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どの宗派がお釈迦さまの真意を伝えているのか!? [聖道仏教と浄土仏教]

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“仏教っていろいろな宗派があるけど、
どれでも同じなの?”

“うちは代々真宗だけど、
他の宗派と何が違うのかしら?”

そんな素朴な疑問を、抱えていませんか。
親鸞聖人に、お聞きしてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「本物の味を知る」

味覚の秋は、旬の魚や果物など豊富な時期ですが、
昔から、こんなことわざもあります。
「秋なすは嫁に食わすな」
これには3通りの説があり、

①秋なすは、とても美味しいから、
憎らしい嫁に食べさせるのはもったいない。
②秋なすは、身体を冷やすから、
大事な嫁に食べさせるのはよくない。
③秋なすは、種が少ないので、
子ができなくなるから嫁に食べさせてはならない。

嫁にとっては、「どれでもよい」と言えない、
この解釈。
どうも一番の説が有力のようです。
独り占めはいけませんが、ことわざになるほど、
ほかの季節のナスとは
一味も二味も違うということでしょう。

秋の味覚と言えば、松茸も欠かせません。
ある試食会に参加した奥さんから、
こんな話を聞きました。
最近は、安価な輸入品が目立つ松茸市場。
国産品は値段が高くて手が出ないが、
それほど味に違いはあるのだろうか。
皆で中国産、カナダ産、北朝鮮産、韓国産と、
食べ比べていった。
「あら、外国産も結構おいしいじゃない」
「これならほとんど国産と変わらないわ」
主婦たちの評価は上々だった。
やがて最後に出された、
国産松茸をパクリと口にした瞬間、
皆の動きが、ピタッと止まった。
「何、これ!?」「全然、違う!」
鮮度が命の松茸は、
どうしても輸入するまでに香りも味も落ちるもの。
国産品との差は明らかだったそうです。
本物に会う前は、「どれも似たようなもの」
と思っていても、本物に出会って、
本物が本物と分かってくる。
ハッキリ知らされる。
そんなことがよくあります。

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●どう違う?「2つの仏教」

仏教とは、仏の説かれた教えということです。
この仏とは、約2600年前、
インドで活躍なされたお釈迦さまのこと。
35歳の12月8日に、
仏という大宇宙最高のさとりを
開かれたお釈迦さまが、
80歳でお亡くなりになるまで、
45年間、説いていかれた教えを今日、
仏教といわれます。

ところが、仏教といっても
いろいろな宗派がありますから、
「一体何が違うのだろう」
と疑問に思われる方も多いでしょう。

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しかし、いくつもの宗派がありましても、
大別すれば聖道仏教と、
浄土仏教の2つに分けれます。

聖道仏教とは、天台宗、真言宗、禅宗、
華厳宗、法相宗、律宗などを指します。
それに対して浄土仏教とは、
浄土宗や、浄土真宗をいいます。

「同じ仏教だから、どちらでもいい」でしょうか。
いいえ、決してそうではありません。
2つの仏教を、比べてみましょう。

●聖道仏教
      煩悩のさびを落とし、心のダイアモンドを磨け

まずは、聖道仏教です。
仏教の目的は、仏のさとりを得ることですが、
聖道仏教に共通する特徴の一つは、
「私たちの本性は、清らかな仏性である。
それが煩悩のさびによって曇っているから、
修行によってそのさびを落とし、
仏性を磨き出すことに全力を挙げよ」

というものです。
例えるなら、私たちは心の中にダイアモンドのような
素晴らしいものを持っている。
それが煩悩というゴミやホコリがついて見えなくなっており、
それが輝いていないのだ。
その煩悩の汚れやサビを、
修行により磨いていけば、
ピカピカに輝きわたる時が来る、
という考えです。
磨く方法こそ異なれ、
いずれの宗派も根底はこれしかありません。

(質問)煩悩とは、どんなものですか。

煩悩とは、「煩い(わずらい)、悩む」と書くように、
私たちを日夜、煩わせ悩ませる心で、
全部で百八あると教えられます。
大晦日に百八回突く除夜の鐘も、ここからきています。
来年こそは、欲や怒りの煩悩に煩わされないように、
との願いが込められているのでしょう。

