ようやく王は気づく。
かつて永らく実子に恵まれなかった時、
妻・韋提希とともに迷った王は、
“奥山の修行者が死ねば太子が生まれる”との占いを信じて、
殺してしまう。
やがて身ごもった韋提希が、
修行者のたたりを恐れたため、
今度は生まれてくる子供を剣の林に
生み殺そうとしたのである。

一部始終を思い出した王に、フルナ尊者は語りかけた。
「ビンバシャラ王殿。
まかぬ種は生えませぬ。
今の地獄は、あなた自身が造られたもの。
それ以外のものではありませぬ」
「ああ、そうだったのか・・・。
いつも、お釈迦さまから
お聞かせいただいていたことなのに。
己のまいた種を忘れておりました・・・。
教えの通りであった。
今にして、お釈迦さまのみ教えが、身にしみ入りまする」
大地に五体を投げだし、王はさめざめと懺悔した。

EPSON127.jpg-1

●幸せな未来は
   現在の自己が造るもの

今、自分が受けている結果のすべては、
過去の自分の種まきが生み出したものと知れば、
善果には感謝となり、悪果は反省、
向上の得難い勝縁になりましょう。

冒頭の寺井さんの手記にも、
“自因自果に間違いない”と知らされた時、
“心が楽になった”
とあります。
この真理に気づかれたからこその、
心の転換だったのです。


真実の仏法を知らされ、
因果の道理を信じている人は、
悪い運命に遭えば、
自己の過去の行為を懺悔し、
善い運命に恵まれれば、
より努力精進して無限の向上に
努めずにおれなくなってきます。
成功も栄達も皆、その人の努力精進の結果です。

厳正な因果の理法を知らず、
不平や愚痴を並べる者には破滅あるのみ。

現在の運命はかつての自己が創造し、
未来は今からの自己が造る
と分かれば、
乱暴な自暴自棄も、無気力なアキラメも吹き飛んで、
過去を反省し、よりよき明日に全力を挙げる、
強くたくましい人生が開けるのです。



EPSON127.jpg-2


タグ:因果の道理
nice!(121)  コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 121

コメント 9

miel-et-citron

なにか漠然としてたものを
再確認出来た気がしました(*^-^)

by miel-et-citron (2014-01-31 23:57) 

minsuke

miel-et-citronさん、コメントありがとうございます。
因果の道理は、日常でも感じますね。
仏教を聞けば、人間のあるべき姿を学べますよ。
また読みに来て下さいね。
一番大事なことは、後生の一大事の解決で、
どうして死ぬと地獄なのか、
どうすればそれが解決できるのか、
が次第に分かってきますから。
by minsuke (2014-02-01 01:26) 

ちゅんちゅんちゅん

おはようございます!
母を看病していた時から
ずっと心に沈殿していた何かが
ちょっとはっきりしてきたように思いました。
by ちゅんちゅんちゅん (2014-02-01 07:27) 

minsuke

ちゅんちゅんちゅんさん、コメントありがとうございます。
お釈迦さまは、仏教を聞くために、
親の看病は進んでしなさいと教えています。
親孝行せよということは当たり前ですが、
看病すれば、自分の心の相(すがた)を知ることができるからです。
親のために献身的に看病しようとすればするほど、
思ってはならないことが思え、自分の心の醜さを知らされます。
阿弥陀仏に救われるには、
自分の本当の心を見つめていかなければならないと教えられています。
善に向かえば向かうほど、悪しかできない自分が見えてくる。
お釈迦さまは、人間は善の一つもできないものと
大無量寿経に説かれています。
しかし、廃悪修善をすすめられました。
人間は一善もできない悪の造りどうしと知りながら、
悪をやめて善をせよと教えているのです。
それは何故か、
うぬぼれ強い私たちは、実際に善をやってみないと、
善のひとつもできないことが分からないからです。
まだまだ書きたいことがありますが、
また訪問いただければ、次第に理解できると思いますよ。
by minsuke (2014-02-01 10:11) 

johncomeback

今日も勉強になりました、ありがとうございます。
by johncomeback (2014-02-01 14:21) 

セイミー

ご訪問いただき有難うございます お正月のまだ明けやらぬ朝 和尚さんの
お供をして檀家全部を回り新年おめでとうと叫びました

by セイミー (2014-02-01 19:45) 

minsuke

johncomebackさん、セイミーさん、コメントありがとうございます。
またご訪問ください。
どんどん仏教の核心にせまった記事を載せますので。
by minsuke (2014-02-01 20:21) 

九子

minsukeさん、こんばんわ。
nice!を頂き伺ってみたら、正統派の仏教徒の言葉が並んでいるのに本当に感心しました。
また読ませていただきたいと思います。
有難うございました。
by 九子 (2014-02-01 23:31) 

minsuke

九子さん、コメントありがとうございます。
うれしいコメントです。
お釈迦さまの本当の教えは、
我々人間を未来永遠に幸福にする
言葉では表現できないほど素晴らしい教えです。
また読んでいただければ、
次第に分かると思いますので、
ご訪問くださいね。
by minsuke (2014-02-02 05:07) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。