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次から次へと苦しいのはどうしてなのか!? [苦しみの根源]

仏教を説かれた釈尊は、
三十五歳で仏のさとりを開かれた第一声に、
人生は苦なり」と仰いました。
この世は苦しみが充満しています。
こんなことはあえて説明しなくても、
そう感じている人は多いのではないでしょうか。

かの家康は、
人の一生は、重荷を背負うて遠き道が行くが如し
と晩年に言っています。
徳川三百年の基礎を築き、
金も権力も手にした家康にして、
この言葉は、人生の果てなき苦悩を示すものでしょう。
また、『放浪記』の林芙美子女史の言葉には、
花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき
とあります。
女性の命を花に例え、短くて、
しかも苦しみに満ちていると嘆いたのでした。


すべての人は幸福になりたいと願っています。
どうすれば、人生苦から逃れられるのか。
それにはまず、苦しみの原因を、
正確に突き止めねばなりません。
病気も、どこに原因があるかによって、

治療法が変わってきます。
腹痛といっても、ただの食べ過ぎなのか、
それとも潰瘍なのか。
潰瘍なら、胃なのか、腸なのか。
治療を間違えれば、むしろ悪化し、
命取りになることさえあります。
正しく病気の原因を探ることが大事です。
 
人生の苦しみの原因はどこにあるのか、
人々の声を聞いてみますと、
「オレが苦しんでいるのは、金がないからだ」
「借家住まいだから苦しんでいるのだ。
早くマイホームが欲しい」
「同期生はもう、課長や係長になっているのに、
オレはまだヒラだからだ」
「こんな男と結婚したからよ」
「親に暴力を振るうような子供を持ったからだ」
「ヒドイ病気になったせいで苦しんでいる」
などなど。
金がない、家がない、地位・名誉がない、
夫や妻や子供に恵まれない、健康を失った・・・。
これらを苦しみの根源のように
思っている人が大半です。

十人いれば、八、九人までは

そのように思っているのではないでしょうか。

しかしこれらは、一つ解決しても、
また次の難題が浮かび上がるものです。

「世の中は、一つかなえば二つ、
三つ四つ五つ、六つかしの世」
とも歌われますように、
苦しみが何もなくなることは考えられません。






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たとえるなら、一本の大木があったとします。
その枝の先に、
「お金がない」という苦しみの花が咲くのです。
すると人生相談の先生が、
「それはね、今の商売があんたに合わんのだ。
仕事をかえたらどうかね」
とアドバイスします。
花の咲いている枝を
切り落としたらどうかと言っているのです。
そこで今の店を畳み、
もっと好きな商売を始めてみました。
ところが、なんとか軌道に乗ったころ、
無理したために、病気にかかってしまうこともあります。
枝を切り落としただけ、養分が別の枝にめぐって、
他の苦しみの花を咲かせるのです。


「主人とうまくゆかなくて・・・」
と人生相談所を訪れた奥さんに、先生は、
「もう別れなさい。無理やり続けてもダメです。
もっとイイ人と連れ添ったらどうですか」
などと言うでしょう。
「夫婦生活がうまくいかない」
という苦しみの花を、枝を切ってなくせと言うのです。
その通りに実行して、気の合った人と再婚、
ようやく平穏な生活を手に入れたと思うころには、
今度は、子供が新しい父親の愛情を受け入れず、
非行に走るといった新たな苦しみの花が咲くのです。

根から吸い上げられた水分や養分は、
幹を経由し、枝葉にまでゆき渡ります。
細い枝を切っていても、
苦しみの養分が花を咲かせないようにはできません。
苦しみの花がいっぱい咲かないようにするには、
太い幹を切るしかないのです。
幹に相当するのが、苦しみの根源です。

苦しみの根源は何か?
     臨終にわかる「無明の闇」

苦しみの根源は、「無明の闇」という心だと、
釈尊は教えられました。
これは、すべての人が持っている、暗い心です。
私たちは、未来に苦しいことが待っていると、
心も沈んで暗くなります。
明日は学校で試験があるとなると、
浮かれた気持ちにはなれません。
大手術を明日受ける人は、
今日から暗澹たる気持ちを拭いきることはできないでしょう。
試験や手術が終われば、暗い心は晴れてしまいますが、
無明の闇は、
無始より私たちを苦しめてきた心であり、
また未来永遠に苦しめてゆく心なのです。
これを「後生暗い心」とも言います。


「後に生まれる」と書きますように、
死んだ後の世界が後生ですが、
一息切れたらどうなるのか、ハッキリしません。
大地震が発生して、今死ななければならないという
非常事態になったとき、
「死にたくない!」という気持ちが出てきます。
病院で健康診断を受け、
医者からもし、
「来週もう一度検査しましょう。
いえいえ、念のためです」
と言われたら、
「ひょっとして、ガンではなかろうか」
と、不安でたまらなくなります。

こんな心を抱えて、どんな世界に行くのでしょうか。

自然主義文学の田山花袋(たやまかたい)が
六十歳で死んでゆくとき、
親友で詩人の島崎藤村が、臨終の覚悟を尋ねました。
「独りで往くのかと思うと淋しい」
と弱い声で答えています。

夏目漱石は大正五年十二月九日、胃潰瘍のため、
五十歳で亡くなりましたが、最後に、
「ああ苦しい。今、死んでは困る」
とつぶやいたのは有名です。

『金色夜叉』の尾崎紅葉も、胃ガンを宣告されたとき、
『断腸の記』という悲痛な記録を残しています。
彼の華やかな文学も、死の淵に臨んでは、
少しの明るさもありませんでした。