百八の煩悩の中でも、
特に恐ろしいものが三つあり、
「三毒の煩悩」といわれます。

三毒とは、貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、
愚痴(ウラミ、ネタミの心)の三つです。


○貪欲

貪欲とは、あれが欲しい、これが欲しいという欲の心です。
64億の人間の中で、欲のない人はありません。
代表的なものを五欲といい、
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つです。

食欲は、食べたい飲みたいという心です。
生きるためには仕方がないと、
死にたくないウシやブタ、ニワトリや魚など、
生き物の命をどれだけ日々奪っているでしょう。
一円でも多くのお金が欲しい、
物が欲しいという財欲のために、
遺産相続で肉親と骨肉相はむ争いを始めます。
男は女を、女は男を、
常に異性の関心を得ようと身を焦がし、
寸時も安からでないのが色欲です。
三角関係のトラブルは、古今を通して、
絶えたことがありません。
有名になりたい、褒められたい、
認められたいと焦っているのが名誉欲。
出世したい、一番になりたいと、
競争社会では地位や名誉を得るために、
人々は他人を欺き、蹴落としても平気です。
睡眠欲は、朝晩はもちろん、
暇があったら一分一秒でも長く寝ていたい、
楽がしたいと思う心です。
底なしの欲望は、
どこまでいっても満たされることはなく、
その欲のために、どれだけ恐ろしいことを
思い続けているかしれません。

○瞋恚

瞋恚とは、欲の心が妨げられると出てくる、
怒りの心です。

怒りという字は、心の上に奴と書きます。
あいつが邪魔するからだ。
こいつさえいなければと、
心の中で殺しているのが怒りであり、
激しいことは炎のようです。
人前で侮辱されたらどうでしょう。
「あいつのせいで、恥かかされた」
と一生忘れません。
逆上して、衝動のままに
親でも子供でも恩人でも切り刻み、
八つ裂きにします。
毎日のワイドショーでは、
そんな事例に事欠きません。

愚痴

愚痴とは、恨んだり、ねたんだりする心です。
他人の幸せは苦々しく、
他人の不幸がおもしろい心です。
にわか雨に遭って狼狽している人を見て、
喜ぶ心はないでしょうか。
犬にほえられ、困惑している人を見て、
笑ってはいないでしょうか。
艶々(えんえん)たる美人が泥道で足を滑らせ、
衣装を汚し、醜態を演じているのを見て
楽しんでいないでしょうか。
「お気の毒に」と口では言いながら、
ひそかにほくそ笑む心があることに
慄然とします。
醜い心がとぐろを巻いています。
このような心で悪を造り、
苦しんでいるのが私たちです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(質問)いかに煩悩に煩わされ、
悪を造っているか分かりました。
では、これらの煩悩はなくなるのですか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親鸞聖人にお尋ねしましょう。
親鸞聖人は9歳で、当時、
日本の仏教の中心地であった
比叡山・天台宗の僧侶となられました。
聖道仏教の一つ、天台宗は『法華経』の教えに従い、
戒律を守り、煩悩と闘ってさとりを得ようとする教えです。
聖人は、その『法華経』の修行に打ち込まれました。
修業は峻烈(しゅんれつ)を極め、
言語を絶するものでした。
比叡山には今日でも、
千日回峰行なる荒行があります。
開山以来千数百年、
この修業を完遂した者はわずかという、
命がけの修業です。
叡山の麒麟児(きりんじ)といわれた聖人は、
その千日回峰行をしのぐ大曼(だいまん)の難行まで
成し遂げられましたが、
煩悩は減りもしなければ、
なくなりもしなかったとおっしゃっています。

●聖人が驚かれた
        「心の真実」

仏教では、私たちの行為を、
心と口と体の三方面から見られます。

思うこと、言うこと、やることです。
中でも、最も重視するのが心の行為です。
なぜなら、体や口の行いは、
心の指示によるからです。

いわば心が火の元であり、
体や口の行為は火の粉に例えられましょう。

「戦争は心の中ではじまるのだから、
平和の砦は心の中につくらねばならぬ」
とはユネスコ憲章の宣言です。
残虐非道の戦争も、根元は心と見ての訴えでしょう。
消火も火元に主力が置かれるように、
仏教は常に、心の動きに視点が置かれます。

