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トルストイも驚嘆した、釈迦の説く「人間の実相」 [人間の実相]


 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています) 


なぜ仏法は聞かねばならないのでしょうか?
「聞くも聞かないのも本人の自由でしょ」と思う人にとっては、
こんな問いは、押しつけがましく感じるかもしれません。
しかしお釈迦さまは、
何人も否定しようのないある有名な例えで、
この問いの答えを示されています。


●お釈迦さまの説かれた人間の真実

「人間とは何か」を追求した大文豪家・トルストイは、
この例え話を読んで、
「大きな衝撃を受けた」と語っています。
トルストイをして、
これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。
単なる作り話でなく、誰でも納得のゆく真実だ」
と言わしめた「お釈迦さまの例え話」とは、
何だったのでしょう。

それは「仏説譬喩経」に記されている
「人間の実相」の例えです。

ある日、お釈迦さまのご説法に、一人の王様が参詣しました。
名を、勝光王といいます。
初めて仏法を聞く勝光王に、
お釈迦さまは、
「人間とは、どんなものか」を例えで教えられたのです。


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絶体絶命の旅人
     偽らざる私の姿


王よ、それは今から幾億年という昔、
ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、
独りトボトボ歩いていく旅人があった。
木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れである。

ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、
点々と散らばっている白い物を
発見して立ち止まった。
いったい何だろうと、白い物を一つ拾い上げて驚いた。
なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、多くの人間の白骨があるのか、
と不気味な不審を抱いて考え込んだ。

すると間もなく前方の闇の中から、
異様なうなり声が聞こえてきた。
闇を透かして見ると、
彼方から飢えに狂った獰猛な大虎が、
こちらめがけて、まっしぐらに突進してくるではないか。

旅人は、瞬時に白骨の意味を知った。
この広野を通った旅人たちが、
あの虎に食われていったに違いない。
同時に自分もまた、同じ立場にいることを直感した。
驚愕した旅人は無我夢中で、
今来た道を逃げたのである。

しかし、所詮は虎にはかなわない。
やがて猛虎の恐ろしい鼻息を身に感じて、
もうだめだと旅人が思ったその時、
どう道を迷って走ったのか、
断崖絶壁で行き詰まってしまったのだ。

絶望した直後、幸いにも断崖に
生えていた木の根元から
一本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。
その藤蔓を伝ってズルズルズルーと
下りたことはいうまでもない。

九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、
せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、
無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれー、この藤蔓のお陰で助かった。
まずは一安心」
と旅人が、足下を見たときである。
旅人は思わず「あっ」と叫んだ。

底知れぬ深海の怒濤が絶えず
絶壁を洗っているではないか。
それだけではない。
波間から三匹の大きな龍が、真っ赤な口を開け、
チロチロと舌を伸ばしながら自分の落ちるのを
待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐怖に、
再び藤蔓を握り締め身震いした。

しかし、人間の感情は続かないもの。
やがて旅人は空腹を感じて
周囲に食を探して眺め回した。

その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、
最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、
藤蔓をガリガリと交互にかじりながら
回っているではないか。
やがて白か黒のネズミに、
藤蔓がかみ切られることは必至である。
もはや絶体絶命!
旅人の顔は青ざめ、
歯はガタガタと震えて止まらない。

だがそれすら長くは続かなかった。
なぜなら藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、
甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を全て忘れ去って、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。



釈迦がここまで語られると、勝光王は驚いて立ち上がり、
「世尊、その話は、もうこれ以上、しないでください」
と叫んだ。
「どうしたのか」
その旅人は、何とバカな、
愚かな人間でしょうか。
それほど危ない所にいながら、
なぜ、五滴の蜜ぐらいに、
その恐ろしさを忘れるのでしょうか

この先どうなるかと思うと、
恐ろしくて聞いておれません」
王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。
実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ

「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」
いや、そなた一人のことではない。
この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ

お釈迦さまの言葉に、
聴衆一同は驚いて総立ちになったといいます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (この例え話の意味を解説します。)                            

