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どうしたら幸せになれる、釈迦が説き明かした因果の道理 [因果の道理]

「六月に結婚すれば幸せになれる」
ジューンブライド(六月の花嫁)は西洋からの伝承ですが、
日本では古くから、結婚式といえば、
「大安」といわれてきました。
ふだんはそんなことを全く気にしない人でも、
結婚という人生の大事になると、
とたんに心配になってくるのでしょう。
幸せになりたい。
だれもがそう願っています。

ではどうしたら幸せになれるか。
幸福という運命は、何によって得られるのか。
みんなの最大の関心事にはっきりと答えられたのが、
お釈迦さまなのです。






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●ロケット打ち上げも神頼み

平成十七年二月、種子島の宇宙センターから、
日本の国産ロケットが打つ上げられ、
見事に成功しました。
前回の失敗から、一年三ヶ月ぶりのことです。
打ち上げの前日、関係者たちが、成功を祈願して、
島内の三つの神社を回ったと報道されていました。

実は、前回の打ち上げ前も、
同じ神社に行ったそうですが、
失敗したので、
今回は、回る順番を変えたといいます。

ロケット打ち上げの関係者といえば、
科学の最先端を行っている人たち。
しかし、今度失敗したら後がない、
という追いつめられた状況になると、
まさに、“困ったときの神頼み”で、
すがらずにおれなくなるのでしょう。

ふだんは、「信仰なんて自分には関係ないよ」
と言っている高校生も、大学受験が目前に迫ると、
神妙な面もちで、神社に行って、
柏手(かしわで)を打っています。
入りたい大学に合格できるか、
大学生になれるかの不安を
和らげようとしているのでしょう。

●占い産業が、盛んな訳

婚約が決まり、結婚式が近づくにつれて
深刻な不安に襲われる人が多く、
その心の状態をマリッジブルーといわれます。
本当に幸せになれるのかなあ、と心配になり、
中には、血液型、星座などで相手との相性を占って、
安心しようとする人もあります。
仕事で大きな決断を迫られた時、
社長や一国の大統領でも、
占い師に相談する人があるようです。
科学が発達しても、
占い産業は衰えるどころか、
ますます盛んになっています。

テレビをつければ、朝から星座別の運勢が流れ、
雑誌に占いのページを入れると
販売部数が増えるともいわれる。
最近は、占い付きの炭酸飲料や、
開運をうたう芳香剤なども、
売り上げが伸びています。
ここ数年間で、インターネットのホームページ上に、
動物占いや家電占いなど、
さまざまな種類の占いが氾濫するようになりました。

血液型占いによる性格判断の影響で、
学校のいじめが始まったり、
大人同士でも、人間関係が損なわれている、
という苦情も出ているほど。

根拠のない迷信だよ、と言いながら、
何となくほうっておけず、
テレビに流れる今日の運勢が気になってしまう。

それだけ未来が不安で、
幸せになるにはどうすればいいか
知りたいのでしょう。
しかし、未来の分からない暗い心は、
時にとんでもないものを信じてしまいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あるところに、恵まれた三人の子宝が皆、娘で、
何とか息子が欲しい夫婦があった。
妊娠した妻の元に、ふと訪ねてきた男が、
「今度は、男と女、どちらをお望みですか」
と聞く。
「ぜひとも男の子」
正直に告白すると、
「私は神様のお力を得ている。
お気の毒だが、今度も女の子です。
しかし、今のうちに、神様に祈祷すれば、
男に変わらぬものでもない。
一回五千円、神様のお礼を。
だいたい、四、五回で済みましょう」
と言う。
半信半疑ながら、夫も喜ぶことだからと、
誰にも内緒で祈祷を頼んだ。

いよいよ満願の日、
いつものように夫の出勤後、祈祷師がやってきた。
ところが、忘れ物で途中で帰宅した夫、
見かけぬ男が妻の腹の上に御幣をのせて、
一心に呪文のようなものをとなえているので驚いた。