六十六歳で亡くなった平林たい子さんは、
「一生懸命働きますから、何とか生かしてください」
と、主治医に頼んで死んでいます。

「お母さんへ。山の死を美しいとするのは一種の感傷でした。
生還すればもう山をやめて心配はかけません」
「再び母へ。ありきたりのことだが先に行くのを許してください。
お父さん、心配かけて申し訳ありません」
これは冬山で遭難した、ある大学生の遺書です。

死に直面すれば、演技する余裕も、
意地も我慢もなく本音を吐くものです。
一歩後生へと踏み出したときに、
私たちはどのような気持ちになるか、
自分の人生を真面目に考えてみましょう。


死と隣り合わせの死刑囚
     私たちも無常の身

死刑囚の生活もまた、
死と隣り合わせであることを
自覚した人間がどう感ずるのか、
教えてくれています。

裁判で死刑が確定した受刑者に、
刑を執行するかどうかは、
法務省の印鑑で決まります。
ハンコが押され、執行日が決まると、大抵の場合、
当日の朝になって、本人へ告知されるのです。
ですから毎朝、
『今日こそは、わが身か』
という恐怖とともに目覚めねばなりません。
懲役囚に比べれば、食べ物の購入や差し入れが自由で、
強制労働もない死刑確定囚は、
肉体的には健康であってもよいはずですが、
実際にはやせ細り、生彩がないといいます。
『今日が執行の日かもしれない』という精神的重圧に毎日、
苦しめられているからです。
再審で無罪が確定した元死刑囚は、 
何を食べてもまずく、
好物の焼き肉はゴムを噛んでいるように感じられ、
ラーメンは紙のようだったと言っています。



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しかも、午前九時から十時の、
朝食後から十時の、
朝食後から運動までの時間に言い渡されるのが
慣例になっているため、
通常の巡視や掃除が
いつになく急いで行われたりすると、
死刑囚の舎房はそれだけで、
一気に恐怖のるつぼになるのです。
全員が息をひそめ、
緊張した静寂に包まれると言います。

あるとき、任務について間もない新入りの刑務官が、
この時間の様子をうかがいに死刑囚の廊下を歩きました。
その足音に、確定囚全員が息をのんで耳をこらし、
何気なく立ち止まった部屋の死刑囚は、
中で腰を抜かして失禁したのです。
数日後、その若い看守がくだんの死刑囚に呼ばれ、
扉の視察孔から部屋を覗くと、
いきなり目を突かれ、重傷を負ったとも言います。

死んでゆくのは果たして、死刑囚だけでしょうか。
フランスの文学者、ピクトル・ユーゴは、
人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ
と言っています。
私たちの死刑とて、今日かも、明日かもしれません。
牢獄の死刑囚が味わう恐怖と、
臨終に私たちが襲われるそれとは、
どこが異なるでしょうか。

むしろ、死と隣り合わせの死刑囚の方が、
人生を真面目に考えていると言えるかもしれません。
私たちにも、死に臨んで真っ暗になる
無明の闇の心があるのです。

この心を抱えて生きている全人類に、
本当の安心・満足はありません。


ちょうど、島影一つ見えない大海原の上空を
飛んでいる飛行機の機内で、
酒や食事でもてなされ、
楽しい映画が上映されていても、
燃料は限りなくゼロに近く、
間もなく墜落しなければならない
運命にあるようなものです。
空の旅を十分、楽しめますか。

「歓楽尽きて、哀情多し」とも言います。
どれほど宴会で、どんちゃん騒ぎをしていても、
終わって独り帰るころには、
淋しい気持ちがこみあげてくるではないですか。

酒やカラオケではごまかしきれない、
哀愁に満ちたこの心が、無明のカゲです。
これが一歩、後生へと踏み出すと、
真っ暗な心となって、胸一面覆うのです。


●台所とトイレ

「そんな暗い話なら、しない方がいいじゃないか。
明るく楽しく、笑って生きる方法を、僕は選ぶよ」
と言われる人もあるでしょう。
それはまじめな人生観とは言えません。
生と死は、切り離しては考えられないからです。

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仏法では、「生死一如」と言われます。
たとえるなら、「生」は台所で、
「死」はトイレのような関係です。

台所は誰もが好きな場所。
おいしい食べ物が置いてあり、
子供が学校から帰ってきて、
「おかあさん、ただいま~、何か、ない?」
と言ってのぞくのは台所です。
一家団欒、楽しい食事も、台所があってこそです。
反対にトイレが好きな人は、あまりないでしょう。
トイレ掃除は汚くて、御免蒙りたいものです。

では、家を新築するとき、台所だけ造って、
トイレは造らないことがあるでしょうか。
台所で食べたり飲んだりできるのは、
トイレがあるからです。
トイレのない家に住むとき、さぞ不自由でしょう。

不慣れな海外旅行をして、
トイレに困ることがあります。
そんなときには、あまり食べたり飲んだりせぬよう、
口の方で控えるものです。
トイレが確保されて初めて、
台所で安心して飲食できるのですから、
台所を活かすか殺すかは、
トイレにかかっているとも言えます。


明るく楽しい人生を送りたいのは、
万人の願いに違いありませんが、
生を根底から脅かすのが死ではありませんか。
「三十までに結婚して、子供は二人にして、
マイホームは四十で・・・」
と人生設計していても、いつ死ぬかわからないことが、
計算されていません。

起きるか起きぬか分からぬ火事を心配して、
火災保険に加入はしていますが、
必ずやってくる死の不安を感じている人は、
どれほどあるでしょうか。
老後の心配から貯金に励んでいる人はいても、
死の準備をしている人がありません。

絶対逃れられず、
しかもいつやってくるかわからぬ
死の不安を解消してこそ、
真に明るく楽しい人生を、
満喫できるのです。



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