①人はどこから来て、どこへ行くのだろう

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●生きるとは旅すること

「旅人」とは、「すべての人」のことです。
「生きることは旅すること 終わりのないこの道」
と歌にもあり、
オバマ大統領の二期目の就任演説の中でも、
繰り返し「我々の旅は終わらない」
という比喩が使われていました。
作家の吉川英治氏も「人生は片道切符の旅である」と、
こう書き記しています。

「発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、
丹那トンネルを過ぎた頃に薄目をあき、
静岡辺りで突然“乗っていること”に気づく、
そして名古屋の五分間停車ぐらいから
ガラス越しの社会へきょろきょろしはじめ
『この列車はどこへ行くのか』と慌て出す。
もしそういうお客さんが一人いたとしたら、
辺りの乗客は吹き出すに決まっている。
無知を憐れむに違いない。
ところが人生列車は、全部の乗客がそれなのだ」
         (『忘れ残りの記』)

発車駅の「東京」は生まれた時、
「横浜」は幼児期、
「静岡」は三、四歳頃でしょうか。
吉川氏はこうも言っています。
“オギャー”と生まれた時が、
人生の旅の始発駅であるならば、
ウーンと言って死ぬ時が、
人生という旅の終着駅である。
我々は、この人生という旅において、
しばしば道中、道連れを作る。  
小学校、中学校、高校の同級生、
隣近所の人々、勤め先の仲間、取引先の人々、
全てこれ人生という旅の道連れである。
そして、それらの中で、一番縁の深いのは、
夫であり、妻であるという道連れである。


気がつけばこの世に生まれ、生きていた。
書くことや読むことを習い、
社会に出て懸命に働いてきた。
でも自分がどこへ向かっているのかは知らない。
こうした無知な乗客同士が、級友や同僚、
あるいは家族という道連れを作って、
行き先の知らない旅へと向かっています。


生きることは決して楽ではありません。
病気、仕事の過酷なノルマ、
リストラの不安、夫婦間の不和、
子供の非行、返済不能な借金、親の介護など、
こんなにしてまで、なぜ生きるの
と思うことが周囲に満ちています。


ある政治家が、終末期医療の会議で、
「いい加減、死にてぇなあと思っても、
『とにかく生きられますから』
なんて生かされたんじゃあ、かなわない」
と発言し、物議を醸しました。

しかし、もし人生というこの旅に、
何の目的もないのなら、
「長生きして苦しむだけなら、さっさと死にたい」
というのも一理あるでしょう。

でも私たちは、無意味に生まれ、
苦しむために生きているのではないはずです。
「生まれてよかった、死なずに生きてきてよかった」
といえる、人生の目的地が
なければならないのではないでしょうか。

それが明らかになってこそ、
「このために生きるのだ」
とすべての行為が意味を持ち、
どんな苦難も乗り越えて進む力が湧いてくるのです。


●なぜ私たちは寂しいのか

次に、この旅人が広野を歩いていたのは、
「秋の夕暮れ」でした。
これは、人生には底知れぬ寂寥感が
漂っていることを示しています。
人はなぜそんなに寂しいのか。
それは、一人旅をしているからです。


独生独死 独去独来」(大無量寿経
(独り生まれ独り死に、独り去り独り来る)

始めから終わりまで、人生は独りぼっちだよ、
とお釈迦さまは仰っています。

そんなことはない。親も兄弟もいる、
妻も友達もいると思っていますが、
お釈迦さまが仰る「独り」とは、
こうした肉体の連れではありません。
魂の連れがないということです。


「どんなことでも話せば分かる」と言われても、
現実にどれだけ話しても
分からないことが多くあります。
男は女の気持ちが分からず、
女は男の気持ちが分からない。
男は足し算、女は掛け算と言われます。

2と3を見て男は「5だ」と言い、
女は「違うわ、6でしょ」と言う。
どこまで行っても交わらない平行線です。

たとえ「あの人には何でも言える」
という人があっても、
言えるところまでは何でも言えるということで、
本当に心を洗いざらい言えるわけではありません。

「なぜ分かってくれないの!」と、
相手を責めることはありますが、
自分は他人のことを本当に
理解できているでしょうか。
自分だけ理解せよと
相手に望むのは無茶というものです。