妻の打ち明け話を、黙って聞いていた夫は、
ちょっと外出すると言って、
まんじゅうのアンを抜いて牛糞を詰めて帰ってきた。
「これでもどうぞ」
どんな大波乱が、と案じていた男、
ホッとしてか、まんじゅうをがぶりとほうばった。
思い切り牛糞を食わされて激怒する祈祷師を、
「まんじゅうのカワ一枚中さえ、
分からなかったのか」
と夫婦ともに笑った。
男はコソコソと逃げ去ったという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たわいもない迷信に惑うのは、
心に光のない悲しさです。


運命が何によって決まるのか、
お釈迦さまは、
どのように教えられているのでしょうか。



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●七千余巻の教典を貫く真理

私たちの運命の法則を教えられたのが、
「因果の道理」です。

因果の道理は、仏教の根幹。
根幹とは、根であり、幹である、ということです。
仏教を木に例えますと、
因果の道理は、根っこであり幹にあたります。
根っこが無ければ木は枯れてしまいますし、
幹を切ったら、木は倒れてしまいます。
ですから、因果の道理が分からなければ、
仏教は一切分かりません。
仏教は七千余巻の一切経に
すべて書き残されていますが、
それら一切経を貫いている教えが、
因果の道理なのです。


「道理」とは、三世を貫き、
十方をあまねくものをいいます。
「三世」とは、過去世・現在世・未来世のことで、
三世を貫くとは、“いつでも”ということ。
「十方」とは、東西南北上下四惟のことですから、
十方をあまねくとは、“どこでも”ということです。
いつでもどこでも変わらないものを、
道理といわれます。

明治時代は正しいといわれていたが、
平成の今日では間違いとされるようなものは、
道理とはいいません。
また日本では正しいけれども、
アメリカや中国に行くと通用しない、
というものも、道理とはいえません。
いつの時代でも、
どこへ行っても変わらない事実を、
「道理」といいます。

仏教はそんな道理を、
二千六百年前から教え続けられているのです。
ですから、「世の中がこれだけ変わったのだから、
仏教も変えなければ」
という人が時々いますが、
その人は、仏説の何たるかを知らないのでしょう。
仏教には、いつでもどこでも変わらない
普遍の道理が説かれています。


●まいた種は、必ず生える

次に、「因果」とは、原因と結果ということです。
仏教では、どんなことにも必ず原因がある、
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
教えられています。


例えば、列車が脱線した、というのは結果ですが、
これには必ず原因があります。
スピードの出し過ぎとか、
線路の異常とか、必ず原因があって、
脱線という結果が起きたのです。
原因なしの脱線など、絶対にありませんから、
二度と事故が起こらないよう、
原因を徹底的に調査究明するのは当然のことです。

もちろん、原因が分からない、
ということはあります。
例えば、太平洋の底深く沈んでしまった飛行機を
引き上げることができず、
墜落の原因をそれ以上、調査できない、
ということはあるでしょう。
しかし、原因が分からないことと、
原因がないということとは、全く異なります。
この世のことはすべて、どんな小さな結果にも、
必ず原因がある。

財布を落としたという結果にも、
ポケットに穴が開いていたとか、
ボーッと歩いていたからとか、原因があります。

科学が、今日のように長足の進歩を遂げたのも、
原因追究の努力のたまものでしょう。
「結果には必ず原因がある」という因果律が、
科学の大前提なのです。

世間ではよく、「偶然こうなった」と、
原因なしに結果だけあらわれたように
言う場合がありますが、
それらも、そうなった原因を
見極めることができないだけであって、
因なくして成った果ではありません。

原因なしに起きる結果は絶対にないし、
原因があれば必ず結果が生じる。
平たい言葉で言いますと、
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える、ということです。


世の中にはさまざまな因果関係がありますが、
特に仏教では、私たちにとって、一番知りたい、
幸福の原因と結果の関係が、
詳しく教えられています。



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●運命はどのように決まるのか 
      お釈迦さまの解答

では、原因と結果には、
どのような関係があるのでしょうか。
お釈迦さまは次のように説かれています。

善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果」とは、善い原因は善い結果、
「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、
ということです。

