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釈迦の説かれた経典の真意を教える人とは!? [釈迦]

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(三蔵法師) 

子どもの頃、西遊記をテレビで見ていました。
孫悟空と三蔵法師が、妖怪や盗賊などの敵と戦っては、
道中の幾多の困難を克服して、
中国からインドへ命がけで、
釈迦の説かれた経典を求めに行く内容の番組です。
私はその番組を見て、
どうしてそれほどまでにして経典を求める必要があるのかな、
お釈迦さまは何を説かれたんだろうと興味を持ちました。
いつか自分も何が説かれてあるのか聞いてみたいと思っていました。
でも日本に説く人があるんだろうか、とても疑問でした。

ところが今、私はすでにここ日本で
その教えを聞かせていただいています。
お釈迦さまが説かれていたのはどんなことなのか。

それは、人間が本当に幸福になるための真理です。
我々はみな苦しんでいます。
その苦しみの本当の原因は何であるのか、
どうしたらそれが解決できるのか、
未来永遠の崩れない幸福を手に入れるにはどうすればいいのかを
教えて下さっているのです。

いくらお釈迦さまの教えが経典に説かれてあると言っても、
それを理解し、解釈して、私たちに教えてくれる人がいなければ、
お釈迦さまの真意が分かりません。
その真意を教えてくれる方が、善知識といわれるお方なのです。
今回は、その善知識について書きたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

善知識にあうことも
教うることもまたかたし
よく聞くこともかたければ
信ずることもなおかたし
     (親鸞聖人・正信偈)

親鸞聖人はここで、「善知識に遇うことが難しい
とまずおっしゃっています。
「善知識」とは、先ほど説明したように、
本当の仏教を教える先生のことで、

『御文章』に、蓮如上人は、
善知識というは「阿弥陀仏に帰命せよ」と言える使(つかい)なり
               (ニ帖目八通)
と言われています。

「使い」とは、「阿弥陀仏の使い」ということ、
「帰命」とは『阿弥陀仏に助けてもらいなさい』と伝える、使いなのだよ」
と分かりやすく教えられています。
これを、さらに丁寧に

善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
人を勧むべきばかりなり
                (二帖目十一通)
ともおっしゃっています。
「能」とは、任務とか役目、使命のことですから、
「善知識の任務は、『一心一向に阿弥陀仏に助けてもらいなさい』と、
皆さんに勧めることだけなのだ。
そのように皆さんに教える人を善知識というのだ」
という意味です。
僧侶と名のついている人なら、だれでも善知識なのかというと、
そうではないぞ、寺に住まいし袈裟をかけ、数珠を持ち読経しておっても、
「一心一向に阿弥陀仏に助けてもらいなさい」と教え勧めない者は、
善知識ではない
のだと、蓮如上人はおっしゃるのです。
ここで、「阿弥陀仏に帰命せよ」とか、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
とはどういうことでしょうか。

●仏教の結論は「一向専念無量寿仏」

お釈迦さまが説かれたことは、七千余巻の一切経に書き残されていますが、
その結論が「一向専念無量寿仏」。
一切経は、この感じ八字におさまります。
「無量寿仏」とは阿弥陀仏のことですから、
「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」
ということです。
どうしてかというと、阿弥陀仏以外に、私を助けることのできる仏はいないからだと、
お釈迦さまは教示され、蓮如上人は、それをこう言われています。

それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従(さんしょう)の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨てはてられたる我等如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成(くおんじつじょう)の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して(おこして)
                  (御文章二帖目八通)

私たちは、何のために生まれてきたか分からず、苦しんでいます。
自殺する人は日本だけでも年に三万人以上、
交通事故死の四倍以上です。
科学がこれだけ進歩しても、政治形態が変わっても、
物質が豊かになっても、生活が便利になっても、
自殺をする人が、後を絶たない。
それだけ、苦しみが絶えないということでしょう。


その苦しんでいる私たちをご覧になられて、じっとしておれないのが、
仏さまの慈悲。
大宇宙の仏方も、何とか助けてやりたいと思われたのですが、
全人類は重い心の病にかかっている。
どうすることもできずに、救済を断念されたことを、
「十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」と言われています。
「悲願」とは、大慈悲によって起こされた願い。
「洩れて」とは、それでも助けることができなかった、ということです。
「捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
とあるように、私たちは仏さまに見捨てられたのです。


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ちょうど、肉体の病気でも、小さな町医者に行ったところが、
検査してみるととても重い。
「うちでは治せません、大きな病院に行って下さい。」
と言われたようなものです。
ところが、大病院に行ってみても、「私の力では無理です」と、
やはり断られた。
ついに、すべての医者に見放されたようなものです。

そこで諸仏に捨てられたのなら、なおかわいい、
「よし、私が助けてやろう」と、
ただお一人立ち上がって下されたのが、阿弥陀仏という仏様なのだ、
と言われているのが、
「弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して(おこして)」
助ける力のない仏にすがっていてもダメなのです。
ましてや仏の下の菩薩や神に助ける力はありません。
大宇宙広しといえども、本師本仏の阿弥陀仏しか、
我々の重い病気を治す力のある仏はない。

お釈迦さまにもないから、
「一向専念無量寿仏」
助ける力のある弥陀一仏に向け、弥陀を信じて助けてもらいなさい、
これがお釈迦さまの仏教の結論なのです。

これ以外に、阿弥陀仏の弟子である釈迦の使命は、ありませんでした。


「専念」とは「一心」ということですから、
「一向専念」を蓮如上人は「一向一心」といわれ、
『御文章』二帖目十一通では、
「一向一心に弥陀に帰命したてまつるべし」
と言われているのです。
このように教える人が善知識ですから、
お釈迦さまは善知識の元祖ということになります。
地球上で最初に「阿弥陀仏に帰命せよ」と教えられた方は、
お釈迦さまですから。
しかしその後、釈迦の教えを正しく伝える人がなかったならば、
知ることはできなかったのですから、
親鸞聖人は、よき人法然上人から「阿弥陀仏に帰命せよ」と勧められて、
救われられた。
ですから、親鸞聖人の善知識は法然上人。
親鸞聖人も、「一向専念無量寿仏」を叫ばれ、
蓮如上人も親鸞聖人の教えをそのまま伝えられたお方ですから、
もちろん善知識です。