誰にも明かせない、理解されたいと願っても
絶望的な心を、
私たちは一人一人抱えています。
心の深奥(しんおう)の秘密の箱は、
固くカギがかけられ、
誰にも開かれることはありません。
我々の魂は、ずっと独りぼっちで
孤独に震えているのです。


そんな魂の奥底まで全てご承知のうえで、
「われにまかせよ、必ず助ける」と
抱き締めてくださる弥陀の誓願(本願)があることを、
お釈迦さまは生涯かけて唯一つ説かれたのです。



②白骨の野原 その先にあるもの

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●拾って初めて知る“重み”

これは文字どおり、「白骨を拾って驚いた」
というある人の手記です。


永らく闘病していた母が、息を引き取った。
窓の外が明らむ頃だった。
病室のベッドに横たわる姿からは、
すやすやと寝息が聞こえてきそうで思わず、
“おはよう。そろそろ起きる時間だよ”
と声をかけた。
葬儀場に移り、真っ白な着物に
着せ替えられた母が、棺に入れられた。
病でやつれた頬も、薄化粧でパッと華やいだ。
これからどこに出掛ける、
そんな雰囲気すら感じられた。
式は粛々と行われ、火葬場へ。
やがて、変わり果てた母の遺骨が戻ってきた。
心はまるで凍結したように、
何も感じることはできなかったが、
竹の箸で骨を拾い上げたとき、
初めてハッとしたのである。
「あの母が、これなのか?」
どんなに容姿がよくても、
どんな立派な生き方をしてきても、
人間は等しく、最後はひとつまみの骨になる。
ショックで私は、声もなく泣き続けた。
涙も涸れるほどに



テロや災害、事故や戦争・・・
毎日、「死」のニュースが流れない日はありません。
新聞の「お悔やみ欄」にも
毎日たくさんの名前が並んでいます。
私たちの周囲には、
いつも“白骨”が散らばっているのです。

けれども私たちは日々忙しく、
先に進むことに必死で、
そんな白骨には目もくれず、
突っ走っているのではないでしょうか。

やがて自分も、その中の一つになるというのに。

私は“それなりに死を考えてきた”つもりでしたが、
実は、どこか遠い世界の話のように、
ウツロに眺めていただけだったのです。
現実に母を亡くしてみてそう思いました。
顔を合わさなくても、ただいてくれるだけで安心できた、
そんな母の存在の大きさも、亡くしてみて分かりました

 
と手記の作者は述べています。
そんな両親にもう二度と会えない・・・。

人生行路を進むほど、
「近頃、喪服を着る機会が多いな・・・」
とつぶやきたくなってきます。
私たちの周りは白骨の野原なのです。

●平穏な日常と
      隣り合わせの死

旅人の後ろから、
猛然と追いかけてくる「飢えた虎」とは、
「無常(自分の死)」です。

死は、私にも激しく襲いかかってくるのです。

今年一月、大相撲初場所の最中に、
元横綱・大鵬の死去が報じられました。
歴代最多の幕内優勝三十二回を誇り、
「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語は有名ですが、
一代を築いた名横綱でも、
無常の虎から逃れることはできないのです。
厚生労働省の人口動態統計(平成二十二年)によると、
日本での年間死亡者数は、およそ119万7000人。
平均すると一日3200人弱の人が、
日本のどこかで命を落としていることになります。
一週間にすれば、二万人を越える。
あの“未曾有”といわれた東日本大震災の死者、
行方不明者が18580人といいますから、
あの震災の一週間後には
それ以上の人が亡くなっているということです。

しかし、そのことを取り立てて大騒ぎする人はありません。
もちろん、大津波で死ぬのと、
静かに毛布の上で亡くなるのでは、
大きく異なりますが、
「命を失う」という悲劇の本質に、
変わるとこはないでしょう。