善い種まきをすれば善い結果があらわれ、
悪い種まきをすれば悪い結果が起きる。
善い種をまいて悪い結果が起きることもなければ、
悪い種をまいて善い結果があらわれることもありません。

分かりやすく言いますと、
ダイコンの種をまけばダイコンが、
カボチャの種をまけばカボチャが出てくるということです。
ダイコンの種をまいてカボチャが出てきたり、
ナスビの種をまいてスイカが出てくることは絶対にない。

まいた種と同じものしか、生えてこないのです。
ですから、まいた種をみれば、何が出てくるか分かりますし、
出てきたものを見れば、何の種をまいたかが分かります。

次に「自因自果」とは、自分のまいた種は、
自分が刈り取らねばならない、
ということです。
他人のまいた種の結果が
私にあらわれるという
「他因自果」もないし、
私のまいた種の結果が
他の人に行くという
「自因他果」も絶対にないと、
教えられています。


●行為が運命を生み出す

ここでお釈迦さまが「因」といわれているのは
「行い」のことであり、
「果」とは「運命」のことです。

自分が勉強すれば、自分の成績が上がる。
勉強したら他人の成績が上がる、と思えば、
努力がバカバカしくなるでしょう。
酒を飲んで酔っぱらって怪我するのは、
飲んだ本人であって、
隣にいる人がフラフラになるということは
絶対にありません。

幸福という善い運命は、
善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難という悪い運命は、
悪い行いが引き起こしたものなのです。
善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、
自分のやった行為が生み出したものであり、
それは万に一つも例外はない

と教えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※三業
●身業・・体でやる行い
●口業・・口でやる行い
●意業・・心でやる行い

このうち、仏法では心が最も重視されます。
心はあらゆる行為の元であり、
心で思ったことを、
体が行い、口で言うからです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私が苦しいのは夫のせい?

しかし、世の中には、自分の種まきの結果とは思えず、
人のせいで苦しんでいるのではないか、
と見えるようなこともあります。

例えば、こんな夫婦がいたらどうでしょう。
働き者の奥さんは、家事や育児もソツなくこなし、
愛想もいい、近所でも評判の良妻賢母。
ところが、夫はろくに働きもせず、酒を飲み、
ギャンブルに明け暮れて、
妻の稼いだ分まで持っていく。
そのために奥さんが、
地獄のような苦しい生活を送っている。

このような場合、奥さんは悪くない。
夫のせいで苦しんでいるのではないか、
と言いたくなります。
他人のせいで自分が苦しむ、
他因自果のように思えますが、
果たしてそうでしょうか。
こんなひどい男がいても、
世間中の他の女性たちは、
この奥さんのような苦しみはありません。
つまり、この奥さんと他の女性たちとは、
結果が違うということです。

それは原因が違うからです。
この奥さんだけにあって、他の女性にはない原因があった。
そう、この男と結婚したということです。

世の中に、たとえこんなひどい男がいても、
結婚さえしなければ、
この奥さんは苦しむことはなかったでしょう。
周囲には、ほかにも男性はたくさんいたのに、
どうして、この男性を選んだのか。
奥さんは、こんな男を好きになって結婚した、
という自らの種まきによって、苦しんでいるのです。

もちろん、この夫は、奥さんの苦しみに全く無関係、
というわけではありません。
夫は、悪縁であったのです。


縁とは何かといいますと、
因が結果を生じるのを助けるものをいいます。

米を例に考えてみますと、まかぬ種は生えませんから、
米はモミ種なしには、生えてきません。
しかし、モミ種をいくら畳や床の上にまいていても、
米は取れません。
土や水、日光が必要でしょう。
空気や肥料などの助けがあって初めて、
米が収穫できるのです。
この場合、モミ種は因であり、土や水分、
日光などを縁というのです。


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すべてのものは、因と縁が和合して、
結果を生じます。
因があっても縁がなければ、
結果は起きません
から、
悪縁を減らす努力も必要でしょう。
しかし飽くまでも、因は自分にあり、
自因自果の道理には、寸分の狂いもありません。
自分の運命のすべては、
自分の行為の生み出した結果なのです。


●「縄をうらむ泥棒」 
     笑えるのはだれ?