●「まことなるかな」・・・歓喜の叫び

阿弥陀仏に帰命したらどうなるのか、というと、
「無碍の一道」へ出ることができます。
碍とは、さわり。
無碍とは、人生いろいろなさわりが、さわりにならなくなる。
人間に生まれてよかった、という生命の歓喜を味わうことができるのです。
後生(死後)に何の明かりもない心を、「無明の闇」とか「無明業障の恐ろしき病」
と言いますが、これは死を真面目に見つめないと分からない心です。
ほとんどの人は気がついていませんが、
苦しみの根源は、この無明業障の病なのです。
この病気を「必ず治して、無碍の一道に出させてみせる」と誓われているのが、
「阿弥陀仏の本願」です。

本願とは誓願ともいわれ、お約束のこと。

DSCF1057


ところが当の私たちは、そんな大病にかかっている自覚がない。
苦しんでいるのは金がないからだ、こんな人と結婚したからだ、
他人から認めてもらえないからだ、ぐらいに思っている。
苦しみの根源を正しく知らないから、
いつまで経っても本当の幸福になれない
のだと、哀れに思われた本師本仏の弥陀が、
「全人類のかかっている無明業障の恐ろしき病を、アッという間もない一念で、
必ず完治させてみせる」と、命を懸けられた誓い、これが「弥陀の本願」
です。
では、そんな大変な病気が、治ることが本当にあるんでしょうか。
親鸞聖人は、「あるのだ」と、無明業障の恐ろしき病が一念で完治した体験を、
次のように言われています。

まことなるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法

「まことなるかなや」とは、「まことだった、本当だった、ウソではなかった」
という叫びです。何がまことなのか。
「摂取不捨の真言」とは、「摂(おさ)め取って捨てない」ということですから、
無明業障の恐ろしき病を完治させ、
無碍の一道、絶対の幸福に救ってみせる、という阿弥陀仏の本願を、
「摂取不捨の真言」といい、世の常識を超えた二つとない真実ですから
「超世希有の正法」と言われているのです。
その弥陀の本願を、「本当だった」と体験するのは、
絶対の幸福に救われた時です。


親鸞聖人は、四歳でお父さま、八歳でお母さまを亡くされ、
次に死ぬのは自分だ、この暗い心をなんとかしたいと、九歳の時、
比叡山天台宗の僧侶になられました。
比叡山には、全国の優秀な人が集まっていました。
まだ阿弥陀仏の本願を知らない聖人は、
「どこかにこの心の解決を教えて下さるかたがないのか」と、
仏教を説く僧たちの話を聞いて、修行に励んでおられました。
ところが、二十年間打ち込んでも、暗い心はどうするこもできませんでした。

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そこで、比叡山をあきらめて、泣く泣く京都の町をさまよい歩いておられた時に、
かつての比叡山の法友、聖覚法印とばったり会われたのです。
吉水に法然上人ましますことを聞き、聖人は二十九歳の時、
その法然上人から初めて阿弥陀仏の本願を聞かれ、
無明業障の恐ろしき病を完治されたのです。


その時の喜びが『教行信証』の、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
「阿弥陀仏の本願、本当だった、ウソではなかった」
の表明です。
本当に絶対の幸福になれるんだろうかと、皆さん思うかもしれませんが、
この親鸞がなれたが証拠だ
、と高らかに宣言され、
「聞思して遅慮することなかれ」
モタモタせずに弥陀の本願を聞き求め、
一日も早く本当の幸福になりなさいよ!
と勧めておられるのです。

●弥陀の本願、聞け聞け

「善知識にあうことは、大変難しい」といわれているのは、
親鸞聖人ご自身の体験からです。
日本中の仏教の先生が集まっていた比叡山で、
二十年間、本当の仏教の先生に遇うことはできなかった。
泣く泣く下りられた聖人が、
「一向専念無量寿仏」と説き切られる法然上人にお会いして、
弥陀に摂取されました。
「もし親鸞、法然上人にお会いすることができなければ、
救われることはなかったであろう」と、

昿劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし

とまでおっしゃっています。
善知識に遇うことが、いかに難しいか。
骨身にしみて親鸞聖人は、法然上人にお会いできた喜びを叫ばれているのです。


「教うることもまたかたし」
善知識が、私たちに分かるように仏法を教える、伝えるということは、
また難しいことなんだ。
すべての人に、無明業障の恐ろしき病にかかっているんだよ、
と知らせ、その病気を治すには弥陀一仏に向け、
阿弥陀仏だけを信じよ、と教えることが難しいのです。

その善知識の教えを、
「よく聞くこともかたければ」
とは、「正しく聞く」ということが難しい。
みんな都合のいいように聞こうとしますから、
正しく聞くことは非常に難しいのです。


「信ずることもなおかたし」
善知識の教えを、本当だった、ウソではなかったと信じることも難しい。
「弥陀の本願まことだった」と、
無碍の一道・絶対の幸福になることは、もっとも難しいことだ。
だが、弥陀の願力不思議によって無明業障の病が完治し大慶喜する時が、
必ずあるのだから、仏法を真剣に聞き抜きなさいよ、
と聖人はいわれているのです。

 


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