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親鸞聖人が驚かれたのは、
この心の真実でした。

修行中のある日、聖人は比叡山のふもと、
赤山明神の前で、美しい女性に出会われます。
以来、滝に打たれても、読経していても、
その女性のことが忘れられなくなってしまわれた。
抑えようとすればするほど、
ますます愛欲の炎は噴き上がる。

「この親鸞ほどあさましい者はない。
上辺こそ立派にふるまっているが、
心では女性のことばかり
思い続けているではないか!」
頭の毛についた火をもみ消すほどの
真剣さでされても、心の悪だけは
どうすることもできなかったのです。

歎徳文』という古書に、
生々しい苦闘が記されています。

「定水を凝らすと雖も識浪頻に(しきろうしきりに)動き、
心月を観ずと雖も妄雲猶覆う」(歎徳文)

静寂な夜の山上で、
修業に励まれる聖人が、
ふと見下ろす琵琶湖の湖水は、
月光に映えて鏡のようだ。

「あの湖水のように、なぜ、心が静まらぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が噴き上がる。
どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。
この心、何とかせねば・・・」

平静な湖水に比べて
渦巻く煩悩に泣かれる聖人が、
涙に曇る眼を天上に移すと、
月はこうこうとさえている。

「あの月を見るように、
なぜ、さとりの月が見れぬのか。
みだらな雲がわき上がり、
心の天を覆い隠す。
こんな暗い心のままで、
死んでいかねばならぬのか」

吸う息吐く息に、
永遠の苦患(くげん)に沈む自己を知られて、
いても立ってもおれぬ不安に襲われる。
こんな一大事を持ちながら、
どうして無駄な時を流せよう。
早く俗念を投げ捨てて、
この大事を解決せねば。

一刻の猶予もなかった聖人は、
20年間の天台・法華の教えに絶望なされ、
ついに、下山を決意されたのです。

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●諸仏に捨てられた
       「煩悩具足の凡夫」

だれよりも真剣に心を磨こうと
努められて知らされた人間の実態を、
親鸞聖人は、
煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生」(歎異抄
と言われています。
「熾盛(しじょう)」とは、燃え盛るということ。
欲や怒りの煩悩が、燃え盛っているのが人間(衆生)である、
ということです。
これをまた、「煩悩具足の凡夫」とも言われます。
「煩悩具足の凡夫」とは、
煩悩に目鼻をつけたような人間、
ということです。

ちょうど、雪だるまは雪でできていますから、
雪を取ったら何も残らないように、
人間から煩悩を取ったら何も残らない。
私たちは百八の煩悩を持っているどころか、
煩悩の塊であるということです。

かかる煩悩具足の我々は、
「仏法修行の器にあらず」と、
諸仏からも見捨てられた極悪人であると
釈尊は説かれています。

今は蓮如上人にお聞きしましょう。

「十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
             (御文章)

「十悪・五逆の罪人」「五障・三従の女人」とは、
煩悩で悪を造り、苦しんでいる私たちのこと。

「空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」とは、
大宇宙にまします仏方が、
何とか救ってやりたいの慈悲心を
起こしてくだされたのですが、
残念なことに、私たちの罪業があまりにも重く、
とても救済することは不可能だったのです。

だから、「捨て果てられたる」とあるように、
私たちを捨てて逃げられた、
つまり我々は諸仏に
見放されてしまったのです。
いかに私たちの罪悪が
深重であるかが知らされましょう。

・・・・・・・・・・
浄土仏教
  極悪を、捨てず裁かず
       摂め取る(おさめとる)
・・・・・・・・・・

諸仏からも見放された、煩悩具足の私たち、
しかし、他人に嫌われるような子供は、
なおかわいい親心のように、
大宇宙の諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
大悲やるせなく、
何とか救わねばならないと
立ち上がって下されたのが、
阿弥陀仏といわれる仏です。

ゆえに私たちは、
阿弥陀仏のお力によってのみ
救われることができる、
と説くのが浄土仏教です。

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(質問)阿弥陀仏とは、どんな仏さまですか。

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれるように、
地球上で、仏のさとりを開かれた方は、
お釈迦さまただお一人です。
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」と、
私たちに教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまです。