私たちは、善い運命が来たときは、
「善因善果 自因自果」だと思いますが、
悪い運命がやってくると、
「悪因悪果 自因自果」とは思えず、
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」と、
他人を恨む心が出てきます。


「縄をうらむ泥棒」という言葉があります。
捕まって縄に縛られ、苦しんでいる泥棒が、
「オレが今苦しんでいるのは、
この縄のせいだ」と恨んでいる、
バカな姿を言った言葉です。

なぜ愚かなのか。
世の中にはいくら縄があっても、
他人の物を盗みさえしなければ、
縛られることはありません。
泥棒が恨むべきは、縄ではなく、
自分の悪い行いでしょう。

しかしこの泥棒を笑える人はあるのでしょうか。
「あの人のせいで、こんなに苦しんでいる」
「子供のために」「親があんなことを言ったから」
「こんな世の中だから」「社会が悪い」
などと恨んでいるのは、みんな縄を恨んでいる姿です。


私たちは、不幸な運命が来ると、
「私がいつ、
こんな目に遭わねばならないことをしたか」
と思いがちですが、
過去の種まきを忘れているだけなのです。

「火の車 造る大工は なけれども
     己(おの)が造りて 己が乗りゆく」
という歌がありますが、
火の車(苦しい状態)は、他人が造ったのではなく、
自分が造って、自分が乗っていくのです。

因果の道理に狂いはなく、
他因自果は万に一つもない、
と教えられるのが仏教です。

●光に向かって進む
      たくましい人生に

私の運命は、
神が造ったものでなければ、
印鑑や手相の善し悪しで
決まるものでもありません。

現在、受けねばならぬ一切の運命は、
自己がかつて創造したものであり、
未来の運命は、
これから自己が創造していくものです。


大安、仏滅などと書き込まれたカレンダーはありますが、
日に善悪があるのではありません。

お釈迦さまは、
「如来の法のなかに
吉日・良辰(りょうしん)をえらぶことなし」
“日に善悪はないのだ”と断言されています。
常に光に向かえば、「日々是好日(ひびこれこうじつ)」
と毎日がよい日になる。
逆に心がけが悪ければ、悪い日にもなるのです。
努力もせず待っていて
幸福がやってくるのではありません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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こんな話があります。

ある人が、十月の初めごろ、旅に出て東の国を通った。
涼しい風が、そよそよと稲穂を渡り、よく実って、
見渡す限りの黄金の波。
そばには農夫がニコニコ顔で、
のんきに仕事をしていた。
その後、またその国を通ると、
黄金の波は米俵と変わって、
家々の軒下に山と積まれている。
どの家からも、楽しそうな談笑が聞こえてくる。
旅人は、
「東の国は極楽だ。
苦労もしないで、あんなにたくさんの収穫があるのだ」
と、うらやましがった。
これを聞いた隣の人は、
「そんな国なら、一度行ってみたいものだ」
と、五月の初めごろ、東の国へと旅に出た。
すると、みんな泥だらけになって、
汗水流して働いている。
意外に思いながら、六月の終わりごろにも通ると、
頭から焼け付くような日に照らされ、
滝のように汗をだくだく流し一生懸命に働いていたが、
黄金の波も、山と積まれた米俵も見られなかった。
「隣の人にだまされた。
東の国は極楽どころか苦労為損(しぞん)の地獄だ。
ばかばかしい。」
プンプン怒りながら帰ってきたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

成功の裏には涙あり。
幸福な運命の裏には、
本人の涙ぐましい努力があるのです。
それを知らずに、結果だけを見て、
他人をうらやましがるのは、愚かなことです。

因果の大道理が分かれば、悪果が来たら、
自分の行いを反省し、改めようとします。
善果を得たいから、
全力で光に向かうようになるでしょう。
廃悪修善に努めずにはおれなくなります。
そして、迷信などに惑わされず、
過去を反省し、未来に向かって努力する、
たくましい人生を歩むことができるのです。




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