とすれば、私たちの“平穏な日常”というものも、
実は大変な悲劇と常に隣り合わせと
いえるのではないでしょうか。
           

親鸞聖人が大変尊敬されている、
中国の善導大師は仰せです。
(善導大師とは、唐の時代の高僧。)

「人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。
灯火の風中にありて滅すること期し難しが如し。
忙々(もうもう)たる六道に定趣なし。
未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。
云何(いかん)が安然(あんぜん)として恐懼(きょうく)せざらん」


すべての人は、日々忙しそうに朝から晩まで、
どう生きるかに必死で、
刻々と命が消滅していることには無頓着である。
一陣の風で消え去る灯(ともしび)のような
存在を全く知らないように。
事故や災害などで亡くなる人が、
明日の我が身と何人が想定したことか。   
果てしない迷いの旅路に終焉がなく、
苦しみの難度海から脱出できないでいる。
なのに安閑(あんかん)として、
どうして驚かないのだろう



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旅人がしがみついている「藤蔓」は、
人間の寿命を表しています。

しかもその藤蔓を「白と黒のネズミ」が
交互にかじり続けているのは、

「昼」と「夜」とが交互に来て、
私たちの寿命が確実に
縮まっていることを表しています。

最後、白か黒のネズミに、
旅人のぶら下がっている藤蔓はかみ切られます。

昼間亡くなる方は、白ネズミに最後かみ切られ、
夜亡くなる人は、黒ネズミにかみ切られたということです。
かみ切られたその時が、寿命の尽きた時です。


旅人のこの状況は、古今東西、
すべての人の姿ではないでしょうか。
誰か否定できる人がありましょうか。

だとすれば、
藤蔓をかみ切られたらどうなるか。
それが旅人の火急の問題であるように、
死ねばどうなるか、それは全人類の、
最大の問題ではないでしょうか。


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③足下に広がる暗い海と三匹の毒龍

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●まいた種ははえる
    どんな種まきをしているか

藤蔓が切れると同時に旅人は、
三匹の毒龍がいる、
底知れぬ深海へと落ちていきます。
これをお釈迦さまは、
「後生の一大事」と言われました。


後生とは来世(死後)のこと。
「生あるものは必ず死に帰す」といわれるように、
「来世」は私たちの確実な未来ですから、
自分の後生がどうなってるかは、
誰もが知りたいことでしょう。
それにはまず、
仏教の根幹である因果の道理を
知らなければなりません。

どんなことにも、必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は万に一つ、
億に一つもありません。

原因と結果の関係を、お釈迦さまは
善因善果 悪因悪果 自因自果
と教えられています。

善いタネをまけば善い結果が現れる、
悪いタネをまけば悪い結果が現れる、
自分のまいたものは自分に現れる。


これが仏教で説かれる因果の道理で、
ここでタネといわれているのは私たちの行為、
結果とは運命のことです。


「蒔(ま)けば生え、
蒔かねば生えぬ よしあしの
人はしらねど 種は正直」
の歌の通り、人知れずまいたタネも、
やがて正直に結果を現す。
まいたタネに応じた結果しか
現れてこないのです。
お釈迦さまは、この因果の道理から
次のように教えられています。

汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ

            (因果経)

現在を見れば、過去のタネまき(行為)も、
未来の結果(運命)も分かる。
現在は過去と未来を解くカギであると。


では私たちの一息切れた後、後生はどうなるか、
それは現在のタネまき(行為)を明らかに見れば分かる、
ということなのです。


●未来を生み出す心の行い

私たちは、日々どんなタネまき(行為)をしているでしょう。
行為のことを仏教では、業といいます。
仏教では私たちの行為を、
身と口と心の三方面から教えられ、
それぞれ、身業・口業・意業といいます。

この身・口・意の三業の中でも、
最も重くみるのが意業です。


殺るよりも
劣らぬものは 思う罪


といわれるように、
身(からだ)で殺すことより、
もっと恐ろしいのは、身を動かす心の罪です。

暴力を振るったり、相手を傷つけるような暴言を吐くのは、
必ず心がそうさせるのです。
ウソをつくのも心の仕業。
「ある人に命じられて殺った」といっても、
その人の言葉に従おうと思った心が
原因ではないでしょうか。