蓮如上人は、
「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば」(御文章)
と、明らかにされています。
三世十方の諸仏とは、大宇宙のすべての仏。
本師本仏とは先生ということですから、
この意味は、
「阿弥陀仏は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」
ということです。
もちろん、釈迦も十方諸仏の一仏ですから、
阿弥陀仏の弟子・生徒ということになります。


●諸仏の遠く及ばぬ
      「十二光」

阿弥陀仏が、本師本仏とあがめられるのは、
阿弥陀仏の、私たちを救うお力が
ズバ抜けているからです。

仏法では、仏の念力、仏力を「光明」といいますが、
『大無量寿経』には次のように喝破されています。

「無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明は
最尊第一にして諸仏の光明の
及ぶこと能わざる所なり」

“阿弥陀仏のお力は、
諸仏をはるかに超えてずばぬけている”

この弥陀のお力を、十二とおりに分けて教えられたのが、
「十二光」といわれているものです。
順に解説しましょう。

①無量光

阿弥陀仏の寿命には限りがないので、
無量光といわれます。
過去、現在、未来にわたり、
常にはたらいてくださっているのが無量光です。

②無辺光
十方世界(大宇宙)で、阿弥陀仏のお力の届かない所は
ありませんから、無辺光といわれます。
どこで何をしていても、絶対の幸福の身に救わんと、
はたらいてくださっているのです。

③無碍光
太陽の光もエックス線も、障害物があれば通りませんが、
阿弥陀仏の光明は、何ものも遮ることはできません。
罪悪深重の我々が救われるのは、いかなる煩悩、罪業にも
妨げられない無碍光なるがゆえです。

④無対光
阿弥陀仏のお力は、他の何ものとも比べることはできません。
「諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」とあるように、
大宇宙の諸仏方からも見捨てられた私たちを助けられるのは、
阿弥陀仏だけです。

⑤光炎王光
阿弥陀仏のお力は最尊第一、
諸仏の中の王なり、といわれます。
その絶大なお力によって、
人間界に生を受けることができたのです。

⑥清浄光
貪欲を照らすはたらきです。
救われても欲の心は変わりません。
それが清浄光に照らされて、
懺悔となり歓喜になるのです。

⑦歓喜光
瞋恚を照らすはたらきです。
怒りは、すべてを焼き尽くす恐ろしい心です。
それが、歓喜光に照らされて、
懺悔となり歓喜になるのです。

⑧智慧光
智慧がないために、
因果の道理が分からないバカな心が愚痴です。
自らの不幸を他人のせいにして恨み、
他人の幸福をねたみ、そねむ。
そんな者を照らして、
「バカだなあ」と知らせてくれるのです。

⑨不断光
途切れることのない阿弥陀仏のお力をいいます。
「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」
と親鸞聖人はおっしゃっています。
不断光に照らされるから、
阿弥陀仏のご恩を忘れがちな身を、
思い出しがちにさせていただけるのです。

⑩難思光
十二光のはたらきは、心も言葉も絶えたものです。

⑪無称光
とても言葉に表せないお力です。

⑫超日月光
太陽や月の光をも超えた光である、ということです。

このように、阿弥陀仏のお力には限りがなく、
どんな極悪人をも救い切ることができるので、
親鸞聖人は、
「願力無窮(がんりきむぐう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」(正像末和讃)
とおっしゃり、
「十方の諸仏に見捨てられた
極悪最下の親鸞が救われたのは、
ひとえに阿弥陀仏の十二光のお力であった」
と、
阿弥陀仏の偉大なお力を、
『正信偈』にも讃歎なされているのです。

●仏教の結論
      「一向専念無量寿仏」

果たして釈尊は、最後に、
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)
と説かれています。

無量寿仏とは、阿弥陀仏の別名ですから、
「すべての人々よ、一向に専ら阿弥陀仏を念ぜよ」
ということです。
あらゆる諸仏、菩薩、諸神を捨てて
一心一向に専ら
阿弥陀仏一仏を信ずる以外に、
一切の人々の助かる道はない。

29歳の春、弥陀の本願に救い摂られた聖人は、
浄土仏教こそ、
「煩悩具足のわれらが救われる
本当の仏教だった」

ハッキリと知らされ、90年のご生涯、
一向専念無量寿仏」一つを
叫び続けていかれたのです。


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