私たちの行いの元は全て心にあるのです。
ところが私たちは、
驚くほど心に目が向いていないのです。


確かに、身や口の行いは、
人に危害を加えないよう取り締まる
必要があります。
しかし心で思う分には、誰に迷惑をかけるわけでもなく、
他人には分かりませんから、
取り締まりようもありません。
それをいいことに私たちの心は治外法権で、
他人に言えないようなことを平気で、
思いたい放題思っています。

しかし、そんな私たちの心を仏教では、
身や口の行いより、重く見るのです。


●私を苦しめる三つの猛毒

旅人の足下には三匹の毒龍がいますが、
毒は大変危険なもの。
蛇や虫、フグなどの毒で命を落とす人が、
毎年何万人とあります。
青・赤・黒の三匹の毒龍は、
それぞれ私たちの欲・怒り・愚痴
例えられています。


は、無ければ無いで欲しい、
有れば有ったでもっと欲しくなる、
底なしのものです。

怒りは、自分の欲に反した時、カアッと腹立つ心です。
愚痴とは自分の不幸を他人のせいにして恨み、
自分より優れた人や美しい人を見ては妬み、嫉妬して、
引きづり下ろそうとしたり、不幸にして喜ぶ醜い心です。


この欲と怒りと愚痴の三つは
私たちを苦しめる猛毒を持っていますから、
仏教で三毒の煩悩といいます。

しかし、これが猛毒を持っているといわれても、
自覚して人は少ないでしょう。

欲がなければ生きられない、
怒りも表に出さねばよかろう、
愚痴だって皆思っていることではないかと、
恐ろしい心とはなかなか受け止めれません。



しかし、欲のために殺生し、欲のためにウソをつく。
時には人を傷つけ殺し合う。
武器で脅し、要求を押し通そうとするのは、
欲しいものを買ってもらえないと「学校行かない」と、
親にだだをこねる子供と変わりありません。
欲望も程々に、とは思いますが、
程々に抑えるのは容易ではありません。
抑えたつもりが、ズブズブと、
ますますのめり込んでいくのです。


「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」

食べられればよい、と思っていたのが、
余裕ができるとオシャレをしたいと服を買い、
結婚したい、子供が欲しい、
それには家も車も要る、
たまには海外旅行も、
と欲には際限がありません。
そのためにお金が欲しい、暇が欲しい、
楽してお金や時間を得る方法がないかと、
宝くじや株で一攫千金を夢見る。
それが裏目にでると大損してイライラ。
その腹立ちを家族にぶつければ、
家族も怒りの毒に苦しみます。
怒りを発散できなければ、
恨みや妬みの愚痴となり、
心の中でドロドロに渦巻きます。
我慢すれば身に毒が回って胃を壊し、
白髪は増え、
シワが深くなる。
憂さ晴らしにタバコや酒、やけ食いすると、
身も心もボロボロになっていく。
如何ともしがたいこの三毒の煩悩が、
苦しみの世界を現出するのです。



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火の車
造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく


火の車に乗せられ苦しみを生み出したのは、
ほかならぬ、己自信だと、昔の人も歌っています。

●すべての人の心のすがた

「みな人の
心の底の 奥の院
探してみれば 本尊は鬼」

私たちは心の奥に棲む
青・赤・黒の鬼(欲と怒りと愚痴)に、
毎日動かされています。
お釈迦さまは『大無量寿経』に
こう教えられています。

心は常に悪を念い(おもい)
口は常に悪を言い
身は常に悪を行い
曽て(かつて)一善も無し


心の鬼の命じるままに動かされる
口も身も悪ばかり。

親鸞聖人は、自己の姿を教えの光に照らされて、
お釈迦さまの仰るとおりだったと有名な『歎異抄』に、
こう告白されています。

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

微塵の善もなく、悪ばかりの親鸞だから、
地獄よりほかに行き場がない。

こんな極悪の親鸞一人を助けんがための
弥陀のご本願であったと、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干(そくばく)の業を
もちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける
本願のかたじけなさよ


弥陀が五劫という長い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
全く親鸞一人がためだった。
こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか


と聖人は感激されています。
阿弥陀仏の本願こそが、欲と怒り、
愚痴にまみれた私たちを、
そのまま絶対の幸福に救い摂ってくださる
唯一無二の妙法なのです。


④万人の問題 後生の一大事とその解決の道

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●全てを忘れさせる
     魅惑のハチミツ

旅人は今にも切れそうな藤蔓に
ぶら下がりながら、
足下の深海も三匹の毒龍も忘れて
蜂蜜に夢中になっている。
この蜂蜜とは、私たちが日々追い求めている
楽しみを例えています。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲がそれです。


“行列のできる店”と聞けば、美味を求めて何時間も並び、
食べ放題の店では、はち切れるほど食べ、
夏の祭りは、ビヤホールで浴びるほど飲む。
「食べるのだけが楽しみ」と豪語する人もあるほど、
食欲は強烈です。

財欲とは「貯める楽しみ」
死ぬ時は一円も持っていけないと理屈は分かっていても、
命を削って金儲けに狂奔するのは、
それだけ財産を増やすことが楽しいからでしょう。

色欲も、幾つになっても消えません。
小説やTVドラマに必ず色気の要素が入ってくるのは、
それがないと読者や視聴者が満足しないからでしょう。

名誉欲は人から褒められたい、
認められたい心です。
命がけで努力するのも詰まるところ
他人より優位に立つため、
かなえば心が満たされるから、
名誉のためなら、命まで捨てる人もあるのです。

睡眠欲とは眠る楽しみ。
“世の中に、寝るより楽はなかりけり。
起きて働くアホがおるかい”という心です。

考えてみると、
私たちの日常は、こうした快楽を得るためだけに
費やされているのではないでしょうか。

ただ、そうしている間にも、藤蔓はネズミによって
かみ切られようとしています。

刻一刻、死へと近づいている私たちなのに、
この旅人のように一大事を忘れ、
五欲の蜂蜜に酔いしれている。
これほど恐ろしい姿はありません。



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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
未来は無量光明土へ
     早く弥陀をたのめ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古今東西すべての人が、この旅人であれば、
この一大事、どうしたら解決することができるのでしょうか。
親鸞聖人は、『歎異抄』の冒頭に、

弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり


と仰っています。
ここに「助けられ」とあるのは、後生の一大事を
助けられたということです。
「不思議な弥陀の誓願に後生の一大事を助けられ、
極楽往生できるとハッキリした」
と仰っているのです。


この親鸞聖人のみ教えを、
正確に日本中に伝えられた蓮如上人もまた、
有名な「白骨の御文」の中に、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり


と仰っています。
後生の一大事は万人の問題ですから
「誰の人も」と言われます。
「心にかけて」とは、お釈迦さまの例え話のとおり、
こんな危ういところにぶら下がっている己であることを、
心にかけよ
ということです。


そして「阿弥陀仏を深くたのめ」
この後生の一大事は、
阿弥陀仏のお力によらなければ、
絶対に解決できないのだから、
一日も早く、阿弥陀仏に助けていただきなさい。
それには、十方世界の功徳のおさまっている
南無阿弥陀仏を頂き、
浄土往生間違いない身になりなさい、
そして、お礼の念仏を称えられるようになりなさいよと
お勧めになっているのです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この例え話は、日本のみならず、アメリカ・ロサンゼルスの大学生たちも、
あるいはブラジル・サンパウロ州の片田舎の一軒家で聞いた人もあります。
言葉も文化も、生活習慣も、まるで異なる人々ですが、
このお釈迦さまの例えを聞くと一様に、身をのり出し、
食い入るように真剣に聞いていました。
それは、トルストイが言うようにこの話が、
社会や思想がどう変わろうと、決して変わることのない、
人間の真実を教えられたものだからです。

この人間の実相が真に知らされれば、
「なぜ仏教を聞かなければならないのか」
どころではない、
「人は仏教を聞くためにこそ生まれてきたのだ」
ということがよく理解できるでしょう。


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